六、創価学会こそ信心なき守文の徒

 貴殿ら創価学会と離脱僧は、歴代法主の書物に、数字・字句の間違いが有り、史実考証には十分な注意が必要≠ニ述べ、日因法主によると「第十四代日主上人御所持の御書目録の日記二十二巻聖人御難事の端書」には、『聖人御難事』の立宗に関する記述が「三月二十八日」と書写されている(『三四会合抄』上巻)≠ニして、日主上人が所持遊ばされていた『御書目録日記』において、『聖人御難事』の立宗についての日時を三月と誤写されていたにもかかわらず、血脈付法の「日主上人」による訂正がなかったと非難し、以て立宗が三月か四月かといった問題は、客観的な文献考証、それも御真蹟を第一に考えねばならないと主張している。
 ここでも貴殿らは読解力に乏しいため、日因上人の御指南の真意が理解できないらしい。日因上人は立宗三月二十八日の根拠となる真文として、日主上人御所持の『御書目録日記』を引用されているのである。
「十四代日主上人御所持ノ御書目録ノ日記二十二巻聖人御難書ノ端書ニ云、御法門仰出サルヽ事ハ建長五年太歳癸丑三月二十八日安房国長狭郡等云云。但シ現本御書ニハ四月二十八日ト有リ異本ニハ三月二十八日ト有ル也。和語式三 五十二ウ」(三四会合抄)
と『聖人御難事』は、原本には「四月二十八日」であるにも関わらず端書に「三月二十八日」と記されている事実を指摘されている。次いで「和語式三 五十二ウ」と記されている。そこには、
「聖人御難事(中略)四月二十八日、異本ニハ三月トアリ御真筆校合ノ本ニハ四月トアリ中興入道御書ニモ四月トアリ総シテ宗旨建立ハ異説云云」
と、『聖人御難事』の「四月」に「三月」の異説が存在することが記されている。そして日因上人は『安国論問答』『御伝土代』『御書目録日記』の記述を踏まえた上で、
「当山ノ先師多分三月二十八日云云」(三四会合抄)
と指摘されているのである。即ち『御書目録日記』の引用は、日因上人が『聖人御難事』の御真蹟が「四月」となっているにも関わらず、立宗が三月だとする伝承が宗門上古には存在したという事実を述べられているのであり、その伝承が存した事実を挙げられていることに対して、誤りであるなどと批判を加えること自体が筋違いも甚だしいのである。
 その傍証として、日道上人は『諌暁八幡抄』の御真蹟に、大聖人様が宗旨建立を「四月二十八日」と記されてある第三十三紙の、まさにその真裏に「二十八日」に因んで立てられた「誓願」や、「感得」があったことを記述しておられる。しかるに、『御伝土代』には立宗を「三月二十八日」と著されているのである。即ち『御伝土代』の「三月二十八日」の記述は『諌暁八幡抄』の「四月」の記述を充分に了承された上でなされたものであることは当然である。
 また、『聖人御難事』の御真蹟に目を向けると、「四月二十八日」の「四」の字を消して、その横に「参」と記されていることが分かる。誰人の手によるものかは不明であるが、大聖人の御直筆に四と書かれてある文字を、態々墨で消して、「三」と加筆訂正するには、よほど強い根拠と確信があったことと想像できる。
 これらの事が物語るものは、大聖人が宗旨建立について「四月二十八日」と書かれた御書が存在することを踏まえた上で、「三月二十八日」が立宗であるとする強固な伝承が存在したことの証拠であり、その事実は動かせないのである。またその伝承は相当強い根拠を持っていると拝され、そこにおいて俄然、明治八年まで、『開目抄』と共に身延に曽存した『清澄寺大衆中』の「三月二十八日」の記述がクローズアップされると言えよう。とすれば、『御書目録日記』の『聖人御難事』の端書に「三月」とあるのが単なる誤写であるとするのは全くの短見であり、むしろ意図的に書かれたものであることは充分考えられるのである。
 それをいとも簡単に立宗が三月か四月かといった問題は、客観的な文献考証によってこそ判定されるべきであり、それも宗祖の御真蹟を第一に考えねばならない≠ネどと平気で言ってのけるところに、貴殿ら創価学会と離脱僧の学解の浅さが明白に読み取れるとともに、日蓮大聖人の御指南の御真意を深く拝そうという信心がまったくない、単なる守文の徒≠ナあることを自ら暴露しているのである。
 先の『離脱僧らの邪難を粉砕す』でも述べたが、『清澄寺大衆中』と同時に明治八年に身延山の火災で焼失した『開目抄』は、曽存書ではあっても、その人本尊開顕の重大な意義の故に五大部として尊重せられる。斯様に、真蹟の存・不存を御書の意義内容を斟酌する基準としてはならないのである。愚昧にして謗徒の貴殿ら創価学会と離脱僧が、御真蹟のある御書のみを尊んで、大聖人の真撰であるにも拘らず、御真蹟のない御書を軽んずることは、まさに「法身の舎利」を軽んずる愚と同様であり、宗祖大聖人の御化導を土足で踏みにじる行為以外の何物でもないと呵しておく。
 また大聖人の仏法には御書の文面に顕れること以外に弟子に内々に申される御法門も存在するのである。御書を拝する上では御歴代上人の御指南を奉戴することは当然のことながら、ことに宗門上古の記録、記述をも注視すべきことは当然なのである。