七、『年中行事』が語る真実

 さて次に貴殿ら創価学会と離脱僧は、貴殿による二回の立宗会が前代未聞≠ニ、御法主日顕上人猊下が『開宣大法要』と『特別大法要』の二回の宗旨建立御報恩法要を奉修されたことに対して前代未聞という語句を使って誹謗している。しかし三十一世日因上人の時代に三月・四月の二回に宗旨建立法要があることは明確である。それでもなおかつ前代未聞と言い張ることは、白いものでも黒という類であり、貴殿らの異常性が浮き彫りになっていることをまず指摘しておく。
 更に貴殿らは、総本山の『年中行事』に関し、専門家の考証に耐えうる史料≠ゥ、文献解釈が公正適切かを証明せよ≠ニ述べ、更には、相承にまつわる自分の日記すら、裁判所に「出す」と言ってから二十年以上も現物を出せない卑劣漢≠ネどと、まったく突然に御法主日顕上人猊下を事実無根の暴言をもって、誹毀讒謗している。総本山の『年中行事』とは何の関係もない、相承にまつわる二十年以上も裁判所に出せない日記≠ニは一体何のことか。二十年も続いている裁判など、何処にも有りはしない。根も葉もない嘘八百の事柄をこのように作り上げて誹謗するのは、いつもながらの卑劣極まる貴殿らの得意の遣り口だ。虚偽の誣言で御法主上人猊下のお徳を貶めんとすればするほど、貴殿ら創価学会と離脱僧の許されざる悪徳体質が天下に曝されることになるのだ。それにしても相承に関する日記≠ニは何のことか。どうせ例の如く、捏造かハッタリの言であろう。言えるものなら、歯に衣を着せずハッキリ言ってみよとだけ告げておく。
 さて次に、貴殿ら創価学会と離脱僧は、御法主上人猊下が「開宣大法要」の御説法において、「日元上人御筆と記された日量上人写本の『総本山年中行事』には三月と四月の両二十八日に立宗報恩御講が行われていた記録もあります」と述べられたことに対し、曖昧な表現で逃げていると難癖をつけ、総本山第三十三世日元上人御筆の『年中行事』については様々な問題があるとして、行事帳の表紙は「文化十五年(一八一八)」と書かれているが、日元師は安永七年(一七七八)に逝去しており、表紙を見るかぎり、日元師の死後の作となってしまう。要するに、誰が書いたのか不明、執筆年代も不明、そのような史料を「日元上人御筆の『年中行事』」と言い張るとはどういうことか≠ニ邪難している。
 この件について述べれば、総本山には、第四十八世日量上人が、「第三十三世日元上人御筆也」と直筆で御認可された年中行事帳がある。この年中行事帳は、二枚目の表に日量上人がはっきりと「日元上人御筆也」と認められているにもかかわらず、この年中行事帳の一枚目に文化第十五年(一八一八)年中行事帳と認めた別の表紙が付いていたため、山口範道師が、かつて『蓮華』誌上で、この年中行事帳を紹介した際、「文化第十五年の年中行事帳」として掲載してしまったものと思われる。
 このことは、後で述べるように、本山にはさらにもう一冊の年中行事帳が残っており、この年中行事帳には表紙がないため、いつのものか判然としないままであったが、考査した結果、この年代未詳の年中行事帳こそが、文化第十五年の年中行事帳であると断定されるに至った。仮に便宜上、上記『蓮華』誌上の年中行事帳を『日元上人の年中行事帳』と呼び、後述の年代未詳の年中行事帳を『日量上人の年中行事帳』と呼ぶことにし、この二冊の年中行事帳について考察し真実を明らかにしよう。
 まず、『日元上人の年中行事帳』については、その執筆年代は内容的にみても日元上人の時代のものであったことは明確である。正月十二日の段に、根方栗田仙右衛門の御供養の品々に対しての日元上人の覚書が記されている。さらに、行事帳の最後の「七月盂蘭盆廟参御経次第」のところに、「二、自我偈三十巻 代々之数程」とあることから、第三十世日忠上人までの御報恩をされたことがわかる。つまり、この行事帳は日因上人御隠尊中の宝暦年間に執筆されたとわかるのである。
 つぎに、『日量上人の年中行事帳』についてであるが、こちらの執筆年代は文化十五年(一八一八)である。従来この行事帳は、執筆年代が未詳であった。内容から見ると、四月の段に、「日師之御代より五日ニ定ト云々」とあることから、第三十七世日上人以降に書かれたとは推定ができた。しかしこの度、本山総代の井出家の過去帳を調べることによって、文化十五年のものであることがわかったのである。つまり、この行事帳の正月の段に、狩宿の井出家からの新年の挨拶のことが記載されており、その井出家の当主の名前に「伊兵衛」とある。井出家の過去帳を調べたところ当主で伊兵衛とあるのは、文政元年(文化十五年・一八一八)八月二十三日に亡くなっている戒名「量円日崇」という方であることが断定できた。つまり、日元上人の年中行事帳の表紙に付けられていた「文化第十五年 年中行事帳」と書かれた一枚目の紙が実は従来年代未詳であった、この『日量上人の年中行事帳』の表紙であったと断定されるに至ったのである。
 さて次に貴殿らは、『年中行事』において、三月二十八日と四月二十八日についての「御講 如常」との記述があることをもって、立宗関連の二回の御講は、「宗旨建立会」として確立されたものとは言えない、つまり、立宗に三月説と四月説があるから当面は両方の日に「如常」の「御講」をやっておく、といった暫定的な報恩御講だった可能性が高い≠ネどと邪難している。
 確かに『日元上人の年中行事帳』をみると、三月と四月との二回に亘り、立宗会の御講を行っていることがわかるのである。しかし、「御講 如常」とあるだけだから、立宗会の法要とはいえない、などと邪難するのは、ばかげた屁理屈である。毎年当然として行われている行事においては、その名前を明記するものもあれば明記しないものもあるのだ。ちなみに二月七日の興師会においても御講とあるだけでどのような法要なのか記されていない。それに対し、十一月の目師会は前日に日目師逮夜とある。つまり、明記されるものもあれば、されないものもあるのである。
 ただしこの行事帳には、後にどなたかの手によって、三月二十八日の御講は、第四十三世日相上人の享和三年(一八〇三)からは中止されることになり、その代わりに五月一日の大行会が行われるようになったとの記述が追加されている。
 つぎに『日量上人の年中行事帳』では、三月と四月の二回立宗会の御講を執り行っている。ただし五月一日の大行会の箇所に、「三月廿八日御講相師御代より今日ハ大行尊霊御祥月ニ付御講御繰替」と記されている。
 このように、この二つの年中行事から考えられることは、日元上人の頃には立宗会が、三月と四月の両度に行われ、一時、日相上人の享和三年からは三月を止め、四月だけになっていたが、日量上人の文化十五年には三月の立宗会も再び行われたものと思われる。
 このように年中行事帳については、今回新たに判明した真実も加えて、当方の破折が正当であることが一層鮮明となった。それに対し貴殿らは、なんらの学究的検証もなさず、ただ誹謗のための屁理屈をこねまわしているにすぎない。貴殿らのこのような姿は、理性と知性が欠落した退転僧であることを如実に物語っている。
 更に貴殿ら創価学会と離脱僧は、「開宣大法要」の御説法において御法主上人猊下が、「金沢藩士福原昭房の享保二年九月付の『秘釈独見』なる書に「三月二十八日宗旨建立日 誦経」と当時の総本山の年中行事法式を書いてある反面、四月二十八日の文字はまったく見当たりません」と説かれたことに怨嫉し、「三月二十八日宗旨建立日 誦経」とはいっても、それは異端的で立宗会とは呼べないようなもの≠ニ中傷し、それは後代の因師が、自ら「初めて」三月立宗の法会を興行した、と『三四会合抄』に記していることからわかる≠ニいうが、それは「初めて」の語に迷うからである。前回の破折書に述べたごとく、日興上人の宗旨建立に対する御認識がすでに「三月」であることは動かない以上、日興上人における宗旨建立御報恩法要は三月であったと考えるのが自然である。それを日興上人は宗旨建立御報恩法要をされなかったとか、四月に行われていた、などと考えるのは間違いである。ならば次に拝考すべきは、日因上人がなぜ「初めて」と述べられたかである。
 貴殿らも当時の法主・日宥師は立宗三月説だったようだが、日宥師の法嗣で同時代に生きた日寛上人は逆に立宗四月説であられ≠ニいっているように、日寛上人は四月を表にされたようである。それならば、答えは決まっている。今、日因上人が近年では「初めて」三月にも宗旨建立会を行ったとの意である。だいいち「誦経」とは方便品・寿量品・唱題であり、法要の中心である。貴殿らの悩乱した頭では「誦経」以外に御報恩謝徳の修法があるように思えるらしい。「誦経」を行ったことを記録すると言う事、それ自体が宗旨建立会を行った証拠なのである。
 貴殿らはここで以上を整理しておこう≠ニし、近世宗門における三月立宗会は、かなり異端的な試みであった。『年中行事』なる文献に見られる立宗に因んだ二回の「御講」も、また福原記の三月二十八日の「誦経」も、ともに「宗旨建立会」と呼べるものではなかった。さらに、『年中行事』における三月二十八日の「御講」は一時的な試みにすぎず、十九世紀に入ると宗門から跡形もなく消え去った≠ニしている。そしてまた、御法主上人猊下の御報恩の両度の法要奉修が余程悔しく妬ましいらしく、宗旨建立法要を二回も行ったのは、紛れもなく前代未聞の奇行≠ニいい、貴殿の二回にわたる立宗七五〇年記念法要なるものが問題≠ニするのである。
 貴殿らが以上を整理しておこう≠ニいうので、当方も整理しておこう。上古宗門における三月立宗会は普通のことであり、近世においては三月にも四月にも、また両月とも行われていた。そして『年中行事』に見られる立宗に因んだ二回の「御講」も、また福原昭房の記の三月二十八日の「誦経」も、ともに「宗旨建立会」であった。さらに、『年中行事』における三月二十八日の「御講」は「常の如」き、毎年の恒常的なものであったと推測されるのである。
 前回の『離脱僧らの邪難を粉砕す』で我らが指摘したごとく、御法主上人猊下が御本仏日蓮大聖人への御報恩を深く期され、「三月」と「四月」に二回宗旨建立会を奉修申し上げたことに対し、宗旨建立会を二度行った≠ニ突如、青天の霹靂のごとくに騒ぎ出した創価学会や貴殿らが、全国の学会員を巻き込んで大騒ぎすることこそ、それこそ前代未聞の奇行なのである。
 そもそも立宗会を行うようになったのは日興上人の代と拝される。されば、上代先師方が三月二十八日に立宗会を修されたことも、また近代先師方が四月二十八日を立宗会と定め、四月説に基づいて立宗七百年法要を修されたことも、御法主日顕上人が二回にわたる立宗七百五十年記念法要を修されたことも、ともに御本仏大聖人の御意を体されたものであり、これに異議を唱える貴殿らの言動は、畢竟、貴殿らが邪僧邪教団であることの逆証明となったわけである。