八、「三月内証宣示」に関する邪難はすべて不当

 (1) 「三月内証宣示」は宗開両祖の御教示

 さらに、貴殿ら創価学会と離脱僧は、「三月内証宣示」説は、日顕(上人)一人から出た我説∞なぜ日達上人は三月二十八日に宗旨建立法要を修されなかったのか∞昨年まで、教学部はなぜ二回の法要を行わなかったのか∞本質的に言えば、大聖人への真の報恩は折伏弘教につきる∞ろくに折伏もせず、山寺に閑居して学会の悪口だけを生きがい≠ネどと御法主日顕上人猊下を誹謗し放題である。
 はじめに「三月内証宣示」説は、日顕(上人)一人から出た我説≠ノついて一言する。貴殿らの言は「三月内証宣示」は日顕上人のみが言いだしたような言い方である。だが、日因上人が『三四会合抄』を著された意義は、まさに「三月内証宣示」と「四月外用弘通」との会通にあるのである。更に遡れば、日道上人の『御伝土代』の三月宗旨建立の記述、更には日興上人の『安国論問答』の三月宗旨建立の記述を拝するとき、三月内証宣示は日顕上人の独創でないことは明白である。
 但し、今回御法主上人は、『清澄寺大衆中』『安国論問答』を徹して拝され、二十八日という日の意義から三月・四月の行蹟を拝する時、二回に亘る、宗旨建立と御説法の夫々に甚深の意義が具わるのであり、「三月」はご自身の内面的な妙法の悟り、御内証と共に虚空蔵菩薩への報恩等の念慮による仏法の初めての開宣という一面、「四月」はそれに基づいて衆生を広く化導遊ばされる一期弘通の開始という一面の両義を御指南なされたのである。その意味からは、「三月内証宣示」は大聖人の御教示と拝すべきなのである。
 また貴殿らは、日達上人が三月二十八日に宗旨建立会を奉修されなかったことを、鬼の首でも取ったかのごとく勝ち誇っているが、日達上人は『昭和新定日蓮大聖人御書』の中で、『清澄寺大衆中』『大白牛車書』『御義口伝』の文中における宗旨建立の日付を三月二十八日のままとされている。このことは日達上人が、三月内証宣示の意義を拝されていた証左である。
 その上で、日達上人は四月外用弘通の意義を面として宗旨建立法要を奉修されたのであり、その奉修には、隠顕の意義の上から、当然のこととして、三月内証宣示の意義も含まれているのである。また貴殿らが「教学部」と勘違いしていると思われる総本山における宗旨建立会の化儀も、これと同様であると申しておく。

 (2) 真の報恩は広布の礎三十万総登山にあり

 また次に貴殿らは、大聖人への真の報恩は折伏弘教であるとしているが、そのようなことは貴殿らから言われずとも、既に平成二年大石寺開創七百年の年以来、宗門は御法主日顕上人猊下の御指南のもと、日本はおろか、全世界において広宣流布へ向け、折伏弘教に全力で精進している。
 すなわち平成二年の三万総会、平成六年の地涌六万大総会、平成十年の客殿落慶十万総登山、そして本年、平成十四年宗旨建立七百五十年法華講三十万総登山である。この広宣流布への前進は、貴殿ら創価学会や離脱僧の行っている邪教の広宣流布と違い、真実の広宣流布の戦いである。
 すなわち日蓮大聖人は、
「総じて日蓮が弟子檀那等自他彼此の心なく、水魚の思ひを成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱へ奉る処を、生死一大事の血脈とは云ふなり、然も今日蓮が弘通する処の所詮是なり。若し然らば広宣流布の大願も叶ふべき者か」(御書五一四)
と仰せであられる。この広宣流布の要諦たる生死一大事の血脈とは、所詮、唯授一人の法体の血脈相承を根本とした僧俗一致の信心の血脈以外にはあり得ないのである。
 日達上人も御指南のごとく、貴殿ら創価学会と離脱僧の広宣流布はニセの広宣流布であり、一切衆生を堕獄せしめる所業である。それに対し、日蓮正宗の僧俗一致の広宣流布の戦いこそ、立正安国・世界平和を実現する真実の広宣流布であることを知るべきである。
 その広宣流布の戦いを厳然と進める中で、御法主日顕上人猊下は、画竜点睛、御報恩の意義を込められ宗旨建立七百五十年の大佳節に両大法要を奉修遊ばされたのである。
 貴殿らは、日顕上人猊下を折伏もせず≠ニ誹謗するが、七十年余の僧道における教化・育成・折伏の振る舞いこそは、すべてが広義の折伏実践でなくして何であろうか。しかも、平成二年の法華講三万総会の結集以来、本年の法華講三十万総登山に至るまで、御法主上人猊下の骨身を削る御教導があったればこそ、法華講は大折伏戦を展開することができたのである。
 貴殿らの首魁、池田大作はそれが余程悔しいのだろう。「開宣大法要」への狂気じみた誹謗も、貴殿らの常套語を使えば、御法主上人猊下への池田大作の嫉妬から起きたものというほかはない。
 ところで最近、長年池田大作に仕え、弟子第一号といわれた原島嵩氏が『池田大作創価学会の真実』なる著書を上梓された。そこには池田大作の凄まじいまでの、仏法利用の謗法行為と、金権体質、煩悩の限りを尽くした悪業の数々が述べられている。いずれこれらの憤懣が、創価学会の内部から噴き出したときは、池田大作と創価学会は、まさに赤色巨星が崩壊するがごとくに、遂に断末魔の終焉を迎えよう。もし万一、現状のまま臨終を迎えたとしても、今度はより恐ろしい無間地獄が大きな口を開けて待っているのだ。貴殿らもその付き合いをしたくなかったら、一刻も早く、創価学会から逃れ、懺悔滅罪を図るべきであると言っておく。

 (3) 他宗の僧の参詣許可は本宗の化儀

 また貴殿らは、日蓮宗の僧侶が大石寺を見学したことがよほど悔しいらしい、何がそんなに悔しいのか、日有上人の『化儀抄』にも仰せのとおり、本宗は、正法護持・謗法厳誡の信仰の上から謗法の供養はけっして受けないが、一切衆生を成仏せしめるために、謗法者の参詣については、これを認可している。とは言っても勿論、謗法の法衣を着しての参詣は認めない、俗服に限るのである。大石寺に参詣したこれら謗法の僧侶達が、正境に縁した功徳により、いつか将来、正法に帰依する仏縁を結び、自分たちより先に地獄を抜け出すことが、第六天の魔王の配下の貴殿らには、余程悔しくて仕方がないのであろう。哀れなことである。

 (4) 大石寺近辺の神社は謗法にあらず

 また貴殿らは本山近郊の神社についても種々誹謗している。先ず最初に明確にしておく事は、本山近郊の神社とは一般的な神道の神社ではない。何百年も昔から、日蓮正宗の御本尊を御安置した社であり、信仰の対象はあくまで御本尊であるから謗法ではないのである。したがって、当該神社は、古来、広宣流布の時に日本中の神社がそうなるように、正宗の神社として、御歴代上人の御本尊が御安置されてきたのである。
 しかるに、学会問題勃発以降、何者か(!)が、この御本尊を盗み出すという事件が処々で頻発した。氏子中の多くは本宗信徒であり、日頃手を合わせてきた御本尊が在さない事を嘆き悲しむ方が多く居られた。このことを御信徒から相談を受けた御住職が、それらの御信徒の願いを入れ、盗まれた御本尊の代わりに、日顕上人の御形木御本尊を御安置申し上げたのである。貴殿らは、謗法の神社に対して、謗法の者からの願いを受けて、御本尊を下附したかのように言うが、事実は右のごとくである。

 (5) 富士年表に関する渡辺慈済の呆れた虚言

 次に貴殿ら離脱僧と創価学会は、日達上人御登座中に出版された日蓮正宗栄光会編『日蓮大聖人伝』に関して、その記述中に「三月二十八日に、宗旨建立の内証を宣示」とあることを、当時富士年表作成委員であった離脱僧、渡辺慈済はどう説明するのかと当方が指摘したことに対し、またまた虚偽捏造の駄文を書き残している。
 すなわち『日蓮大聖人伝』における三月二十八日の「宗旨建立の内証宣示」説は、『富士年表』の中の「3・28安房清澄寺に宗旨建立の内証を宣示」との記述に準拠している。そこで『富士年表』の立宗内証三月説こそ問題である。当時日達上人は四月説であられ、三月説は退けておられた。ところが同年表の編集の際、日顕(上人)が声高に立宗三月説をも盛り込むことを主張し、結局、そのゴリ押しにより、『内証』という表現を使って三月立宗の説が『富士年表』中に付加された≠ニいうものである。
 しかも貴殿らは、これらにつき、渡辺師も「当時の事情には精通している」だの、「後世の宗徒のために真実を書き残しておく」だのと、偉そうにご託をならべている。
 しかるに、当方が当時の『富士年表』作成委員の方々に事実を確認したところ、貴殿らの駄文はただの駄文ではなく、全くの捏造虚言であることが判明した。よって後世の同心の徒のためにも、貴殿ら離脱僧と創価学会の虚言を明確に書き残しておくこととする。
 富士年表の作成会議は昭和三十五年に始まった。しかし、同年九月二十七日の第一回委員会は顔合わせのみで、実質的検討が行われたのは同年十一月二日の第二回委員会からであった。年表作成委員会の委員長は柿沼広澄師(故大東院日明能化)であり、御先師日達上人には、第一回目の委員会と、実質的な検討を始めた第二回目の委員会にのみ御出席になられ、第三回目以降は御出席にはなられなかったのである。また、この当時日顕上人はまだ教学部長にはなられていない。佐藤舜道師(故本種院日成能化)が務めておられた。
 ところで問題の「3・28 安房清澄寺に宗旨建立の内証を宣示」の件であるが、富士年表作成委員会は大聖人の御誕生以降、近年に至るまでの主要な項目を掲載するため始められたのであるから「建長五年宗旨建立」に関する検討は、当然、最も早期に属し、実に日達上人が御出席して開催されたこの第二回委員会の検討において既に行われていたのである。
 貴殿ら創価学会と離脱僧は、日達上人は四月説であられ、三月説は退けておられた。ところが日顕(上人)が声高に立宗三月説をも盛り込むことを主張し、結局、そのゴリ押しにより、三月立宗の説が『富士年表』中に付加された≠ニ言う。
 しかしこれは全くの捏造話しである。もともと『富士年表』の作成を発願されたのは、御先師日達上人であられ、その御命により、既刊の年表類を参考に検討用の草稿が叩き台として、既に担当委員によって用意されていた。その宗旨建立に関しては「4月(一説3月)28日清澄寺に立教開宗」となっていた草稿を元に審議された結果、何の問題もなく当初から「建長五年三月廿八日 清澄寺に於て宗旨建立(御内証)」「建長五年四月廿八日 清澄寺に於て宗旨建立(宣言)」と日達上人の御臨席の場で、異議なく決定したのである。もしこの時意見が割れるなど紛糾すれば再度検討のため研究課題になったのであるが、そのような問題にならなかったこと自体、スムーズに決定した証明といえるのである。
 日顕(上人)のゴリ押しで決まった≠ネどと、見てきたようなことを述べているが、この時点では渡辺慈済は未だ年表委員に任命されていない。現場にいた筈もない者が、どうしてこのようなことが言えるのか、まったく貴殿らの虚言には呆れ果てる。
 その後、文体の修正が加えられて三月は「清澄寺に宗旨建立の内証を宣示」四月は「清澄寺に立教開宗」となり、最終的に出版にあたって、両月とも寺名の前に「安房」の二文字が追加され、現在の『富士年表』の記載となったのである。
 そこより翻って、渡辺慈済の証言によるであろう貴殿らの駄文を見るとき、全くの嘘八百が明白である。慈済よ、霊山に在す父君で年表の作成委員でもあられ、この第二回委員会にも出席していた観心院贈上人にどのように大ウソの申し開きをするのか。尤も妄語と謗法の罪により、堕獄必定の慈済であるから、気の毒だが霊山で父君にお会いすることはできまい。不愍不愍。