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(日顕上人の御指南に「日亨上人批判」など存在せず。)

 (2)堀日亨上人への無慚・稚拙な邪難を破す
一、貴殿が日精擁護を繰り返すことには、日精を厳しく糾弾した歴代法主をないがしろにできるという貴殿の思惑が見え隠れしている。とりわけ貴殿の標的は近代の大学匠である堀日亨上人であることは衆目の一致しているところである。
 貴殿が、日亨上人の宗内における精神的地位を引きずり下ろそうと野卑な言葉を常々繰り返していることは、宗内僧侶のだれもが耳にしていることである。

 日顕上人が日亨上人の宗内における精神的地位を引きずり下ろ≠キ必要がどこにあるのか。また日顕上人が日亨上人を標的にしていることが衆目の一致しているところである≠ネどとは、根も葉もない例の偽言にすぎない。日蓮正宗にそのような衆目≠ヘ金輪際存在しない。もしあるというならその証拠を克明に出してみよ。貴殿ら邪教徒の衆目の一致≠ナあるとするならば、そのような衆目≠ヘものの数ならず、千人万人の衆目が一致しようとも、仏法の正しい道理の前には、千・万の節穴に過ぎないのである。

 平成四年八月、全国教師講習会で貴殿が「堀上人がね、チョットわけわかんないようなことをおっしゃってる。こりゃそうなんだよ。堀上人はね、学者だから」と、堀日亨上人をくさしている。これは大勢の人々が直接に聞いたことである。
 ここでわけわかんないこと≠ニは、日亨上人が日精を生涯、造仏読誦論者であると批判したことにほかならない。日精をかばうことで、結果として、日亨上人の日精批判が過ちであったと言う効果を期待していると見られても仕方がない。

 日顕上人は、大聖人以来、日精上人・日亨上人等、歴代の御法主上人が身命を賭して伝持されてきた血脈を所持遊ばす唯一のお方である。御歴代上人は血脈伝持の上から三宝一体の境界にましますのであり、もし御先師の御指南に誤解が生じることがあれば、それを正しい理解に教導下さるのも御法主上人の権能として当然具わるのである。
 貴殿は日精をかばうことで、結果として、日亨上人の日精批判が過ちであったと言う効果を期待していると見られても仕方がない≠ネどと述べるが、かかる悪口は、貴殿らのねじ曲がった謗法の根性から出てくるたわ言に過ぎない。
 このことについて日顕上人は、
堀上人が少し誤解を生じるような客観的表現をされておられるのです。堀上人は学者であられましたから、主観的に信念をもって論述なされることを極力、避けられて、歴史的文献に対して、非常に客観的に考察して意見を述べられることが多かったのです。(大日蓮 平成四年十月号二四頁)
と述べられ、また、
学者という立場ではなく、信仰という主観的立場に立たれての言であるならば、そこのところをもっとはっきり、実義において相承が伝わっていると仰せになったと思うのであります。しかし、そうではないと断定なさらないところが、堀上人の学者としての表現のところでもあり、あくまで文献や資料に対する客観的、学究的立場を考えられるわけです。
しかも、そのような意見をお述べになったあとに、
「此は局外者の抽象的の議論である。直に宗門教権の大事を批判すべき標準にはせぬが宜い」(大日蓮 大正十二年四月号一六頁)
と、御相承という大事を全く信解することのできない部外者という立場に立っての論であることを付記されているのでありますから、この論が御相承をお承けあそばされたお立場に立っての言ではないこと、また、堀上人のその他の論やお言葉についても、学者的、局外的立場に立っての論の多いことに我々は注意しなければならないのであります。(同二六頁)
と述べられている。すなわち日亨上人は御自身が述懐されるように、論述中に信仰者としての立場を離れた、学者としての客観的な意見を述べられることが多かったので、『富士宗学要集』の頭注等、日亨上人の著述中の御意見をもとに、他の者が日精上人等の御歴代上人に批判を加えることは、日亨上人の御意に悖ることであり、道義に反することであると、仰せられているのである。
 また日亨上人が、『富士宗学要集』などを編纂なされた目的は、宗門僧俗がいよいよ、それらをもって仏法を深く研鑽し、もって大法興隆のために資することを願われたものである。よもや貴殿ら創価学会のような悪逆の不埒者が顕れて、御自身の研究を利用して、歴代御先師を誹謗するというような仏法破壊の悪行に及ぶとは、思いもよられなかったことであろう。
 大聖人の仏法において学を志す者、以信代慧の御聖訓に則り、一信二行三学の精神で勉学をすることが「イロハ」である。宗史を研鑽する上においても、信心をもって宗門七百五十年の歴史を紐解くことが、大前提である。
 そもそも文献に対する考察においては、その文献がいつ、誰によって、何の目的で、誰にあてて記されたものか、それを解明しなければ、その文献について正しい理解を得ることはできない。大聖人の御書においても、特に、御相伝の上からの理解、また佐渡以前・以後という法門開陳の時期の問題、対告衆の問題、それらを理解しなければ、御法門の正しい理解を得ることは絶対にできないのである。日亨上人は、今まで公開されなかった文献を、広く公開するに当たり、至らない初心者が文献を見誤り、迷いを生じないための配慮から、当面の文面理解を誤らないよう、客観的な立場から注を付されたのである。しかるに、それをもとに日蓮正宗の御先師を誹謗することなど、全く不本意も不本意、言語道断であると、さだめしお怒りであられると拝察申し上げる。
 日顕上人が、日亨上人の付された「注」の意義を明らかにされることは、日亨上人の宗内における精神的地位を引きずり下ろ≠キものなどではなく、反対に創価学会によって歪められた、日亨上人の御意を恢復されるものである。頭注をもとに御先師や、御当代日顕上人を誹謗することは、とりもなおさず日亨上人の御意を踏みにじる逆賊の所為と知るべきである。

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