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(日達上人に対しての傲慢無礼、正本堂解体の理由は学会の悪逆にあり。)

一、貴殿は常々、学会攻撃にかこつけて、正本堂をはじめとする先師・日達法主の種々の事績を破壊し、様々に先師違背を繰り返してきた。貴殿は先人の歴代法主を尊ぶどころか、反対に、幼稚なまでに自分が一番偉いように思わせることに異常な執着をもっている。貴殿における法主絶対論の本質は自己絶対論≠ノほかならない。ゆえに貴殿は、自己顕示のためには、先師の業績であろうと、仏法そのものであろうと破壊することを辞さない。「天魔は仏法をにくむ外道は内道をきらふ」と大聖人が仰せのとおりである。その「魔性」こそが貴殿の本質なのである。
 この貴殿の文章に、傲慢な創価学会の体質が、如実に現れている。貴殿が口を極めて誹謗する日精上人に対して、先に日精法主≠ニも言っていた。日亨上人に対しては日亨上人≠ニ言い、ここに至って日達上人に対して日達法主≠ニ言っている。貴殿は、自分の都合に合わせて御法主上人の呼称に差をつけている。つまり法主≠ヘ単なる職名で、敬称の上人≠ナはないぞ、と言いたいのであろう。先師の業績≠ネどとは聞いて呆れる。自己中心的な判断で御法主上人に差別を設ける貴殿のような尊大な者に、慇懃無礼な扱いをうけられる日達上人こそ、不愉快この上ない思いを致されていると拝察申し上げる。
 また、貴殿は日顕上人に対しても、鸚鵡(おうむ)のごとく相も変わらず「法主絶対論」などと誹謗しているが、それが全くの見当違いであることは前に述べたとおりである。
 さらに幼稚なまでに自分が一番偉いように思わせることに異常な執着をもっている≠ニの語は貴殿らの巨魁(きょかい)、池田大作の姿そのままではないか。『聖教新聞』紙上では、連日「名誉○○」の称号授与を報道されている池田大作であるが、それほど素晴らしい功績があるはずの池田大作が、三大新聞はおろか地方紙にすら取り上げられない事実をどうみるのか。世間では、池田大作の、「名誉○○」授与にうさん臭いカラクリがあることを重々承知しているのだ。世間を甘く見てはいけない。池田大作がほしがる「名誉○○」こそ、幼稚なまでに自分が一番偉いように思わせることに異常な執着をもっている≠アとの象徴であり、創価学会による「池田大作絶対論」の証明なのである。

 貴殿の「自語相違」の体質も、その魔性から起こっている。例えば、貴殿は正本堂を破壊したが、そのために正本堂を将来、本門寺の戒壇となるべき大殿堂と定めた昭和四十七年四月二十八日の日達法主の訓諭をも簡単に覆したではないか。訓諭は宗門の公式見解ではないのか。
 さらに言えば、その正本堂の意義を宣揚したのが当時の宗門の教学部長であった貴殿ではないか。自分の言葉も、自分が信ずる法理も否定し、覆していくのが魔性から起こる究極の自語相違である。正本堂をめぐる貴殿の自語相違は裁判所も認定したほど明確なのである。

 貴殿はここで池田大作の大慢心の象徴である正本堂について触れているが、貴殿らにとって正本堂解体はよほど癪(しゃく)に障ると見える。
 正本堂を将来、本門寺の戒壇となるべき大殿堂と定めた昭和四十七年四月二十八日の日達法主の訓諭をも簡単に覆したではないか≠ニは片腹痛し。もしそれを言うなら、そのような状況を現出した責任は一にかかって創価学会にありと告げておく。
 日達上人は正本堂完成奉告大法要の慶讃文において、
事の一念三千本門戒壇の大御本尊を安置し奉る此の処は即ち是れ本門事の戒壇にして真の霊山、事の寂光土なり。(中略)広宣流布の大願成就を祈念して無二の地球上に平和と幸福をもたらし現世に常寂光土の実現あらんことを。(大日蓮 昭和四十七年十二月号一三頁)
と正本堂は戒壇の大御本尊御安置の意義に約して、現時における事の戒壇であり、正本堂では広宣流布を祈念するのであって、広宣流布の時そのものは将来に属することを明言されているのである。また、
本門事の戒壇の御本尊在す所が本門事の戒壇で、誰が建てたからという理由で事の戒壇となるのではありません。(日達上人全集第二輯六―四二六頁)
と正本堂という建物自体に特別の意義があるのではなく、正本堂を「現時における事の戒壇」と称する理由は、あくまで戒壇の大御本尊を御安置することによる旨を明確に御指南されているのである。
 ところが、日達上人のこの御指南に不満を懐き、戒壇建立の大誑惑を謀った不埒者がいる。これについて元創価学会教学部長の原島嵩氏は、
「本日、七百年前の日蓮大聖人の御遺命が達成されました。ありがとう」
昭和四十七年十月十二日の正本堂落慶奉告大法要が終わって下山バスの乗客に、池田は側近を使ってこう伝言させました。これが池田の本音でした。池田はなにがなんでも正本堂建立をもって、日蓮大聖人の御遺命の戒壇建立とすることに固執していました。(妙教 平成十二年五月号六二頁)
と証言している。つまり池田大作は、表向きは日達上人に従わざるを得ないが、内心は自らが「広宣流布を達成させ、大聖人が未来に託された戒壇建立を成し遂げた」ことにしたかったのである。日達上人の御指南をねじ曲げて、大それた誑惑を謀った張本人こそ池田大作なのである。誠に恐れを知らない}慢この上ない大謗法ではないか。さらにその後、池田大作は自らの意に添わぬ日達上人に強い不満を募らせ、遂に昭和五十二年、創価学会は所謂「謗法逸脱路線」を歩み始めた。この教義上の逸脱による、数々の謗法を宗門から指摘された池田大作をはじめとする創価学会首脳は、事態の収拾を計るべく、日達上人及び宗門に平身低頭謝罪し、恭順のポーズを取ったのである。昭和五十三年十一月七日の通称「お詫び登山」の席上、北条浩は、
問題を起こした背景に、宗門の伝統、法義解釈、化儀等に対する配慮の欠如があったことを率直に認めなければなりません。(中略)創価学会は昭和二十七年の宗教法人設立時の三原則を遵守し、日蓮正宗の信徒団体としての性格を、いっそう明確にしてまいる方針であります。(聖教新聞 昭和五十三年十一月八日付)
と、謗法を詫びた上で三原則遵守を確約し、同じ席上、辻武寿は、
唯授一人、血脈付法の猊下のご指南に従い、正宗の法義を尊重してまいりたいと思います。(中略)猊下のご指南に、いっさい従っていくことを、忘れてはならないのであります。(同)
と、両首脳は宗門僧俗を前に学会の基本路線を確認し、前非を謝罪した。その後池田大作は自ら会長を辞任し、そして、ようやく許しを得たのである。
 ところが平成二年になると池田大作は、昭和五十二年路線を振り返って、
五〇周年、敗北の最中だ。裏切られ、たたかれ、私は会長を辞めさせられ、ね。もう宗門から散々やられ(大日蓮号外 学会問題の経過と往復文書二三頁)
などと発言した。支離滅裂ではあるが、要するに「会長を辞めさせられ」「もう宗門から散々やられ」と発言したということは、池田大作が教義逸脱問題を収束させるため、責任を取って会長を辞任したのは、本心からのものではなく、ポーズであったことを自ら暴露したものである。
 これは当時の創価学会の謗法逸脱を、池田大作の反省懺悔の上に寛恕された日達上人の御慈悲を踏みにじるものであると同時に、池田大作の中では、正本堂建立をもって、自分が「大聖人が未来に託された戒壇建立を成し遂げた」としたい、との野望が延々と燻り続けていたということが明確になったのである。また破門後は、手の平を返したように、会員に日蓮正宗の悪宣伝と共に、信仰の根幹である本門戒壇の大御本尊への参詣停止を働きかけるなど、池田大作や学会執行部には信心のカケラもなかったということが判明したのである。信徒団体としての本分を逸脱し、かつての謝罪を吐き捨てるように反古(ほご)にした、この池田大作の腐り果てた性根、謗法の野心こそが正本堂解体の理由なのである。
 斉藤克司よ、身の程知らずに池田大作受け売りの恨み節を並べるのではなく、正本堂解体の経緯を正しく認識し直すよう告げておく。


 同じ貴殿の魔性が、日精問題においても、日亨上人否定という形で現れたのである。大学匠・日亨上人を越えることで、学問のうえでも自分が偉いと皆に思わせたい。そうした魂胆があまりにも見え透いていると宗内でも言われているようだが、自分が刻苦勉励して先人の実績のうえに全体の水準を上げようと努力するのならともかく、自分を目立たせるために歴代法主をないがしろにしていくのは、あまりにも稚拙な手法であり、仏法者としてあるまじき不知恩の所為にほかならない。その結果、日精の謗法をも正当化してしまうという仏法破壊にまで至ったのである。
 魔性から来る貴殿の先師否定・仏法破壊の態度が、時局班の作成した文書にも反映し、日亨上人軽視の無慚にして稚拙な文言があふれる結果となっていると思うがどうか。

 またも、御当代日顕上人が学問のうえでも自分が偉いと皆に思わせたい。そうした魂胆があまりにも見え透いていると宗内でも言われているようだが≠ネどと、全く根も葉もない言い掛かりをつけているが、虚言・姑息・卑怯を常とする貴殿らの主張の下劣さには慨嘆を禁じ得ない。この件も一体宗門のだれが、いつ、どこで発言したのか、明確な根拠を示せ。示し得ないなら例の偽言であると呵しておく。
 先にも述べたが、日顕上人による日精上人についての御指南は、貴殿ら創価学会から起こった邪難に対するものである。また日顕上人に対して自分を目立たせるために歴代法主をないがしろにしていく≠ネどとは、開いた口がふさがらない。御歴代上人をないがしろ≠ノする、仏法破壊の悪の中の極悪とは、貴殿ら創価学会自身ではないか。貴殿らが悪言する日精上人は、歴とした第十七世の御歴代上人である。また日亨上人が「日精上人は御歴代上人ではない」と仰せられたことが一度でもあるのか。矛盾撞着(どうちゃく)も甚だしいものである。
 貴殿の言う先師否定・仏法破壊の態度≠ニは、貴殿及び創価学会の日精上人誹謗こそ、悪の中の極悪であり、まさにそれに当たるのだ。そして、その邪難を破折するための日顕上人の御指南こそ、日精上人及び日亨上人等、大聖人以来の御歴代上人の御意に叶ったことである。御高徳にして学識高く、浄らかなお心の日亨上人のことである。自著について生じた誤解や、些少(さしょう)の間違いなどはむしろ、後人が真意・真義を明らかにすることを、本望とされるはずである。
 創価学会が日亨上人の御編著をもって宗門誹謗を行うことは、日亨上人を褒むると雖も、日亨上人のお心を踏みにじる行為にほかならないと知れ。

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