御法主日顕上人猊下に対する浅井昭衛の

         不遜なる「対決申し入れ書」を破折す


   (二)謗法与同≠フ暴言を破す



 次にその二は、戒壇の大御本尊に敵対している身延派の悪侶等を幾たびも大石寺に招き入れたこと≠ニの暴言を破す。


         [大石寺の見学許可は本宗古来の大慈悲の化儀]


 貴殿は戒壇の大御本尊の敵たる身延の謗法僧を、しばしば大石寺に招いている≠ネどと述べるが、全くの勘違いである。大石寺は見学の申請には応じるが、見学者を招いたことなどはないのである。もとより総本山大石寺の境内は、宗旨を問わず見学することが許可されている。それは今に始まったことではなく、大石寺は昔より、一切衆生を順逆ともに御本尊に下種結縁させんとしてきたことによる。従って日蓮正宗の各寺院に於ても御本尊は常に御開帳され、御不敬がない限りに於て、あらゆる人の参詣を可としているはずである。大石寺に於てもしかり、この理由によって宗旨を問わず見学を許可している。
 貴殿は日蓮宗の僧侶を高野日海をして蓮葉庵において饗応せしめた≠ネどとも述べるが、貴殿が招き入れたという、日蓮宗の僧侶の中には、高野尊能化の大学の同窓生が居たのである。そこで特に高野尊能化が見学者に対応され、蓮葉庵にてお茶を出したという程度のことである。饗応せしめた≠ネどとは針小棒大の創価学会の怪文書そのままの受け売りではないか。貴殿はいつから創価学会の飼い犬となったのだ。
 貴殿は一行を案内したのは大石寺内事部理事・小川只道。しかもこの小川は、帰着した佐藤順映に礼状まで送っている≠ネどと述べるが、小川理事が日蓮宗の僧侶の案内をした経緯はなく、内事部の職員が案内したのである。また、小川理事の名で出された手紙であるが、それは礼状でも何でもない。謝礼として届けられたものを断るための手紙だったのである。その趣旨は「謗施を受けず」ということにあるのであり、貴殿の批判は「切り文」の邪難に過ぎない。
 即ち、謗法者に相対するのも、時と場合による。日蓮正宗の僧俗も時に学問の研鑽のために、他宗寺院に見学に行く場合がある。日有上人は、
学問修行の時は宗を定めざる故に他宗の勤め行事をなし、又他宗のけさ衣をかくる事一向子細なきか、宗を定むる事は化他門なり、学問修行は自身自行なるが故なり云云。(化儀抄・聖典九八三頁)
但し物見遊山なんどには神社へ参らせん事禁ずべからず、誠に信を取らば謗法の人に与同する失あり云云。(同九八七頁)

と御指南され、学僧は学問修行においては他宗の勤行をし、他宗の法衣を着することをも可とされている。また僧俗を問わず信仰的な参拝でなければ、他宗寺院を見学することも可とされている。
 このように本宗に於て、他宗寺院を見学することは学問の上で認められることであり、それは謗法ではない。また逆に、他宗の僧侶が見学を申し出てきた場合にこれを許可することは、先に述べた如く、他宗の僧侶も含め一切衆生を正法に結縁させる上からも当然のことなのである。本宗古来の化儀の精神をよく学べと呵しておく。


         [山崎講演への悪言は事実誤認]


 貴殿は山崎氏の講演により、かくて身延僧の大石寺参拝が実現したのである≠ニしているが、先に述べたように身延派の僧侶に大石寺見学を許可したのは古来の慣例通り対応したまでであり、山崎氏の講演とは全く無関係である。
 また「日蓮宗新聞」の所載であれば、貴殿が知らぬはずがない≠ネどと『日蓮宗新聞』の記事だから御法主上人が御承知であるなどというのは、全く的はずれの難癖である。『日蓮宗新聞』は日蓮宗の機関紙である。御法務で多忙を極める日蓮正宗の御法主上人が、一々他宗の新聞の内容を知る必要はないのである。
 山崎氏の講演であるが、本人にその内容を確認したところ、それは次のようなものであった。まず山崎氏は当日、教義的見解を交えないで、学会がいかに反社会的であるかについて講演を行う約束になっていた。ところが講演の後に、『板本尊偽作論』等について質問があったので、山崎氏は「『板本尊偽作論』は、日蓮正宗からさんざんに破折されたばかりか、名誉毀損でも訴えられて安永弁哲が破れ、以来、日蓮宗においてもタブー視されています。そのことに触れた上で、私はなぜ名誉毀損となったのか、なぜ日蓮正宗側の破折でぼろぼろにされたのか、そのことをあらためて、きちんと掘り下げて研究するべきだ、と苦言を呈したのです」「宗旨の根本に関わる御本尊の問題について、浅はかな議論をふっかけて返り討ちに遭いながら、それを何とも思わず放置していることに対して、宗教者として怠慢ではないかと、指摘をしたのです」「あくまでも私の信ずる法義までも述べることは、場が違いますので、彼らが真の求道者ではないことだけを、彼らにも判るように指摘するに止めました。しかし、むろん真の求道者として、道を求めれば、必ず真実の大御本尊に行き着く、という確信を心に持って、話したつもりであります」との存念、表現をもって日蓮宗の謗法を指摘したのである。それが『日蓮宗新聞』の記事では脈絡を考えずに一部分だけが記事になり、誤解を生じたまでのことである。
 併せて山崎氏は「恐れ多くも猊下の意を賜って身延派工作をしたことなど一度もありません」と証言し、戒壇の大御本尊への絶対の信心と、御法主上人猊下への信伏随従を誓っている。そして現在でも、御法主上人の仰せの如く、学会破折の急先鋒として活躍しているのである。
 貴殿も、過去の過ちを認め潔く反省懺悔した山崎氏を見習うべきであろう。論語に「過ちては則ち改むるに憚ること勿れ」とある。大聖人の仏法は一切衆生成仏の大直道である。貴殿も過去から現在に至る漫々の御法主上人誹謗の大罪を改悛し、戒壇の大御本尊および御法主上人に死身の懺悔をするならば、御本仏の大慈大悲の一分をうけることができるかもしれぬ。しかし、いかに懺悔しても「千劫阿鼻地獄」の大苦を免れないことを覚悟すべきである。しかるに貴殿は今、大聖人の仏法を恣にし、我独り賢しと、どこまでも己義を押し通そうとしている。そのような無慚無愧の堕獄決定者に、山崎氏のことを云云する資格はない。山崎氏の態度は貴殿よりはるかに立派だからである。


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