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       退転者・松岡雄茂の邪論を破す
                ─創価学会─



      悪辣さが増した松岡の邪論

 『大白蓮華』(平成十七年九月号)に松岡雄茂の「『法主信仰』の打破」と題する邪論が掲載された。これは先に『現代の大石寺門流における唯授一人相承の信仰上の意義』なる松岡の悪書に対して、日蓮正宗青年僧侶邪義破折班が徹底的に破折を加えたため、松岡および創価学会幹部が考え出した、悪辣さの増した邪義である。
 松岡は前悪書で、本宗の血脈相承の内容とは三大秘法義であり、日寛上人の『六巻抄』はこれを理論的に開示したものであるから、だれでも『六巻抄』を読めば、血脈付法の御法主上人と同等の教義理解を得られる、との邪義を述べた。
 ところが、今回『大白蓮華』に掲載した内容では、前悪書の邪義の上に、さらに本宗の御法主上人に対する信伏随従の信仰の在り方を「法主信仰」であるとし、それは左京日教師等の要法寺系僧侶が作り上げたものであるかのように偽った上で、日寛上人がこの法主信仰を『六巻抄』で除外された、とする悪辣な邪論を展開している。詳細は邪義破折班による破折書に譲るが、ここでは要点をかいつまんで破折する。


      『六巻抄』の正意

 『六巻抄』の内容は、日寛上人が唯授一人金口嫡々の血脈相承を根本とされ、そのところから他門の誤りの矯正と破折を含めて、当門の僧俗へ真実の正義を述べられたものである。それが『六巻抄』である。要するに日寛上人の『六巻抄』は、唯授一人血脈相承が根本となった上で開示されているのだ。
 その根本を信じて『六巻抄』を学ぶ者は、本末究竟して正しい信解を得るに至る。しかるに松岡の如く、根本の血脈を否定して『六巻抄』を読んでも、根本の法仏の妙智を失う結果、邪智邪解のみの見解となるのである。日蓮大聖人の、
「智者・学匠の身と為りても地獄に堕ちて何の詮か有るべき」(御書 一五一九・)
との破折は、まさに松岡に当たっているのだ。


      「法主信仰」は要法寺出身者によって作られた?

 松岡は、
「日教は、『穆作抄』に『閻浮第一の御本尊も真実は用なり』と述べている。ここでいう『御本尊』が、大聖人の顕された御本尊を指すとすれば、日教の本尊観は“法主が体で、御本尊は用”ということになる。これは、本末転倒の『法主信仰』である」(前出の大白蓮華 五三・)
などと、法主信仰は左京日教師等の要法寺出身の僧侶が作り上げたもののように述べている。
 しかし、日教師の趣旨は、日蓮大聖人が「我不愛身命」の御修行によって三大秘法を御建立あそばされ、その本仏内証の御境智を体となし給うのに対し、衆生化導のために顕し給う御本尊は用に配するとの、体用の法門が基本である。そのところより血脈伝承の法体伝授により、本門の本尊といっても、唯授一人の血脈相承を所持なされる御法主上人を離れては利益成就はないということを、信仰的な筋目の上から述べられたまでである。つまり衆生に対する実際の信仰教導の意義の上から「用」の言辞を使用されたのであって、けっして「本末転倒の『法主信仰』」などではない。
 また松岡は、日寛上人は『六巻抄』で法主信仰を除外したという邪説を述べる。しかし日寛上人は『文底秘沈抄』に、
「法を日目に付し、日目亦日道に付す、今に至るまで四百余年の間一器の水を一器に移すが如く清浄の法水断絶せしむる事無し、蓮師の心月豈此に移らざらんや」(六巻抄六五・)
と、御法主上人のところに「蓮師の心月」すなわち、金口嫡々血脈相承に基づく御本尊の御内証の法体が伝持あそばされていることを明示されているではないか。
 この御教示を刮目して見よ!

大白法681(h17.11.16)号より転載



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