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       未練がましい世迷い言
     血脈の元意を隠す誑惑
                ─正信会─



      未練がましい世迷い言


 本年正月号の『正信会報』に、自称正信会の丸岡文乗が「貫首交替に思う」と題する巻頭言を載せた。そのなかで丸岡は、
「ついに阿部日顕師は退座し、早瀬日如師が後任貫首となった。社交儀礼上からも先ずは『おめでとうこざいます』と申し上げておく」
などと言っている。
新たに包括法人を設立しようとしている正信会など、所詮は邪教団に過ぎない。その頭目に、たとえ社交儀礼にせよ、「おめでとうございます」と言われる筋合いはない。しかも、身のほど知らずにも、これからの御法主日如上人猊下の動向を、
「正信会もじっくりと見定めてかからねばならない」
とまで言っている。
いったい何を「見定め」ようというのか…。さては御代替りに乗じて、日蓮正宗に戻れる日が来るとでも思っているのだろうか?
 そういえば、創価学会でも、日顕上人猊下が退座されれば、総本山大石寺への参詣がかなうと指導していたやにも聞く。
 同様に正信会も、未練がましい夢を見ているのなら、よほどおめでたい輩どもである。


      本末転倒の邪義


 さて、丸岡はその巻頭言で、「法義をよく護られ、貫首としての分と役目をよく弁えられて宗・開両祖の御教えと御精神をきっちりと体現し、垂範して下さるお方が出現されれば、そこにこそ宗祖の法灯血脈は連綿と流れ通う」
と、勝手な謬義を並べて血脈を定義づける。
 なんのことはない。自分達の非を棚上げし、自称正信会を肯定する御法主がおられれば、「そこにこそ宗祖の法灯血脈は連綿と流れ通う」と言いたいのである。
 結局、彼らは結論ありきで、自分がすべての中心である。仏法によって正邪を判断せず、唯授一人血脈相承も拝信しない。自分達の考えを認めるなら正しい、認めないなら御法主ではないと、勝手な御都合主義で御法主上人を見ているのである。そこには、敬虔な信仰心の片鱗もうかがうことはできない。
 それはまさに、池田大作を認めないから宗門は間違っているなどと、稚拙な基準を構える創価学会員と瓜二つである。
 仏法はそっちのけにして、自分を中心に正邪を計るとは…。これを本末転倒と言わずして、なんと形容すべきであろう。


      仏法を乱す張本人


さらに、丸岡は、
「正信会が阿部師を用いなかったのは(中略)私権を恣にして宗内を私物化し、信仰を乱し、挙句、貫首本仏論とも言うべき異流儀を立て」
たからだと、日顕上人猊下が法主(貫首)本仏論を説いたと言い張る。この邪推も、やはり創価学会そっくりではないか。もとより、宗門に法主本仏義は全く無い。しかし、御法主上人が御所持あそばす血脈とは、
「日蓮が正義悉く以て毛頭程も之を残さず、悉く付嘱せしめ畢んぬ」(御書 一七〇二頁)
と示されるように、日蓮大聖人御所持の一切の正義である。
この元意の上から、総本山第五十九世日亨上人は、法華経に示される「仏菩薩」の「仏」について、一往釈尊との文意を示されつつ、
「再往末法に於いて義釈を為さば・此仏と云ふも此菩薩と云ふも・共に久遠元初仏菩薩同体名字の本仏なり、末法出現宗祖日蓮大聖の本体なり」(富要 1―117頁)
と明かされる。そしてさらに、「猶一層端的に之を云へば・宗祖開山已来血脈相承の法主是れなり」(同頁)
と明確に御教示である。
 この血脈の元意に気付かず、そこにおのずと具わる内体と外用等の重々の義を敢えて混同し、宗門に対して、「貫首本仏論」などとあらぬ讒言を加える自称正信会こそ、仏法を乱す張本人である。

大白法688(h18.3.1)号より転載



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