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   「糞犬が師子王をほへ、
      癡猿が帝釈を笑ふ」所業
             ─正信会─

     自称正信会の ゴマカシ

 自称正信会の者が、
「日蓮正宗は、日蓮大聖人・日興上人・日目上人と法脈を引き継ぐ教団であり、信奉する教義は、宗開両祖によって建立された法華本門の三大秘法である」(本年四月十五日付継命)
と述べている。
 日蓮大聖人以来の「法脈」を「引き継ぐ」と言いつつ、御法主上人を蔑ろにする姿は、言行不一致の最たるものだ。
 また「宗開両祖によって建立された…三大秘法」というのも全く意味がわからない。
 大聖人が本門戒壇の大御本尊を建立されたことにより、三大秘法は整足された。それを抽象的な概念や表現でごまかすことは、大聖人の御化導を否定する大謗法である。
 いずれにせよ、彼らが「富士の本流」と標榜すること自体、全くのお笑い種だ。今さらながら、こんな言行不一致とゴマカシを四半世紀以上にもわたって続けてきたと思うと、呆れるほかはない。

     「ろくな信心修行もせずに
      放蕩三昧を続けている僧侶」

 また、この『継命』では、
「ろくな信心修行もせずに放蕩三昧を続けている僧侶が、『法華経の行者』気取りで悟りを得たごとくに慢心を増長せしめ、反省懺悔という信仰にとってもっとも大切なことを忘れている」(同紙)
とも言う。おそらく邪教創価学会の二番煎じで、御隠尊日顕上人を揶揄したつもりになっているのだろう。莫迦げたことだ。
 日顕上人のお振る舞いを拝して、どこが「ろくな信心修行もせずに放蕩三昧」と言えるのか。毎朝の丑寅勤行に始まり、総本山でのすべての法要やあらゆる法務、さらには日蓮正宗全体にわたる宗務など、御登座以来、二十七年もの永きにわたり、多忙を極める毎日を過ごされていたことは、正信の僧俗ならだれもが知っている。
 第五十六世日応上人は、
「夫レ法主トハ法体ノ本主ト云フ事ナリ」(弁惑観心抄七〇・)
と仰せである。大聖人の仏法の「法体ノ本主」にてまします御法主上人を「法華経の行者気取り」などとあなずるような不信心だから、自称正信会の者どもは退転してしまうのだ。


      「癡猿が帝釈を笑ふに似たり」

 さらには、何を血迷ったか、
「『謗法の輩』『正信会の者ども』などと修羅の心をもって一方的に正信僧俗を悪口雑言している姿の中には、到底法華経の信心は見いだし得ない」(本年四月十五日付継命)
とも言っている。
 愚癡蒙昧の者どもに何を言っても無駄かも知れぬが教えて進ぜよう。『善無畏三蔵抄』には、
「仮令強言なれども、人をたすくれば実語・軟語なるべし。設ひ軟語なれども、人を損ずるは妄語・強言なり」(御書 四四五・)
と仰せである。つまり正法を説かぬ言葉こそが「妄語・強言」であり、自称正信会は謗法の故に、どんなきれいごとを並べても「妄語・強言」に過ぎない。
 『佐渡御書』には、
「日蓮御房は師匠にてはおはせども余りにこはし。我等はやはらかに法華経を弘むべしと云はんは、蛍火が日月をわらひ、蟻塚が華山を下し、井江が河海をあなづり、烏鵲が鸞鳳をわらふなるべし」(同 五八三・)
と御教示である。
 自称正信会の難癖など、
「当世、牛馬の如くなる智者どもが日蓮が法門を仮染にも毀るは、糞犬が師子王をほへ、癡猿が帝釈を笑ふに似たり」(同 四四五・)
と仰せの如く、所詮は「糞犬」や「癡猿」の如き虚しい所業である。
 「謗法の輩」「正信会の者ども」と呼ばれて悔しいなら、泣き言を言う前に、自らの大謗法を深く懺悔することが先決である。

大白法725(h19.9.16)号より転載



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