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      七万五千名大結集への誹謗
           下衆な「登山無用論」
                 ―創価学会

      失敗を願う創価学会

 創価学会は、宗門における七万五千名大結集総会を何としても失敗に終わらせたいようだ。
 創価新報では、
 「『登山地獄』の日顕宗」「目当ては『十億円』の御開扉料」「法華講登山残酷史」「『信心』なき登山は無意味」(平成二一年二月四日付)
などと讒言の限りを尽くして下衆な心根を露呈している。宗門が興隆発展することを池田大作は悔しくてならないのだろう。
 創価学会は、この誹謗のほかにも、大総会の日は、やれ灼熱≠セの炎天下≠セの仮設テント≠セのと、そもそも宗門と何の関係もない邪教団が、天候や休憩場所のことまで執拗に気にかけること自体、異常であり、余計なお世話である。
 しかし、見過ごすことができないのは、創価学会の難癖が、七万五千名大結集への妬みとともに、それに託けた登山≠サのものへの誹謗になっていることである。

    信心の違い≠セ!?

 同紙では、
 「登山しなければ功徳がない≠ネどというのは、まさに、日顕宗が勝手に作り上げた邪義中の邪義なのだ」(同紙)
と罵るだけで、その論拠を明らかにしていないが、あえて言えば、それは大御本尊まします大石寺への参詣を否定し、侮蔑する輩には、成仏も功徳もないという意味となろう。まさに現在の創価学会員がこれに当てはまる。また、
 「以前、学会が主体となって行っていた登山会と、現在の日顕宗の登山は、何が違うのか。それは、『信心』があるかないかの違いである」(同紙)
との捧腹絶倒の記述は、教団の過去の登山に関する発言を引き合いに出されることを恐れての言い訳か。すなわち、第二代会長戸田城聖氏の、
 「御本山に登り、親しく大御本尊様を拝まなくては、本物の信心にはなれない(中略)今後も、できるだけ多くの会員を登山させるよう、計画を立てたい」(戸田城聖全集 三―四九〇n)
との発言や、池田大作が、
 「絶対の大御本尊にお目にかかる登山会であれば、学会の登山会こそ、行事の中の最大の行事として、他の一切の行事に優先して……」(大白蓮華 昭和三八年一〇月号の巻頭言)
と言っていた頃の、まともな登山の精神である。

    大石寺に五義あり

 今の創価学会が「信心」の正意を曲げ、はぐらかしていることに対し、池田大作はかつて、
 「法水写瓶の血脈相承にのっとった信心でなければ、いかなる御本尊を持つも無益であり、功徳はないのである」 (広布と人生を語る 八巻二二八n)
と、「信心」とは「血脈相承」を信奉することであると明言していたのだ。ところが、今や血脈相承を否定し、果ては大御本尊まで否定する教団と成り果てた創価学会。「信心」や「登山」を語る資格など微塵もない。
 第二十六世日寛上人は、大石寺を本山と仰ぐべき理由を、@富士山は是れ広宣流布の根源なるが故 A迹門を以て本門に例するが故 B本門大戒壇の霊場なるが故 C末法万年の総貫首の所栖なるが故 D一閻浮提の座主の所住なるが故、と五義を挙げられている(文底秘沈抄・六巻抄 六八n)。
 よって、今も大石寺への登山こそ、仏道修行の根本であることが明瞭ではないか。

     我らは広布の戦士!

 現在、宗門は来る大総会に向け、その推進に全力をあげ、受け入れる総本山側も境内整備を行うなど、万全の態勢で準備を進めている。
 御法主日如上人猊下は、大総会への参加者を「広布の戦士」と称されている。
 さあ、法華講員一同、邪教団の悪口誹謗を一蹴し、大総会への参加で広布の戦士≠フ陣列に加わろうではないか!

大白法763(h21.04.16)号より転載



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