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    血脈背反の『ニセ本尊』は
       大謗法の魔性本尊だ
             ─創価学会


 池田創価学会では宗門からの『ニセ本尊』破折がよほど痛いらしい。当欄でも先般、御開眼の重要性を示して創価学会の『ニセ本尊』を糾弾したが、池田大作は創価新報を使って、
 「日顕宗では、『法主の開眼がなければ、御本尊に法魂が宿らない』などと言っているが、そもそも本尊に法主の開眼が不可欠であるなどという教義はどこにもない」(平成二一年二月一八日付同紙)
などと反論している。しかし、日蓮大聖人が『本尊問答抄』に、
 「木像画像の開眼供養は唯法華経にかぎるべし」(御書 一二七五n)
と示され、『四条金吾釈迦仏供養事』にも、
 「此の画木に魂魄と申す神を入るゝ事は法華経の力なり」(同 九九三n)
と仰せられるように、御開眼の教義はすでに大聖人に存する。紙木に顕示された大漫荼羅が大聖人によって開眼されたことは当然である。
 さらに第三十一世日因上人は『御消息』に、
 「木絵の二像は本と草木にて有り、然るを生身の妙覚の仏と開眼したまふ事は大事至極の秘曲なり、日蓮聖人乃至日因に至る迄、三十一代累も乱れず相伝是れ也」(妙喜寺文書)
と御指南され、また第五十六世日応上人も、
 「金口血脈には宗祖己心の秘妙を垂示し一切衆生成仏を所期する本尊の活眼たる極意の相伝あり」(法之道)
と御指南されているように、御法主上人による御本尊の御開眼は大聖人以来の相伝によると、教義的に裏付けているではないか。
 大作もかつては、
 「まず第一に、日蓮正宗の伝統法義をあくまでも信心の基本としていかなければならない」(広布と人生を語る 三巻一一二n)
と、「伝統法義」すなわち相伝を信心の基本とすべきことを指導していた。しかし、いわゆる昭和五十二年路線の時の「御本尊模刻事件」に明らかなように、大作は御本尊の取り扱いが非常にいい加減かつ姑息だ。
 これは第五十九世日亨上人が『化儀抄註解』に、
 「曼荼羅書写の大権は唯授一人金口相承の法主に在り」(富要 一巻一一二n)
と説かれるところの、御法主上人のみの権能をないがしろにする考えが性根にあるからだ。この}慢謗法が今日の諸悪の根源である。
 つまり開眼なき『ニセ本尊』とは、大作の魔性そのものなのだ。

    血脈背反の『ニセ本尊』は大謗法

 そもそも御本尊とは、『経王殿御返事』に、
 「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ。仏の御意は法華経なり。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし」(御書 六八五n)
と仰せのように、大聖人の「たましひ」である。「たましひ」とは魂魄である。日因上人は、強信者、加藤了哲に対して、
 「御代々の魂魄即一念三千の本尊なるが故に此の本尊に向かいたてまつり南無妙法蓮華経と唱え奉るべし」(当家聞書)
と、御法主上人の甚深の御境界を「一念三千の本尊」と明確に御指南されている。これは無疑曰信の加藤了哲だからこそ説かれた深義である。このように血脈付法の御法主上人は、大聖人の事の一念三千の御本尊の法魂を所持遊ばされることを深く信解しなければならない。血脈背反の『ニセ本尊』は大謗法である。

    一切は現証には過ぎず

 昨年の衆議院議員選挙の結果は、「常勝」のはずの創価学会にとって、絶対にあってはならない大敗北であった。これは創価学会が大謗法を犯したための現証である。いかに言いつくろおうとも、一切は現証には過ぎずだ。個々の創価学会員にはさらに悲惨な現証が満ち溢れていると聞く。
 我々は本年「広布前進の年」に当たり、新たな御命題である平成二十七年の法華講員五十パーセント増、同三十三年の八十万人体勢の構築に向かって、大作によって大謗法と化した創価学会をはじめ、すべての邪宗教を破折し、御遺命の広宣流布を目指して不屈の前進を開始しようではないか。

大白法782(h22.02.01)号より転載



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