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    行く当てなき迷走
      存在意義もわからない
             ―正信会


    「誓願」なき迷走

 昨年、『立正安国論』正義顕揚七百五十年に当たり、宗門は七万五千名大結集総会並びに五十万総登山を奉行し、目標を大幅に上回る成果を成就した。
 これらは、正義顕揚の佳節における御報恩行であり、正法の御威徳を荘厳申し上げた偉業である。宗門全僧俗は、この誓頗を完遂するために一致和合して取り組み、異体同心の結実として見事に成し遂げた。
 これに対し、取り立てて正義蹟揚の報恩行を実施しなかった自称正信会は、
 「現宗門の成果主義は、『立正安国論』の教えに逆らうものである」(正信会報 一三一号二n)
などと難癖を付けている。
 そもそも、御法主上人猊下の御命題を「成果主義」などと捉えるのがおかしい。
 御命題とは、即ち誓願である。誓願が示されるからこそ、我ら僧俗に具体的な目標が定まり、充実した信行が図れるのである。
 しかるに、これを称して「成果主義」と言い放つ正信会の実態はどうか。
 全僧俗挙げての誓願を示すことすらできず、ただ漫然と時間を過ごしているだけではないか。
 そんな彼らの下らない虚勢など、負け犬の遠吠えと一笑に付しておく。

    信仰の中心が示せない!?

 ところで、正信会も、僧侶を対象に各種講習会を開催しているが、そこで講演した正信会僧侶は、
 「私たちの信仰の中心はこれだと示すことのできるものは、今のところ取り立ててあるわけではない」(同 一三n)
 「現在の私たちが置かれている状況というのは、日蓮正宗大石寺の教学からも遠ざかり、また創価学会の教学からも遠ざかり、とはいえそれに取って代わって、これが私たちの信仰の屋台骨だと主張できるものは取り立ててない、そういう教学的な限りなく空白状況にある」(同)
と発言している。
 「信仰の中心」を示せない宗教団体など、見たことも聞いたこともない。
 また「教学的な…空白状況」とは、一体どういう意味であろうか。教学的に空白状況というのなら、それは取りも直さず、信仰団体として全く無意味な状況ということではないか。それを自ら吐露するとは、何とも呆れ果てた状態だ。
 正信会は、誓願を掲げて全僧俗が一致して取り組むどころか、もはや自らの存在意義にすら迷走しているのが実状なのである。

    信なき行学は地獄の業因

 「信仰の中心」を示せないのであれば、「教学的な…空白状況」となるのは当然の帰結である。
 むしろ「信仰の中心」のない教学など全く無意味であるし、それに基づく修行も、結局は徒労に終わる。
 このことは日蓮大聖人が、
 「行学は信心よりをこるべく候」(御書 六六八n)
と御制誡されるところである。つまり、正しい信仰が中心にあるからこそ、正しい行体が生まれ、正しい智慧が涌くのである。
 さらに、日寛上人は、
 「夫れ本尊とは所縁の境なり、境能く智を発し、智亦行を導く。故に境若し正しからざる則んば智行も亦随って正しからず(中略)故に須く本尊を簡んで以て信行を励むべし」(六巻抄 四二n)
と御指南されている。
 即ち、一切の根源は正しい御本尊にある。正しい御本尊に導かれない修行や教学は、大聖人の御正意に反する。
 この筋目に迷えば、どんなに智慧を出し合い、賢げな法理を並べようとも、すべては堕地獄の業因でしかない。

    御命題成就の決意

 我ら本宗僧俗は、昨年、御法主日如上人猊下より新たな御命題を頂戴した。
 この折伏の大号令は、大聖人の、
 「大願とは法華弘通なり」(御書 一七四九n)
との御教示の実践であり、この大聖人の御誓願を我が誓願として精進すべく、平成二十七年並びに平成三十三年の御命題が示されたと拝さねばならない。
 野干がごとき「正信会」の雑言など蹴散らし、いよいよ勇往邁進してこそ、大聖人の御心に適う精進と心得べきである。

大白法784(h22.03.01)号より転載



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