は じ め に

(松岡の悪書は背景を灰色、引用は水色にした)

 平成十七年九月号の『大白蓮華』に汝の寄稿≠ェ掲載された。これは先に汝の現代の大石寺門流における唯授一人相承の信仰上の意義≠ニいう悪書に対して、我ら日蓮正宗青年僧侶邪義破折班が『離脱僧松岡雄茂の 本宗の唯授一人血脈相承に対する邪誑の難を粉砕す』(平成十七年六月七日発行 以下『邪誑の難を粉砕す』)をもって徹底的に破折を加えたことに対し、反論の術のない汝の逃げ口上と見受けられる。
 ただしこの経緯には汝の許し難い卑劣な悪行があった。汝は当方の『邪誑の難を粉砕す』を読んで、自説が悉く粉砕された事実を知ったのだが、なにを血迷ったか御法主日顕上人猊下に対して研究調査に対する協力のお願い≠ニ題する七月三十日付の「十項目の愚問」を送付してきたのである。これに対する当方の回答の破折書『松岡幹夫の傲慢不遜なる十項目の愚問を弁駁す』(平成十七年八月二十四日発行 以下『十項目の愚問を弁駁す』)はすでに発送したが、その冒頭において汝に対して、御法主上人個人に対して行った、研究調査に対する協力のお願い≠、その相手の許可もなく他人に配布したことは、研究調査を行う学者の態度として非常識であること。更にまた、自己の研究調査への協力をお願いするのに、相手の都合も聞かずに、一箇月以内に回答せよなどと期限を切ったり、しかも、回答のない場合には回答不能の意思表示≠ニ見なす、などという脅迫めいたお願いをしたこと。これらのことは、汝が日本宗教学会会員・日本印度学仏教学会会員、学術博士%凾フ肩書に相応しからぬ、邪教創価学会の宗門誹謗の手先となっている似非学者であることを自ら証明するものであると指摘し、汝がいかに非常識で、しかも自分勝手で、さらには脅迫的言辞まで弄する似非学者であるかを指弾したのである。
 ところが汝は、御法主上人猊下に対して、研究調査に対する協力のお願い≠ニして八月末日までの回答をお願い≠オておきながら、その期限を待たずに八月下旬に発刊した『大白蓮華』に反論を発表したのである。汝のほうから回答を願い出ておきながら、その設定した期限前に反論の誹謗文書をすでに準備し、しかもこれを創価学会の機関誌に発表したということは、回答の内容など問題ではなく、ただ本宗誹謗を目的とした陰謀であった事を自ら証明したものである。このようなことは、およそまともな神経の者ができることではない。先の文書の異常な言動と合わせて、御法主上人をどこまでも愚弄して悪業を重ねる汝の腐りきった性根と、宗門誹謗と創価学会員の洗脳のために汝を操る創価学会幹部の非道な行為を糾弾するものである。
 次に汝は今回の寄稿「法主信仰」の打破──日寛上人の言論闘争≠ニ題している。この意味するところは、唯授一人の血脈相承を打破する、ということである。それを「法主信仰」の打破≠ニ表現することによって、愚かな創価学会員に対し、唯授一人の血脈相承の尊厳を貶め不信を増大しようとしているのである。しかし、すでに『邪誑の難を粉砕す』および『十項目の愚問を弁駁す』において論じたように、本宗の唯授一人血脈相承は、宗旨の根幹である本門戒壇の大御本尊の御法魂と深義を伝える至尊の秘法である。汝ごときがいかに囀(さえず)ろうとも、なんの痛痒(よう)もないということを、まずもって通告しておく。
 いまさら論ずるまでもなく、本宗の信仰は下種三宝に対する信仰である。御法主上人が僧宝にましますことは、唯授一人金口嫡々血脈相承によって御本仏日蓮大聖人の御内証すなわち御本仏の悟りを伝持されているからである。この御法主上人が所持される日蓮大聖人と不二の御内証すなわち御法体を尊信申し上げるところに、御法主上人に対する信順の実義が存するのである。決して日蓮大聖人・御本尊の御内証を離れて御法主上人個人に対して信仰を立てるなどということではない。それが証拠に御法主日顕上人猊下の御書写の御本尊の中尊は、すべて日蓮大聖人日興上人以来の御歴代上人と同じく南無妙法蓮華経日蓮とお認(したた)めである。どこに南無妙法蓮華経日顕と御書写された御本尊があるか。あったら出してみよ。また日蓮正宗の僧俗は皆、南無妙法蓮華経と唱題している。誰が南無日顕上人・南無日顕上人と唱題しているか。しかるに創価学会では池田大作を思い浮かべて唱題していると聞く。また日蓮大聖人等下種三宝よりも池田大作を尊崇し狂信しているではないか。このような創価学会の信仰のありかたこそ個人崇拝の典型であり、その実態は池田信仰である。汝が法主信仰≠ネどと述べて、本宗の下種三宝に対する信仰を歪曲誣告(ぶこく)することは、創価学会の池田信仰を隠し、宗門誹謗の邪義を構築するために意図的に行っているのであって、まさに大謗法である。
 次に汝は日蓮大聖人は仰せである。「此の御本尊も只信心の二字にをさまれり」(1244n)「信心」なき日顕宗の坊主らは、この大聖人の教えに背いて、あたかも御本尊は法主の二字におさまる≠ニ言わんばかりに、「本尊の体」(法体)は法主が独占している、と信者に説く≠ネどと述べている。汝の引用した『日女御前御返事』の御文は、
此の御本尊も只信心の二字にをさまれり。以信得入とは是なり。日蓮が弟子檀那等「正直捨方便」「不受余経一偈」と無二に信ずる故によて、此の御本尊の宝塔の中へ入るべきなり。たのもしたのもし。如何にも後生をたしなみ給ふべし、たしなみ給ふべし。穴賢。南無妙法蓮華経とばかり唱へて仏になるべき事尤も大切なり。信心の厚薄によるべきなり。(新編一三八八頁)
と説かれて、本宗の成仏の要道である信心の極意を御指南された箇所である。汝は「信心」なき日顕宗の坊主ら≠ニ述べるが、この信心≠ノついては、汝の考えが狂っていることは『邪誑の難を粉砕す』において、すでに破折したとおりである。要するに、信心とは下種仏法の三宝を信ずることである。すなわち御本仏日蓮大聖人を信じ、本門戒壇の大御本尊を信じ、血脈付法の日興上人以来の御歴代上人を信じ奉ることである。ところが汝のいう信心とは、結局は邪法・邪師・邪義の代表である創価学会や池田大作を信じることではないか。このような噴飯ものの邪説を正当化するために、日寛上人の言論闘争≠ネどと日寛上人の御指南を歪曲・悪用しようとする汝の奸計を、日寛上人は絶対にお許しにならないであろうことを念告しておく。
 また汝は、あたかも御本尊は法主の二字におさまる≠ニ言わんばかり≠ニ揶揄するが、本宗の御法主上人は日蓮大聖人日興上人以来の唯授一人金口嫡々血脈相承によって日蓮大聖人の御法魂を胸中に所持遊ばされる下種僧宝にまします。ゆえに御当代の御法主上人を離れて仏法の体がないことは当たり前のことである。汝らはそれが信解できないために退転したのではないか。自らの倒錯・不信を自覚せず、正義に対して悪口雑言を浴びせることは無恥冒涜の極みである。
 また汝は法主の日顕にひれ伏し、法主の開眼を受けなければ、御本尊もニセモノになる、などと民衆を脅している≠ニ述べるが、これは正しく表現すれば、「(本門戒壇の大御本尊を信じ、御法主日顕上人猊下に信伏随従する信心が本宗信心の基本であり)御法主上人に信伏随従せず、御開眼もしていない創価学会の本尊はニセ本尊である」という本宗の正論を、汝が不信謗法の悪念から口汚く述べたに過ぎない。どのように言い逃れを画策しても無駄である。ニセ本尊はニセ本尊である。我等は汝らを脅しているのではなく、慈悲の上からニセ本尊を拝めば地獄に堕ちるという事実を述べて呵責しているのである。
 次に汝は釈尊から上行菩薩に別付嘱された法体は、大聖人が御本尊として顕示されたのであり、歴代法主の内証に秘密裏に伝えられていくのではない≠ニ述べている。しかしこれも仏法の本筋より顛倒した考えである。御本尊の実体・深義は御内証によって伝承されているのであって、御内証の伝承を抜きにして御本尊の伝承はないのである。すなわち釈尊から上行菩薩に別付嘱された法体とは、『観心本尊抄』に、
今の「遣使還告」は地涌なり。「是好良薬」とは寿量品の肝要たる名体宗用教の南無妙法蓮華経是なり。此の良薬をば仏猶迹化に授与したまはず。何に況んや他方をや。(新編六五八頁)
と説かれ、『南条殿御返事』に、
教主釈尊の一大事の秘法を霊鷲山にして相伝し、日蓮が肉団の胸中に秘して隠し持てり。(新編一五六九頁)
と説かれるところである。この五重玄の妙法すなわち一大事の秘法を、日蓮大聖人は胸中に秘して隠し持たれ、末法に出現せられて衆生教化のために法体の折伏を行ぜられ、御化導の本懐としてその御内証を御本尊として顕示遊ばされたのである。『日蓮一期弘法付嘱書』に、
日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す(乃至)
血脈の次第 日蓮日興(新編一六七五頁)

と説かれるように、この日蓮大聖人の御内証と御本尊の深義および仏法の一切は、日蓮大聖人から日興上人へと血脈相承せられ、さらに日目上人以来の御歴代上人に御相伝されているのである。ゆえに御当職の御法主上人は、その時代における仏法の棟梁(とうりょう)として所化である一般僧俗および一切衆生を教導遊ばされるのである。これを信ずるのが本宗の信仰であり、仏法の基本である。御本仏の御内証なくして御本尊の御書写はなし得ないのである。汝は不信謗法の悩乱と仏法誹謗の悪業のために、生きながら顛倒の三途の悪見に堕しているのである。
 次に汝は大聖人根本、御本尊根本に正しき信心に励む門下は、誰でも法体を証得できる≠ニ述べている。まさに「未得已得・未証已証」の誑言である。ならば法体を証得≠オているはずの汝に問う。汝は御法門の全てを理解し、その上で、しかも御本尊を書写することができると思うのか。またそれを行うつもりか。それをまず答えよ。
 次に汝は代々の法主が唯授一人の血脈相承によって伝えるべき奥義とは、三大秘法の御本尊の教えに極まるのであるが、その三大秘法の御本尊の教えは、日寛上人が「六巻抄」の中ですべて説き明かされた≠ニ述べている。この奥義云云の文に、汝の浅識誹謗が明らかである。ならば汝は血脈相承の内容を知っているのか。もし知っているというなら、その内容をはっきり出してみよ。つまるところ知るはずはないから示すこともできない筈である。さて知りもしないことを、なぜこのように断言できるのか。汝の言は矛盾そのものではないか。そのような者を世間ではホラ吹きというのだ。
 そもそも『六巻抄』は、『日蓮正宗要義』に、
六巻抄は教判論・宗旨論・開合論・破折論・行法論・資具(しぐ)論に本宗の大綱を括(くく)って、他門不共独歩(ふぐどっぽ)の正義を組成されたのである。
 このように、日寛上人の教学は奥行と間口ともに膨大のため、日蓮正宗の教学はさながら日寛上人によって創作されたようなことを他門で論ずるが、これはかなりの近視眼的な見方であって、富士教学の淵源に暗昧な証拠である。日寛上人の教学論中のどの部分をとって見ても、富士門家の伝統を脱し、先師・先哲に反する発明教学はありえない。表現上の相違や、先師がいい残された部分を時に従って開陳されたのみである。(二八七頁)

と述べられているように、日寛上人が唯授一人金口嫡々の血脈相承をお受け遊ばされた甚深の御境界の上から、令法久住・広宣流布のために、本宗の大綱を六項目に括って著された、富士教学の精髄ともいうべき重書である。しかし、「時に従って開陳された」と述べられているように、時機を鑑(かんが)みられて当時の門下に御指南されたものである。これは日寛上人が門下に御講義された御書文段の文中に『六巻抄』の名目が散見されることに明らかである。また雪山文庫には、享和三年(一八〇三)純澄日定師の『末法相応抄』の転写本が存する(富要三─一頁)。享和三年といえば、日寛上人が亨保十年(一七二五)に『六巻抄』を再治せられてから七十八年後のことで、総本山四十三世日相上人の代である。このことは、日寛上人御遷化ののちも当時の門下が『六巻抄』を披見し、研鑽していたことを物語っている。このように『六巻抄』の内容は当時の門下に対して御講義された法門、すなわち法門相承であり、唯授一人金口嫡々の血脈相承の法体相承そのものではないのである。なお法門相承とは門下一般僧俗が御教示を賜ることのできる御法門である。一般僧俗の信解に浅深の段階が存することは明らかである。したがって浅深まちまちの対象者に対して、日蓮大聖人の御内証に基づく下種仏法の付嘱の奥義を示されることはないのである。
 次に汝は「六巻抄」が出版公開されている現代では、皆が文底仏法の奥義を学びつつ御書を拝し、正しき信心を実践できる。もはや、法主は、門下僧俗を教導する根本の立場にいない≠ニ述べる。前記のごとく日寛上人は唯授一人金口嫡々の血脈相承を根本とされ、その処から他門の誤りの矯正と破折を含めて当門の僧俗へ真実の正義を述べられたのである。それが『六巻抄』である。要するに日寛上人の『六巻抄』は、唯授一人血脈相承が根本となった上で開示されているのだ。その根本を信じて『六巻抄』を学ぶ者は本末究竟して正しい信解を得るに至る。しかるに汝の如く根本の血脈を否定して『六巻抄』を読んでも根本の法仏の妙智を失う結果、邪智邪解のみの見解となるのである。大聖人の、
智者・学匠の身と為りても地獄に墜ちて何の詮か有るべき。(『十八円満抄』・新編一五一九頁)
の破折は松岡よ、まさに汝自身に当たっているのだ。
 次に汝は御形木御本尊が主流の時代において現法主が御本尊を書写する必然性も失われた≠ニ述べる。これもすでに破折したとおりである。汝は御本尊の外面的な御姿にとらわれ、その御内証を無視している。否、御姿が似ていればよいと創価学会員を洗脳しているのである。まさに唯物的思考による御本尊義の摧尊入卑である。そもそも御本尊の書写は、御姿すなわち御相貌(そうみょう)だけではなく、法体相承の上から大聖人の御内証を御書写され、さらに御開眼をされるのである。すなわち御法主上人以外の者が書写を行ったり、御法主上人の允可のない複写を行っても、そこには御内証の法体が具わらないために、御本尊ではなくニセ本尊となるのである。つまり創価学会のニセ本尊は、大聖人の御内証の法体のかわりに池田大作の魔心が入り込んだ、おぞましい堕獄本尊なのである。
 このように汝の述べる内容は、何の正当性もない邪論であり、その仏法破壊の悪意は許し難い。したがって現代における法主の意義は実質的に消滅している≠ニの汝の言は、汝が売僧(まいす)として創価学会の中で生きていくための生活手段として述べざるを得ない悪口雑言であり、そのために創価学会員はじめ多くの者を迷わせることは、千劫阿鼻地獄の大悪業であると強く呵責するものである。



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