二 内証の次元における因分と果分の立て分けについて≠破す


 我らは、『邪誑の難を粉砕す』『十項目の愚問を弁駁す』において、日寛上人の『法華取要抄文段』における、
当に知るべし、蓮祖の門弟は是れ無作三身なりと雖も、仍是れ因分にして究竟果分の無作三身に非ず。但是れ蓮祖聖人のみ究竟果分の無作三身なり。若し六即に配せば、一切衆生は無作三身とは是れ理即なり。蓮祖の門弟は無作三身とは中間の四位なり。蓮祖大聖は無作三身とは即ち是れ究竟即なり。故に究竟円満の本地無作三身とは、但是れ蓮祖大聖人の御事なり。(御書文段五一六頁)
との因分果分の御指南は、下種仏法の教相の上より判じた能化の仏と所化の衆生との対比であると汝に教えた。つまり、御書の所々に、大聖人の弟子檀那が無作三身であると下種仏法の観心の上からの御指南があり、日寛上人も『御書文段』の所々で、即身成仏の観心をお示しである。しかし、『法華取要抄文段』の当該御指南は、能化である果分の仏と所化である因分の衆生との下種仏法の教相上の対比、つまり御本仏大聖人と迷いの凡夫および門弟僧俗との師弟、能所の筋目を明確に仰せられたものである。
 しかるに汝は、大聖人以来の唯授一人金口嫡々血脈相承を御所持遊ばされる御法主上人の尊厳を貶(おとし)めんが為に、なんとしても御法主上人を因分に属せしめ、御法主上人を所化の衆生と同等と位置づけることに躍起になっている。しかし、何度もいうように、『法華取要抄文段』における能化の仏と所化の衆生との教相上の対比の御指南と、唯授一人血脈相承の意義と存在は、別次元の問題である。
 日寛上人は、『法華取要抄文段』の何処に、御自身を含めた血脈付法の御法主上人が因分に属すると仰せられているのか。そのような文言は全くない。
 汝は、それを敢えて混同せしめ、唯授一人血脈付法の御法主上人も「蓮祖の門弟」であるから因分に属すると、全く別次元の大聖人以来の唯授一人金口嫡々の血脈相承を自分勝手に規定しているのである。よって、その汝の因分果分の説は汝自身の己義我見であり、主観的な断定による邪義であると破折しているのである。
 今回の汝の邪書の内容は、これまで我らが破折した内容の蒸し返しにすぎない。よって、我らの破折を再度熟読せよ、と申しておく。
 ただし、邪書の中で汝は、今、我々が問題にしている日寛の主張は寿量文底の内証の意に沿った論であり、明らかに観心の立場の説である。その観心の説を「下種仏法の教相」などと言い張る阿部は、本来は観心・内証そのものである「下種仏法」の説を強引に教相・外用とみなし、自分勝手に新たな観心・内証を立てようとするものである≠ニ、迷論を述べているので、これについて、破折しておく。大聖人の下種仏法が観心であり、釈尊の脱益仏法は教相であるという教相と観心の立て分けは、あくまで種脱相対の上での判釈である。我らは、その種脱相対して顕された大聖人の下種仏法における教相と観心について、汝に教えているのである。それに対し、汝は新観心論、新内証論≠ネどという訳の分からない反論を展開するが、要は、汝が下種仏法の教相を知らないだけである。大聖人は、御相伝書の『百六箇抄』に、下種の本迹を明かされる中、「三十一、下種の三種教相の本迹」の箇処で、
題目は観心の上の教相なり。(新編一六九八頁)
と、下種の観心・教相をお示しである。このように、下種仏法に、観心と教相が存することは明らかではないか。汝の迷論は、所詮、下種仏法の観心・教相の立て分けが理解できない悪あがきに過ぎないと言っておく。
 また汝は、我らがこれまでの破折で引用した『文底秘沈抄』について疑難しているので破折しておく。汝は『文底秘沈抄』の、
今に至るまで四百余年の間一器の水を一器に移すが如く清浄の法水断絶せしむる事無し、蓮師の心月豈此に移らざらんや、是の故に御心今は富山に住したもうなり。(六巻抄六六頁)
の御指南について、文脈に忠実に解釈すれば、日蓮の「御心」は富士大石寺に住する、というのが日寛の意であり、一器より一器への法主の血脈相承は、日蓮の心が富山に住するための手段的意味を持つにすぎない≠ネどといって、またもや汝の己義我見をもって解釈している。
 しかし、当該御文を文脈通りに解釈すれば、我らがこれまでに述べたように、
「唯授一人金口嫡々の血脈相承により大聖人から日興上人、日興上人から日目上人、日目上人から日道上人、そして日道上人から日寛上人の時代まで四百余年の間、一器の水を一器に移すように、大聖人の清浄なる法水が断絶せず、当代の御法主上人のところに流れ通っている。この故に、大聖人のお心は、日興上人以来の代々の御法主上人が在される富士大石寺に住しておられる」
と拝することが当然である。
 この『文底秘沈抄』の明らかな御指南について、敢えてそこから血脈相伝の深義を除外し、大聖人の御心が富士大石寺に住する意味としている。では何故大聖人の御心が大石寺に住するのか。まさしく大聖人日興上人以来の一器より一器への唯授一人金口嫡々の血脈相承を御所持遊ばされる御法主上人が富士大石寺に在されるからではないか。汝の稚拙な論理は、すでに破綻している。
 しかも汝は、手段的意味を持つにすぎない≠ニ蔑んではいるが、一器より一器への法主の血脈相承は、日蓮の心が富山に住するための手段的意味を持つ≠ニ、唯授一人の血脈相承により、日蓮の心≠キなわち大聖人の御法魂が御法主上人に伝承されている、と日寛上人が御指南であることを認めたのである。しかし、その発言の直後に、法主の内証に日蓮の法魂あり≠ニする阿部の説は、贔屓目にみても合理的根拠を欠く仮説≠ニ、その意義を否定しようとするが、血脈相承が大聖人の御法魂の伝承であることは、すでにこれまで述べてきたとおりであり、汝の言こそ合理的根拠を欠く*マ言である。
 要するに、汝は、この『文底秘沈抄』の御文の拝し方を一応は知っているが、なんとしても御法主上人の尊厳を貶めんが為、このような支離滅裂な事を言い出すのである。
 なおまた、『邪誑の難を粉砕す』『十項目の愚問を弁駁す』でも重々述べたことだが、大聖人と一切衆生に能所の筋目があるのと同じく、能化たる御法主上人と所化の衆生との間にも師弟・能所の筋目が存するのである。その根拠として我らが『化儀抄』の文を引いたことについて、汝は内証の法体に関する指南ではない化儀と法体とを混乱した迷論≠ニして非難している。しかし、『化儀抄』の、
師匠有れば師の方は仏界の方弟子の方は九界(聖典九九六頁)
との御指南について、御先師日達上人は、
授与の本尊に法主が書き判せられるから法主は主の方で仏界の方であります。法主が書き示されるは弟子の方で、九界の方でありその師弟相対して中尊の南無妙法蓮華経に相向ふので、その所が当位即妙の即身成仏であります。(有師化儀抄略解一〇八頁)
と御指南なされているとおり、下種仏法においては、御法主上人に対する師弟相対の信心により、即身成仏の大果を得るのである。そして、この「書き判」の意義こそ、御法主上人の御内証に具えられる大聖人の御法魂を御法主上人の権能において書写されたことの証明である。これら日有上人、日達上人の御指南が『御本尊七箇之相承』の、
日蓮在御判と嫡嫡代代と書くべしとの給う事如何。 師の曰わく、深秘なり、代代の聖人悉く日蓮なりと申す意なり。(聖典三七九頁)
との御相伝に基づくことは言うまでもない。
 すなわち、血脈付法の日達上人こそ、『化儀抄』の真意を正しく拝され御指南なされるのである。つまり、血脈相承に何の関わりもない汝如きの邪推による己義我見こそ迷論≠フ最たるものである。
 因(ちな)みに、汝は、自らの己義我見を補強する文証として日亨上人の御指南を挙げているが、それは御法主上人の僧宝としての化儀執行についての御指南であり、御本尊書写に関する『化儀抄』の文とは、全く異なる内容であると呵しておく。
 また、『観心本尊抄文段』の当該御文を拝する時、汝が主張する日寛は、「受持」という因行の一つとして法主の本尊書写を理解していた≠ニの言は誤りである。なぜなら、日寛上人は、当段において、
今「受持」とは即ち是れ偈の中の総体の受持なり。故に五種の妙行に通じ、五種の妙行を総するなり。然るに今、受持正しく信心口唱に当たるとは、信心は即ち是れ受持が家の受持なり。口唱は即ち是れ受持が家の読誦なり。当に知るべし、受持が家の受持読誦は此れ即ち自行なり。今自行の観心を明かす故に但自行の辺を取るなり。解説書写は化他を面と為す故に之を論ぜず。解説は知んぬべし。本尊書写豈化他に非ずや。(御書文段二二八頁)
と示されているように、本尊書写は化他であるとのみ仰せられており、「受持」という因行≠ネどとは何処にも仰せられていないからである。汝の主張こそ汝の思い込みの産物≠ナあり、文脈に全くない解釈である。当段の文脈に沿った正しい解釈は、本尊書写は、古来より実質的には、日興上人をはじめとする血脈付法の御法主上人に限るのであるから、「本尊書写は能化における化他」であると拝するのが正解なのである。
 また、汝は、法主の内証は、本仏・日蓮と同じ究竟果分の無作三身である≠ニ考えることは、「末法の教主」としての日蓮の唯一者性の否定につながる阿部の法主信仰においては、「末法の教主」の実質的権威が、日蓮から現法主の阿部へと移行しているのである≠ネどと誹謗している。しかし、本宗に、汝の言う如き、法主信仰≠ネどというものは存在しない。これは、本宗における御法主上人の御本尊書写の化儀にも明らかである。すなわち、本宗の御本尊は、あくまで南無妙法蓮華経の首題と日蓮の御名の人法一体の御顕示であり、不相伝の他門のように日蓮の御名の場所に、貫首個人の名を認めているわけではない。御本仏はあくまでも日蓮大聖人に在すのであり、御法主上人を末法の教主や御本仏とする主張など絶対にないことが明白である。
 また、現法主が日蓮の教説といかに異なる指南をしても≠ネどという汝の言も荒唐無稽の邪難にすぎない。代々の御法主上人が、日蓮大聖人を御本仏と拝し、その御金言たる御書を根本として時代に応じた御指南をされることは、日興上人の『遺誡置文』における、
当門流に於ては御抄を心肝に染め極理を師伝し(新編一八八四頁)
の御教示の上からも当然のことなのである。汝の邪難は、大聖人日興上人以来の血脈法水を中心とした師弟相対の信仰を、法主信仰≠ニの誣言をもって破壊せんとする邪悪な疑難にすぎないのである。
 なお、『十項目の愚問を弁駁す』において、池田大作が、かつて、御法主上人の御事を、
唯我与我の御法主上人のご内証を、大聖人と拝すべき(聖教新聞 昭和五四年五月四日付)
だと公言していたことについて汝に詰問した。これについて、汝は、未だに一言も返答せず、一切無視を決め込んでいる。汝は、この池田の言を肯定するのか、否定するのか。何れにせよ、御法主上人の御内証を否定する汝には、それを明示すべき責任がある。しかし、結局汝は答えられなかった。そのような池田大作の過去の発言を隠蔽(いんぺい)するという欺瞞からも、創価学会こそ伝法の主体者≠ネどという汝の邪書のたばかりは明らかである。




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