八 十二箇条の法門について≠破す


 この項ではまず汝は、日寛上人が『文底秘沈抄』に、
宗門の奥義此れに過ぎたるは莫し。(六巻抄四二頁)
已むことを獲ず、粗大旨を撮って以て之れを示さん。(同頁)
と述べられた文を挙げて、私はそこに最も着目し、金口相承の理論的開示説を有力な仮説として提示したのである≠ネどとしている。しかし前にも述べたとおり、この文は、汝がいうような寿量文底の三大秘法義を開示≠オたものではなく、三大秘法義が法門相承の深義であることを述べられたものである。
 また汝は、自らの邪論を人文科学研究における当然の手法学問的試論論理的主張≠ネどといい、我らが汝に対して、議論を挑≠だり正当な論理的根拠もなく非難≠オているなどとしている。しかし我らは、汝に議論を挑≠だりするつもりなど毛頭ない。先に汝が自慢げに送付してきた論を見て、それが仏法破壊の大謗法であるが故に、非難≠キるのでなく破折しているのである。
 次に、日精上人の『家中抄』に対して誤謬の多い史伝書≠ニする汝の批判に対して、『十項目の愚問を弁駁す』において、
歴史事実において、日亨上人との見解の相違や多少の間違いがあったとしても、宗門上代の歴史を記録した文献として高い権威がある(四六頁)
と述べたことに対し、汝は日亨が指摘した『家中抄』の誤りは「見解の相違」「多少」といった程度のものではない≠ニし、さらに『家中抄』の「日道伝」に、
其の外高開両師より相伝の切紙等目録を以つて日道に示し給う。其の目録に云わく。(聖典六九一頁)
等とある文を持ち出し、『家中抄』の内容が法義上、史実上の誤謬に満ちていることは動かせない事実≠ネどと非難している。
 しかしこの『家中抄』の「日道伝」における「相伝の切紙等目録」とあるものは、日精上人当時、日目上人筆と伝えられていた文献を、資料として『家中抄』に採録されたものである。汝は、この「目録」に関して日亨上人が頭注を付され、また『富士日興上人詳伝』において日亨上人が『家中抄』について批判的な記述をなされていることをもって、日亨上人は日精上人の謬説を断罪している≠ネどという。しかし汝が引く『富士日興上人詳伝』の次下に日亨上人は、
宗門三百年来無史無伝の闇黒らしき状態でありしに、精師はじめて掾大の筆をもって他の大教団にもなき史乗を造りあげられたことは、後輩のもっとも感謝すべきであり、たとい多少の謬伝があっても致し方ない(四八一頁)
と仰せられているではないか。日亨上人は、『家中抄』に不確かな事項が記載されていることは御承知の上で、日精上人が宗門草創以来の歴史を留められたことを高く評価されているのである。
 なおここで汝は、『富士日興上人詳伝』の、
自分は壮年時代に史筆を起こしてから、よりよりの猊下方に上申して本伝の修正を公けにすべくしたが(四八一頁)
との文を引いているが、この中の「本伝」について汝は、『家中抄』の「日道伝」のこと=筆者注≠ニしている。しかし『富士日興上人詳伝』を読めばこの「本伝」は『家中抄』の全体を指すことは明らかである。ここにも汝の欺瞞が表れている。
 また汝は、『十項目の愚問を弁駁す』において、
日精上人は、血脈相承の授受に関して非常に厳格な判断をされておられる。(四六頁)
と述べたことについて、日亨の文献学的な検討結果を踏まえると、大石寺の血脈相承の授受やその内容に関する日精の『家中抄』の記載が正確である、などとは到底考えられない≠ニしている。しかし、『家中抄』の血脈に関する記述の数箇所に日亨上人が頭注を付されたからといって、それは不確かな記述について註記をされたのであって、『家中抄』の全体を通した価値は揺るがないのである。
 次に汝は、阿部の〈十二箇条の法門=金口相承〉説の根拠となる『家中抄』の「日道伝」についても、まず史料的価値に大いに疑問符がつく≠ネどという。しかしこれについても、汝の研究≠フ手法を用いるなら、日亨上人は『家中抄』の「日道伝」の「十二箇条の法門」という語に、なんらの註も付されていない。故に『家中抄』の「十二箇条の法門」に関する記述を用いても、なんら問題はないではないか。
 また汝は、「本師の弁証は……」という日亨上人の頭注が付された箇所について、それ以降の「別して之を論ぜば十二箇条の法門あり甚深の血脈なり其の器に非ずんば伝へず、此くの如き当家大事の法門既に日道に付属す、爰に知りぬ大石寺を日道に付属することを、後来の衆徒疑滞を残す莫れ云云」(同前)との箇所を指すと一応は思われるが、「本師の弁証」という言葉を考慮に入れると、「法を日道に付属す」から最後の「後来の衆徒疑滞を残す莫れ云云」までの一連の文章を指している、と考えるべきであろう≠ニしている。しかし「法を日道に付属す」からの箇所に頭注を付されたのなら、その上部に頭注が付されるのが自然であり、一連の文章≠いうなら、前回述べたように、「日道伝」全体についての註とみなすのが自然である。
 また汝は、「付会」の意味を辞書を持ち出して述べているが、「加附會益誤後生可悲」という頭注は、「日道伝」の全体に精美でない記述があって後の者が誤解することを悲しむという意であり、日目上人から日道上人への血脈相承に関する日精上人の「弁証」に誤りがあるというのではない。
 またここで汝は、「益(ますます)」の語について当該箇所より前の「日道伝」の血脈相承に関する記述、例えば相伝の切紙の目録等にも誤りがある、との日亨の考えが読みとれよう≠ネどと述べている。しかし相伝の切紙の目録≠ニいう箇所は、要集でいうと当該箇所の頭注の三頁も前になる。この頭注を「『日道伝』の全体についての註」とするのは阿部の解釈の誤り≠ニ言いながら、要集でいうと当該箇所の頭注の三頁も前にかかっているなどという汝の言は、およそ不合理である。なお汝は、「精美」の語について、『唯授一人相承の信仰上の意義』の「註」及び『十項目の愚問』において、「精義」と読んでいたが、今回の邪書の「注」において、阿部に送付した質問状の中では、この日亨の天註における「精美」を「精義」と記したが、単純なワープロの打ちミスなので訂正する≠ニしている。しかし、単純なワープロの打ちミス≠二度にわたって繰り返すなどとは、とてもまともな言い訳とはいえず、汝のお粗末さを自ら証明するものである。
 さらに、日亨上人が頭注を『富士宗学要集』刊行の際に省かれたことについて『十項目の愚問を弁駁す』において、
日亨上人は、読者に注意を促す大事な註であれば、必ず『富士宗学要集』にも残されたはずであり、これを省かれたということは重要な註ではなく、省くに如かずという日亨上人の御意志の表れと拝される。(四八頁)
と述べたことについて、阿部の得意な推測と演繹の混同である≠ニし、また日亨上人が頭注を省かれたことをそれが宗門にとって極めて不都合であったためかもしれないかの頭注については学問より宗門擁護を優先し、要集記載を避けたとしても何ら不思議ではない≠ネどと述べ、さらにこのような別の推測も、かなり有力な可能性を持っている≠ニ自讃している。汝は、他の箇所では、何かと論理♂]々と強調しながら、ここでは平然と自ら推測≠ナあることを認めている。このように、汝の論は極めてご都合主義な推測≠フ積み重ねであり、まともな論とはとてもいえないのである。
 
 次に汝は、「日道伝」における「内用」の語についての我らの見解に対し、無理な解釈≠ニいいながら私の推測の方が、阿部の推測……よりも多くの論理的根拠を有していると思う。後は、読者諸賢の判断に委ねよう私の推測の方がより合理的ではないかと信ずる≠ネどと述べている。汝は、阿部日顕の教学に対する十の学術的批判≠ニいうタイトルを付けながら、ここでは、私の推測思う信ずる≠ネどとして、単に自らの考えを述べているにすぎない。
 ここで「内用」の語についてであるが、汝が『十項目の愚問』の中で、「内用」という仏教語は、私も寡聞にして知りません≠ニいうから、我らは『法華玄義』『玄義釈籤』にある用例とその意味を教えたのである。汝はこの語が各種の辞典に掲載されていないことをもって一般に通用する仏教語とは言えない≠ニ言い、また「内用」とは、註を付すほどの語でもない≠ニも述べている。「内用」の語を知らなかったことの負け惜しみと言い訳であろうが、あまりに見苦しい。汝は十 在家僧の認識について≠フ中で真理の前ではどこまでも謙虚であることが、公正な議論を行うためには大前提となる≠ネどと偉そうに講釈を垂れているが、明らかな失態の一つすらも素直に認められない汝が、真理の前ではどこまでも謙虚≠ニは笑わせるではないか。
 この「内用」とは、日顕上人が、
「内用」とは、嫡々代々の内証において用いる真の唯授一人、七百年、法統連綿をなす根幹の相承、一言一句も他に申し出すべからずと示されたる、別しての十二カ条の法体法門であります。(創価学会の仏法破壊の邪難を粉砕す二〇五頁)
と御指南せられるように、「嫡々代々の内証において用いる」という意であり、たとえば「外用は法華経予証の上行菩薩、内証は久遠元初自受用報身である日蓮大聖人」(日蓮正宗宗規第二条)というように、内証と外用を対比させる通例の用い方とは異なるのである。
 なお汝は、日顕上人が平成十四年三月の「宗旨建立七百五十年慶祝記念開宣大法要」の御説法において「内証と外用の二大法門」と述べられたことに対して、今後は「内用と外用の二大法門」に変更するべきであろう≠ネどと述べている。しかしこの日顕上人の御説法は、総本山三十一世日因上人の『三四会合抄』の大旨が、
内証と外用の二大法門をもって大聖人様の御法義を全般的に拝判(大日蓮 平成一四年五月号四八頁)
されたものであることを述べられたものであって、大聖人の外用は上行菩薩の再誕として、また内証は久遠元初の御本仏として、その御境界を顕されたことを示されたのである。したがって、血脈相承における内用と外用とは異なるのである。汝は自らの浅識を恥じるべきである。
 
 次に汝は、「十二箇条の法門」と「形名種脱の相承、判摂名字の相承」との関係について、私の主張は、一貫して「『十二箇条の法門』に『形名種脱の相承や判摂名字の相承』が含まれる」ということである≠ニ述べている。
 しかし、汝が延々と論を展開しようと、我らの見解は、「十二箇条の法門」に「形名種脱の相承や判摂名字の相承」が含まれるのでもなければ、「十二箇条の法門」と「形名種脱の相承や判摂名字の相承」とは内容的にイコールのものでもなく、「十二箇条の法門」と「形名種脱の相承、判摂名字の相承」は別個の法門なのである、ということである。『観心本尊抄文段』に、
故に当抄に於て重々の相伝あり。所謂三種九部の法華経、二百二十九条の口伝、種脱一百六箇の本迹、三大章疏七面七重口決、台当両家二十四番の勝劣、摩訶止観十重顕観の相伝、四重の興廃、三重の口伝、宗教の五箇、宗旨の三箇、文上文底、本地垂迹、自行化池、形貌種脱、判摂名字、応仏昇進、久遠元初、名同体異、名異体同、事理の三千、観心教相、本尊七箇の口決、三重の相伝、筆法の大事、明星直見の伝受、甚深奥旨、宗門の淵底は唯我が家の所伝にして諸門流の知らざる所なり。(御書文段一八九頁)
と示されているが、日顕上人が、
大聖人、日興上人以下に伝わる甚深の相承には、外用と内用があり、特にその内用と定められた唯授一人の血脈相承の文には、一言半句も触れておられない(中略)この文段の「重々の相伝」と言われるものは、秘伝ながら外用の範囲であります。さらに内用において、金口嫡々唯授一人の相承があり(創価学会の仏法破壊の邪難を粉砕す二〇四頁)
「外用」とは、外に向かって仏法の筋道を示す、従浅至深、一切の法門であり、日寛上人の挙げた名目も、大体ここに入ります。「内用」とは、嫡々代々の内証において用いる真の唯授一人、七百年、法統連綿をなす根幹の相承、一言一句も他に申し出すべからずと示されたる、別しての十二カ条の法体法門であります。(同二〇五頁)
と御指南されるように、『観心本尊抄文段』に挙げられた「重々の相伝」は、いずれも「外用」の法門相承であって、「内用」たる金口嫡々の相承ではない。
 さらに汝は、我らが「日道伝」草本の記述を根拠に、「十二箇条の法門」と「形名種脱の相承、判摂名字の相承」が別のものであると指摘したことについて、この断定にも重大な欺瞞が存する阿部が草本を基準にして完成本の文意を解釈している下書きを基準にして完成本を解釈するに至っては、本末転倒も甚だしい。話が逆である%凾ニ邪難している。
 しかし汝のこの邪難にこそ大いなる欺瞞が存するのである。汝は完成本の『家中抄』の「日道伝」には、「形名種脱の相承、判摂名字の相承等」が「十二箇条の法門」であることが明記されている≠ニ述べ、『家中抄』の記述を根拠に「十二箇条の法門」と「形名種脱の相承、判摂名字の相承」が同内容であると断定している。この断定こそが根拠のない勝手な断定なのである。
 そもそも、『家中抄』「日道伝」における相承の記述について、草本と完成本の内容が食い違っているのかといえば、全くそのようなことはない。草本では、
御上洛の刻み法を日道に付属し玉ふ。惣じて之を謂へば内用外用金口智識なり。委細に之を論ずれば十二箇条の法門有り。又御書并びに血脈抄に於て一大事の相伝あり。謂く形名種脱の相承、判摂名字の相承也。此の二ケ相承は当家一大事ナル故甚深の血脈なり。(研教六―四三七頁)
とあり、「十二箇条の法門」とは別に「形名種脱の相承、判摂名字の相承」が存することが明記されている。そして完成本では、
御上洛の刻み、法を日道に付嘱す、所謂形名種脱の相承、判摂名字の相承等なり。総じて之れを謂えば内用外用金口の知識なり、別して之れを論ずれば十二箇条の法門あり、甚深の血脈なり(聖典六九五頁)
とあり、草本と矛盾する記述は全くなく、また、どこにも汝がいう「形名種脱の相承、判摂名字の相承等」が「十二箇条の法門」である≠ニする根拠もない。したがって草本に明記された「十二箇条の法門」と「形名種脱の相承、判摂名字の相承」が別のものであるとする内容こそ、完成本の正しい拝し方として確たる根拠となるのである。
 汝の完成本の『家中抄』の「日道伝」には、「形名種脱の相承、判摂名字の相承等」が「十二箇条の法門」であることが明記されている≠ニの主張は唯授一人血脈相承の本義より完全に否定されるものではあるが、文証の上からも完全に破綻しているのである。
 
 また汝は、『十項目の愚問を弁駁す』において日精上人の『当家甚深之相承之事』と『家中抄』「日興伝」を引いて、
日精上人は、総じての法門相承である両巻抄と、「全く余仁に一言半句も申し聞かす事之れ無し」という唯授一人の相承について厳格に立て分けられていたことが拝される(五三頁)
と述べたことを疑難し、これでは、形名種脱の相承と判摂名字の相承が「唯授一人の相承」なのか、複数の僧に相伝される「総じての法門相承」なのか、はっきりしない≠ネどと述べている。しかしこれについては、すでに『邪誑の難を粉砕す』において、
『百六箇抄』『本因妙抄』は、大聖人より日興上人に相伝された重要書であるが、ただちに唯授一人血脈相承の相伝書ではない。それは、『家中抄』に、
 正和元年十月十三日に両巻の血脈抄を以つて日尊に相伝し給う、此の書の相承に判摂名字の相承、形名種脱の相承あり、日目・日代・日順・日尊の外漫りには相伝し給わざる秘法なり。(聖典六三五頁)
 と、日目上人の他に日代・日順・日尊の各師に両巻抄を示されたことが記され、さらに日應上人が『弁惑観心抄』に、
 之を以て案ずるに此の血脈抄は唯授一人に非ずして二人三人四人迄も相伝し玉ふ処の相承なれば一目以て惣付属なること明白なり。(二一八頁)
 本因血脈両抄は興師を対告衆として御弟子檀那一同に示されたるの御書なり(二一二頁)
 と示されるように、これらは総じて僧俗一同に開示された法門の相伝書なのである。(八七頁)

と述べたように、「形名種脱の相承、判摂名字の相承」は、『百六箇抄』『本因妙抄』に関わるものであって、総じての法門相承である。
 これに対して、『当家甚深之相承之事』の、
当家甚深の相承の事。全く余仁に一言半句も申し聞かす事之れ無し、唯貫首一人の外は知る能わざるなり。(歴全二―三一四頁)
とのお示しは、唯授一人金口嫡々の血脈相承について仰せられたものである。このように、両者の相違は明確なのである。
 
 さらに『家中抄』の「日道伝」の、
御上洛の刻み、法を日道に付嘱す、所謂形名種脱の相承、判摂名字の相承等なり。総じて之れを謂えば内用外用金口の知識なり、別して之れを論ずれば十二箇条の法門あり、甚深の血脈なり、其の器に非ざれば伝えず、此くの如き当家大事の法門既に日道に付嘱す。爰に知りぬ、大石寺を日道に付嘱することを。後来の衆徒疑滞を残す莫かれ。(聖典六九五頁)
との文について、前回『十項目の愚問を弁駁す』において、
唯授一人血脈相承の全体の総別を「之」と仰せられていることが明らかである。(五四頁)
と答えたが、ここに「之」とあることについて、汝はさらに疑難し、文脈に沿った正しい解釈は、間違いなく「形名種脱の相承、判摂名字の相承等」=「之」である。したがって、「惣じて」の「之」とは形名種脱の相承、判摂名字の相承のような「法」≠ナある、としなければならない。同様に、「別して」の「之」も形名種脱の相承や判摂名字の相承のような「法」≠指すのだから、「十二箇条の法門」とは形名種脱の相承、判摂名字の相承に代表される諸法門である、と解するのが最も妥当である≠ネどと主張している。このような邪難も、先に指摘したように、汝の完成本の『家中抄』の「日道伝」には、「形名種脱の相承、判摂名字の相承等」が「十二箇条の法門」であることが明記されている≠ニいう文意の取り違いによるものである。『家中抄』の完成本と草本を照らし合わせてみれば、「総じて之れを謂えば内用外用金口の知識なり」には、「御書并びに血脈抄に於て一大事の相伝」及び「十二箇条の法門」が存する。そして「形名種脱の相承、判摂名字の相承」は「御書并びに血脈抄に於て一大事の相伝」に括られ、汝がいかに「等」の字について論じても、これは外用である。これに対して「十二箇条の法門」は、別しての内用なのである。汝は総別の立て分けに混乱しているのであり、これを正しく拝せば「形名種脱の相承、判摂名字の相承等」と「十二箇条の法門」が別のものであることが明らかである。このように、「形名種脱の相承、判摂名字の相承等」と「十二箇条の法門」が別である以上、『家中抄』中の「之」の字が指し示すものは「唯授一人血脈相承の全体の総別」と拝す以外にないのである。
 
 最後に汝は、「十二箇条の法門」の「内容」が日寛によって公開されている、などと言った覚えはない≠ネどという。しかし汝は質問状において、「十二箇条の法門」が日寛によって理論的に開示されている、という事実≠ニ述べていた。理論的に開示≠ニいうことと公開≠ニいうことは同意ではないか。
 さらに汝は宗門の奥義は『文底秘沈抄』の法門を超えない≠ニ二十六世・日寛が言明していることから、十七世・日精が唱えた「十二箇条の法門」も『文底秘沈抄』の法義内容を超えるものではないだろう≠ニいう。しかし『文底秘沈抄』に「宗門の奥義」と述べられるのは法門相承であることは既に何度も述べた。汝が結論的にいう「十二箇条の法門」も『文底秘沈抄』の法義内容を超えるものではないだろう≠ニいうことも、論理≠装った汝の勝手な憶測≠ノすぎないのである。
 



ホーム    目次   前頁   次頁