5、
(方便の書『随宜論』の真意)

一、また、日精は、彼の謗法について信徒から糾弾された時に、造仏読誦論を正当化する「随宜論」という書まで著している。貴殿が編纂した「富士年表」によると、「随宜論」が著された寛永十年(一六三三年)は日精が登座した年の翌年である。いわば法主としての最初の仕事として、臆面もなく造仏読誦論を展開し、しかも、それをもって宗内を説得しようとしたのである。まさに確信犯と言わざるを得ない。
 この「随宜論」について、まず、貴殿自身は同書をどのように評価しているのか。因みに三十一世日因法主は、この「随宜論」の巻末に「精師御所存ハ当家実義と大相違也」と筆を加えている。教義を守るべき法主としては当然の言であると思うが、貴殿の所感はいかがなものか。いずれにしても貴殿自身の「随宜論」評価を是非とも明確にしてほしい。
 また、法主が謗法を正当化する著作を著すということは、いかなる罪に当たるのか。私には、「除歴」に相当する計り知れない大罪であると思われるが、貴殿はどのように考えるか。また、仮にも現在、法主の座にいる者としてどう処置するつもりか。明確に答えてもらいたい。

 貴殿は日精は、彼の謗法について信徒から糾弾された時に造仏読誦論を正当化する「随宜論」という書まで著している≠ニ短絡的に述べるが、『随宜論』については日精上人の御化導全体を拝さなければ、その御真意を窺うことはできない。なぜなら、実際に日精上人の化に浴した方々の中で、敬台院は特殊な例外であり、むしろ日精上人より教化を受けた方々は大曼荼羅御本尊を根本とした、純粋大石寺教学を学び、死にものぐるいで自行化他の信心に励んでおられる、そのような姿しか浮かび上がってこないからである。
 そこで、先にも引用したが、日精上人を始めとする御歴代上人より直接甚深の御指南を賜った、金沢信徒・福原式治の『秘釈独見』の記述より、日精上人の御化導の一端を紐解くこととする。まず、
日精上人は、人、壱人をすすめ入れん功徳は八万四千体之白仏を造り供養する功徳にも増し候と御示しにて候。壱人仏種を取り候へば、其壱人の身之内に八万四千之煩悩と申す眷属、皆心王とともに仏に成り候也。然れば薄仏は八万四千木にて造りたるにて候。一人を受法させては八万四千の生き仏を造るに成り候ゆへに功徳大きにすぐれ候との御事にも候。何とぞ成す可き縁のある御方は、一人にても御同門に御すすめ成さるべき御志深く候へかしと存じ奉り候。御親子の間、又は妻子兄弟御眷属方は申すにも及ばず候。穴賢穴賢。
との記述がある。この日精上人の御指南は、はじめの引用と同趣旨であるが、さらに詳細である。つまり、「一人を折伏するということは、折伏相手の八万四千の煩悩がそのまま八万四千体の生身の仏となるのであり、八万四千の木の薄仏を造る功徳より大いに勝れるのである。故に縁のあるところ、一人でも多くの折伏を深く志さねばならない。妻子兄弟眷属は言うまでもない」と、いうものである。この御指南を受けた福原式治は折伏に大奮起し、逆境の中、死にものぐるいの折伏を行ずるのである。
 この記述により明らかなことは、日精上人が、当時、仏教信仰の化儀として、一般的に諸宗が用いる方法であった造仏読誦に執着がある人に対しては、その説得として「一人折伏する功徳は、折伏した相手一人が、八万四千体の生き仏となるのだから、木の薄仏を八万四千体造る功徳よりも遥かに勝れる」と仰せられ、造仏への執着を捨てるよう教導されていたという事実である。さらに『秘釈独見』の御歴代上人忌日表の日精上人の項には、
此の御時代より在家御弘法の為に御本尊を御授与也
と、記されている。この記述が意味するところは、日精上人以前にも在家授与の御本尊は存したが、特に日精上人の時代より、信徒にも御本尊が多く授与され、ともすれば化儀が乱れがちであった信徒にあっても大曼荼羅正意の化儀を徹底されていったということである。
 さらに『秘釈独見』には、これを記した福原式治はじめ、その縁者八名、計九名に日精上人書写の御本尊が授与された事実が記されている。このことから福原式治は日精上人にしばしばお目にかかり、直接、様々な御指南を賜ったであろうことが伺えるのである。つまり、先の造仏制止の御指南は日精上人から直接賜ったものなのである。
 以上の『秘釈独見』の記述が意味するものは、日精上人の御教導が大曼荼羅正意の純然大石寺教学であったこと。これは全く疑う余地がないのである。
 貴殿は次の『秘釈独見』御歴代上人忌日表、末尾の記述を心して読め。
問うて云く、此の御歴代、聖人以後の伝上の内にては何れはたっとく御座す耶。答えて云く、何れも崇めずと。(中略)御歴代※の伝上に何れたっときと云う事はなき也。御相承ある故に皆たっとし。能々思うべし。人に依るときは御相承を軽しむるになる也。是大謗法の重罪也。
(※大石寺御歴代上人)
と、即ち御歴代上人にあっては血脈付法の故に、全ての御法主上人が等しく尊いと記されている。もし日精上人が、ある時は造仏、ある時は大曼荼羅など、首尾一貫しない御指南をされていたとしたら「御相承ある故に皆たっとし。能々思うべし」とは絶対ならないはずである。この、御歴代上人は血脈付法の故に等しく尊いとの、福原式治の血脈に対する尊信の言葉、かつての池田大作の言葉と文面は似ていても、その心根は比ぶべくもない。
 すなわち、日精上人の御指南は大曼荼羅正意で一貫していたことが疑いないのである。
 このような視点に立って、日精上人が一往造仏擁護の『随宜論』を認められた意義を教えよう。
 そもそも日精上人はなぜ御自身の大曼荼羅正意の御化導と食い違う『随宜論』を認められたのであろうか。その意義は奥書に記されている。つまり『随宜論』には、
予法詔寺建立の翌年仏像を造立す、茲に因って門徒の真俗疑難を到す
と奥書されている。この記述については、当時の経緯を慎重に見極めなければならない。すなわち、法詔寺は敬台院が建立寄進したとはいえ、寺院運営の全権が住職である日精上人に存したかといえば、そうではない。なぜなら、後年、敬台院が日精上人と不仲になり、住職・日精上人は法詔寺を退出せざるをえなかったのであり、さらにまた、法詔寺は敬台院が徳島に赴くのにともない、敬台寺として徳島に移動させてしまうのである。このようなことからも法詔寺は宗門に寄進した寺院というよりは、敬台院の私寺・所有物という性質が色濃く窺えるのである。事実、敬台院が大石寺にあてた文書に、
法詔寺の住寺(持)は日詔※にて候まゝ寺につき(附)申し候諸道具の書付の通りは日詔請取申し候はんまゝ(※日詔は敬台院のこと・富要八―五八頁)
との記述がある。この文書は日付のみの記載で年号が記されていないが、寛永十七年と推測されている。この時、法詔寺の住職は日感と思われるが、敬台院は日感をさしおいて、堂々と住持(住職)を名乗って大石寺に文書を送付している。すなわち法詔寺の実質的な支配権は、紛れもなく敬台院に存したのである。
 翻って、法詔寺の仏像造立は落慶の翌年となっているが、なぜ翌年に行われたのか。寺を建立するのに、本尊が定まっていないということはありえない。当初より本尊として仏像安置が予定されていれば準備期間としては十分すぎるほどある。つまり落慶翌年の仏像造立は、敬台院には仏像造立の意志があったが、住職である日精上人がそれを許さなかったため、落慶時には仏像はなかったのである。しかし寄進者の敬台院がどうしてもそれでは飽きたらずに、結局仏像が安置されたというのが真相であろう。
 つまり、法詔寺の仏像は日精上人が御自分の意志で造立したのではなく、敬台院が日精上人に無理強いして造立したと見るべきである。
 そして、日精上人が『随宜論』を著された真意であるが、ともかく法詔寺に仏像が安置されたことで、門徒よりさまざまな批判的な意見が噴出した。この批判は敬台院に向けられたものだったのか、日精上人に向けられたものだったのか。恐らくは前者、敬台院であったと思われる。なぜなら、法詔寺の正式名は「敬台山法詔寺」と言い、敬台院の名が冠されていた。その名が示すとおり敬台院の私寺であることは誰の目にも明らかであった。そして敬台院は自分の寺に向けられた「造仏謗法」との批判を絶対に許さなかったのである。なぜなら、次の敬台院の文書に、敬台院の性格の一端を窺うことができる。
此まんだら※は見申す度毎にあくしん(悪心)もまし(増)候まゝ衆中の内に帰し申し候(※日精上人筆御本尊 富要八―五八頁)
とある。寛永十七年頃の敬台院は、おそらく信仰的な部分で日精上人と衝突し、日精上人書写の御本尊を拝すると悪心が生ずる、よって日精上人の御本尊は返却するとまで述べている。ここに、逆上すると信仰の筋目すら見誤るという、敬台院の直情型の性格が窺えるのである。日精上人の御本尊を拝して悪心が生ずるまでに、衝突した原因とは何か。考えうる一番の原因は敬台院の造像義に対して、それを改めるべくなされた日精上人の善導である。おそらく日精上人は、一度は方便として造像を許しても、後に敬台院を本義に導こうと仏像を取り除こうとされたと思われる。しかし敬台院は日精上人の御指南を素直に聞き入れようとはしなかった。まして門徒の僧俗が、自分や、その行動を批判しているとなれば、我慢ならないことであったであろう。
 そこで日精上人は何とかその批判を一端ねじ伏せるなり、敬台院の怒りを沈めるなりする必要があったのである。先に挙げた『随宜論』奥書には、日精上人が造像を行ったと記されているが、諸の状況より敬台院の意志で仏像を造立したことは間違いないところである。しかし、敬台院は、やんごとなき身分である。門徒の僧俗がこぞって敬台院を批判すれば、収拾のつかない事態を招きかねない。故に、敬台院への批判をかわすため、事態を収拾し宗門を守るため、一時の方便として『随宜論』という造像擁護の書を著す必要が生じたのである。そして、敬台院に造仏は謗法ではないとの方便を構えて納得させ、また批判する僧俗にも示して、造像は自分がやったことであると、批判を一身に受けられたのである。しかし、これはあくまで護法を志された上での一時的な措置である。
 また、『随宜論』は一見、造像を擁護する内容に思われるが、『随宜論』を根拠に造像を行わんとすれば、その最後に、
然らば富山の立義は造らずして戒壇の勅許を待ちて而して後に三ケの大事一度に成就為す可きなり(中略)願くは後来の学者二義を和会せば造不造は違する所無くして永く謗法を停止して自他共に成仏を期すのみ
とある。つまり富士の義は、広宣流布の時に仏像を造るのだからそれまでは造るべきではない、仏像の造の義は本門寺建立以後にあり、不造の義は本門寺建立以前にある。造・不造の義は違えてはいけない、つまり『四菩薩造立抄』の造像制止の御指南の構格と同様、未来広宣流布の時に事寄せて仏像造立にブレーキをかけ、本門寺建立以前は仏像を造立できなくしているのである。そして造像の謗法を停止して自他共に成仏を期す、と仰せられている。
 また本仏義についても、『随宜論』には、
元祖日蓮聖人は上行菩薩の後身なり。此の故に内證を論ぜば自受用報身如来なり。又本門四依の内初依の導師なる故、又餘仏なり。又下種の仏とも云う可き歟
と述べられている。即ち日蓮大聖人の御内証を論じて自受用報身如来であると仰せられて、当家の本仏義を了解されていることを述べられているのである。当家独歩の宗祖本仏義に到達されている方が、造像家であるはずはないのである。
 また、日精上人が『随宜論』を著された結果として、造仏の義に惑う者が増えたり造像が盛んになったかと言えば、門下はその影響を全く受けていない。仮に日精上人が造像義を正義だとお考えになられたなら、門下に造像を広く浸透させることも可能だったはずである。しかし大曼荼羅正意の正義が揺らいだという史実も全く伝えられていない。日精上人は血脈の深義に基づく数々の御著述をされ、また後に詳しく述べるが『日蓮聖人年譜』では日辰の三大秘法義を破折されるという知徳を具えた方である。本心から造像が正しいと思っているならば、造像義を展開なされるはずである。しかし『随宜論』の造像義は全く当家の法門と、水と油のように相反するものであり、その結果、その義が用いられることなく今日まで来たのである。即ち『随宜論』は一つの文書として大石寺に残っていたというだけで、門下には全くその影響が出なかったのである。
 以上のことから『随宜論』は、敬台院に対する門徒真俗の批判をかわす目的のためだけに著された方便の文書と考えることが至当である。
 よって貴殿が三十一世日因法主は、この「随宜論」の巻末に「精師御所存ハ当家実義と大相違也」と筆を加えている。教義を守るべき法主としては当然の言である≠ニ日因上人の言を挙げて日精上人を侮辱するが、勘違いするものではない。日因上人が注記されたのは、末弟がその表面上の文のみを見て、造像義を用いないようにとの令法久住・広宣流布へのお志からである。日精上人もまた、弟子の育成、信徒の教導、また当時の政情、敬台院等の特殊な檀越への教導、あらゆる方向に目を配りながら、疲弊した大石寺を復興へと導かれたのである。つまり日精上人のお心も令法久住・広宣流布のためである。日精上人・日因上人とも同じ志からのお振る舞いであり日精上人が謗法を正当化≠オたなどということではないのである。
 また日精上人は、敬台院という機根をどのように思われていたであろうか。日精上人は信徒御授与の御本尊の多くに、「日蓮在御判」の脇に「日興聖人」と記されている。恐れ多いことながら、この御意を拝察すれば、「大聖人の仏法は全て日興上人に血脈相承され、またその血脈は日興上人の付弟である十七世の日精に厳然と伝えられている」と、そのことを明確に御表示されたものではないだろうか。日興上人の付弟として、敬台院のような特殊な機根に対しては、どのように化導したらよいか、特に日興上人の御意を深く深く拝されたはずである。そして、慈悲の上から敬台院を何とか導こうと『五人所破抄』の、
是継子一旦の寵愛、月を待つ片時の蛍光か。執する者は尚強ひて帰依を致さんと欲せば、須く四菩薩を加ふべし、敢へて一仏を用ゆること勿れ云云。(新編一八七九頁)
との日興上人の御指南を拝され、仏像への執着が断ち切れない敬台院を導くため、四菩薩と共に仏像を置くことを許されたのである。それでも大曼荼羅が撤廃されたわけではなく、大曼荼羅の左右に釈迦・多宝・四菩薩が置かれたと思われる。
 このように、日精上人は敬台院が特殊な立場の信徒であったこと。また造仏強執の機根であったこと。これらに鑑み善巧方便として造仏を許可する『随宜論』を著されたのである。
 大聖人・日興上人以来の血脈が、日精上人、また中興日寛上人等を経て、御当代日顕上人に厳然と伝承され、日蓮正宗僧俗が現在も大聖人の仏法の功徳に浴している現実をどう受け止めるのか。かつては創価学会も、日精上人が十七世の御法主上人として伝持された血脈によって、大聖人の仏法の功徳を受けたのではないのか。貴殿が法主が謗法を正当化する著作を著すということは、いかなる罪に当たるのか「除歴」に相当する計り知れない大罪である≠ネどと述べることは、創価学会が、かつては日蓮正宗の信徒団体として発足したという、その根本を完全に忘れて捨て去ることであり、仏法を騙り、金を集め、政治権力を獲得するためだけの、似非(えせ)仏教団体であることを宣言していることにほかならないことを知れ。

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