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(日精上人の読誦論にも誤りなし。)

一、時局班は、一部読誦を容認する日精の発言を庇うため、「日蓮聖人年譜」の助行に関する記述に対する日亨上人の頭注にも難癖をつけている。
 日亨上人の頭注に「助行ヲ広クシテ遂ニ一部読誦ニ及ブ正ク開山上人ノ特戒ニ背ク用フベカラズ」と記されているように、日精はここで、大聖人自身が諸人に与えられた御書を引いて、大聖人御自身も法華経一部の読誦・書写を行い、御在世当時の門下たちにも積極的に行うことを勧めていたかのごとく見せているのである。
 それを時局班は「日精の論旨」は「題目以外は皆助行であることを明らかにするところに主眼が存する」と誤魔化して、日精を正当化しようとする。
 日精の悪意は明らかである。例えば、引かれている月水御書の御文では、授与者である女性が一部読誦を望んだので一応は容認するかのように語られつつも、大聖人の御本意は、一部読誦の必要はなく方便・寿量の二品を読誦すべきであることを教えられることにある。それにも拘らず、日精は二品読誦を臨時の簡便なものとしてとらえ、一部読誦を正式なものとして大聖人が示されたように記している。
 このような姑息な記述であるにもかかわらず、一部読誦を主張したものではないと時局班が強弁するのは、読解能力が欠如しているのか、それとも自身が日精の一部読誦を容認しているのか、と疑問を抱かせるものである。時局班の作文を賛嘆する貴殿も、一部読誦論者と考えてよいのか。

 ここで貴殿は、『富士宗学要集』第五巻一三一頁に付されている日亨上人の、
助行ヲ広クシテ遂ニ一部読誦ニ及ブ正ク開山上人ノ特戒ニ背ク用フベカラズ
との頭注について時局協議会が、
助行の混乱が一部読誦に及ぶとされているが、日精上人の論旨は、正行は南無妙法蓮華経の五字七字に限り、方便・寿量も正行ではない、いわんや一部をや、というものであって、題目以外は皆助行であることを明らかにするところに主眼が存するのである。(中略)資料から受ける「造読家ではないか」との客観的印象は非常に強く、やむをえず、後学のために注意の批判をされたのであろう。(大日蓮 平成九年十一月号四九頁)
と論じたことにつき、誤魔化して、日精を正当化しようとする日精は二品読誦を臨時の簡便なものとしてとらえ、一部読誦を正式なものとして大聖人が示されたように記していると強言して止まない。貴殿の悪辣さにはほとほとあきれる。 『日蓮聖人年譜』の中のどこをどう読めば方便品・寿量品読誦が臨時の簡便≠ナあり、一部読誦が正式≠セなどと書いてあるのだ。
 腐りきった眼にウロコがこびり付いて、一度や二度では蒙が開けないらしい。何度でも言う。
日精上人の論旨は、正行は南無妙法蓮華経の五字七字に限り、方便・寿量も正行ではない、いわんや一部をや(同頁)
というものである。
 以下に再度その意義を説明する。日精上人は『日蓮聖人年譜』に、
凡ソ当家の意は要行を以て正行とすることは末代凡夫の機を勘へて行し易き故、然リと雖モ読誦の助行を修することを妨く可からず高開両師此ノ意なり(富要五―一二八頁)
と仰せになり、当家では要行すなわち題目を正行とするが、正行だけではなく助行も行う旨を仰せられている。そして、
南無妙法蓮花経五字七字を以て五種に行ぜしむ是を正業正行と為すなり、一部受持読誦解説書写等を以て助業助行と為すなり、所詮七字口唱を以て正行と為し自余は皆助行なり(同一二八頁)
と正行の唱題以外、法華経のどの品を読誦してもそれは全て助行であると仰せられるのである。ここで一部全てを助行と仰せられる意味は、
直専持此経とは一経を指スに非す専ら題目を持ツて余文を雑へずと云ふ文なり、尚一経の読誦を許さず何況や五度をや、此ノ文の意唯妙経五字七字の題目を持ツて方便寿量の余文を雑へず、なほ方便寿量を雑へず況や一部読誦をや況や五波羅蜜をや(同一二九頁)
と、題目のみが正行で、余文は交えないと述べられ、方便品・寿量品でさえも正行ではないのだから、一部読誦や五波羅蜜は言うまでもないと仰せられるのである。つまり正行については「なほ方便寿量を雑へず」の次に「況や一部読誦をや況や五波羅蜜をや」との「況や」のお言葉こそ、方便品・寿量品の要品読誦が、助行読誦の中の肝要であるという趣旨を、当然のこととしてお述べになっているのである。そしてさらに正行・助行の立て分けを明らかにすべく、
若シ名字初心の凡夫方便寿量の読誦を以ツて正業正行と為し経力の勝用を顕すとは読誦に摂せざる人皆成仏す可からざるか、是レは本門寿量但怯弱とするなり、亦難行道となるなり、故に名字即の正業正行は唯題目の五字にして、方便寿量に非ず亦一部八巻に非るなり(同一二九頁)
と仰せられ、文底に一大秘法を秘沈する寿量品であったとしても、寿量品読誦だけでは難行道に陥る。寿量品とても助行である。あくまで正行は題目であると徹底せられるのである。
 要するに仰せの趣旨は、正行は唱題修行だけであり、自余は、たとえ寿量品であっても助行であると述べられて、正行・助行の立て分けを徹底されることに主眼があるのである。何も一部読誦が正式≠セとか、方便品・寿量品が臨時の簡便≠セなどと仰せられているのではない。正行は唱題で、それ以外はたとえ寿量品であろうとも法華経一部全てが助行であるとの仰せである。
 また日興上人も、
今末法の代を迎へて折伏の相を論ずれば一部読誦を専らとせず。但五字の題目を唱へ、三類の強敵を受くと雖も諸師の邪義を責むべき者か。(新編一八八〇頁)
と仰せられている。つまり、末法今時の正行は題目であることは勿論であるが、「一部読誦を専らとせず」ということは、助行として分々に行ずるとの意であり、日精上人の正行を題目、それ以外の法華経読誦は全て助行とする構格に同じである。
 さらに、日辰の一部読誦を徹底して破折し、題目が正行、方便品・寿量品読誦が助行との趣旨を顕揚された日寛上人におかれても、日辰の一部読誦を破折された意義を『末法相応抄』上「読誦論」の最後に、
法華経は一法なりと雖も、機に随い時に随って其の行万差なり。日辰偏に像法の釈相に執して未だ末法の妙旨を知らず、寧ろ株を守るに非ずや、那ぞ舷に刻するに異ならんや。(六巻抄一三四頁)
とお述べになられている。法華経の修行は万差があるが、日辰の一部読誦は「像法の釈相」、つまり脱益の釈尊に対する執着から起こるものであることを指摘されている。その上で、
若し三事相応の人有らば何ぞ之れを制すべけんや。三事と言うは、一には此の経の謂れを知り、二には正業を妨げず、三には折伏を碍(さ)えず云云。運末法に居し根機漸く衰う。有識の君子能く之れを思量せよ、恐らくは三事相応の人無からんか。(同頁)
と述べられている。日辰の、脱益の釈尊に対する妄執から起こる一部読誦は、ただちに時機混乱の大謗法であるが、万一、「三事相応の人」がいたならば、一部読誦を「制すべけんや」と、一部読誦を行うこと自体が謗法だとは仰せられていない。本因下種の当家の立場から一部読誦を行うことは、正業の題目を妨げ、折伏を碍える、つまり修行の円満ならざることが不可であると仰せられるのである。
 このように所対の関係で、正行の題目に対した場合、法華経全てが助行であるという趣旨は日興上人・日寛上人においても同じであり、そのこと自体が当家の教義に反するなどということはあり得ない。
 先に述べるごとく日精上人は血脈付法の御法主上人として、当家甚深の下種三宝義に通達されている。日辰のように、脱益の釈尊に執して一部読誦を立てるのとはその意義が根本から違うのである。
 貴殿は読解能力が欠如しているのか、それとも自身が日精の一部読誦を容認しているのか貴殿も、一部読誦論者と考えてよいのか≠ネどとも言っているが、このような言は笑止千万である。日精上人に一部読誦の義などなく、ましてそのような記録もない。読解能力が欠如している≠フは貴殿の方である。


一、さらに、この年譜は全体として多くの問題を孕んでいるので、日亨上人はこの年譜について、「又本師の宗義史実の誤謬は欄外に粗ホ批判を加ふれども、或は細密に及ばざる所あり、読者此レを諒せられよ」と末尾に注記されている。
 日亨上人は、日精の杜撰さにできる限りは手当てを施されたが、さじを投げざるを得ないものであったことが分かる。

 『日蓮聖人年譜』の末尾に日亨上人は、
編者曰く本山蔵御正本に依つて此を写す、但漢文態の所は延べ書にす、引文の誤り等は止むを得ざる所の外は訂正を加へず、又本師の宗義史実の誤謬は欄外に粗ホ批判を加ふれども、或は細密に及ばざる所あり、読者此レを諒せられよ。(富要五―一四六頁)
と記され、約五十箇所の頭注を加えられている。
 この『日蓮聖人年譜』の頭注の中には、日精上人の著述は要法寺流に傾いているとの印象を懐かれた日亨上人が、その記述には注意を要することを慮られて、後代のために論評を加えられたものである。しかし、そこには誤解もあられたのであり、実際には日精上人は時機に応じて摂受の御化導も遊ばされたが、全てにおいて当家の正義を逸脱することはなく、前に述べたごとく、むしろ困難な状況の中で、宗門のあらゆる面を復興に導かれたのである。つまり「日精上人に誤りはなかった」のであり、御当代日顕上人猊下はこのことを明らかにされたのである。
 日顕上人は、
あまりにも創価学会は日精上人のことを悪く言っております。しかし、日精上人の造仏云々については宗史の全体観から、より大きな化儀の角度で見る必要があるのです。(中略)ともあれ、日精上人がはっきりと造像家の日辰を、しかも本尊等の教義の解釈としての内容を破折しておられる以上、もう少し日精上人のことは、改めて考えなければならない意味があるのです。それを、日亨上人が言われたということだけをもって、いかにも口汚く日精上人を罵っているのが、この創価学会の者どもなのです。(中略)要するに、宗門は何も、始めからしまいまで「法主に誤謬は絶対にない」などとは言ってないのです。彼等が勝手に誣告しているだけであって、私をも含め、ちょっとした間違い、思い違いぐらいはどこにでもあり、それは正直に訂正すればよいのです。ただし、血脈の法体に関する根本的な意義については、けっして誤りはありません。(創価学会の仏法破壊の邪難を粉砕す六二頁)
と御指南されている。この御指南で仰せのように、日亨上人には、膨大な資料をお一人で研究される中において、資料の読み違い、また、誤謬伝説なども相まって、日精上人に対して、「造読思想あり」と判断せざるを得なかった状況があられたのであろう。信仰上の信念から言えば「有るはずがない」ことであるが、しかし資料からは「有り」と判断せざるを得ない。そのような意味から後世の学徒が道を誤ること無きようにとの御慈悲から、あえて真偽の研究は後世に託されたうえで、注意の頭注を付されたのである。それが誤解であったことが判明すれば、日精上人に誤りがなかったことはもちろんであるが、日亨上人におかれても法義上、正義を述べられていたことがはっきりする。つまり日亨上人の頭注については、右の日顕上人の御指南を体して、十分に注意をしながら拝読するべきであろう。

 このような悪文とその著述者を無批判に庇いつづけることは、むしろ多くの人を迷わす悪行ではないか。貴殿はその責任をどう考えるのか。

 『日蓮聖人年譜』を悪文≠ニ言うなら、なぜ日亨上人は『日蓮聖人年譜』を『富士宗学要集』に掲載され、また創価学会はその『日蓮聖人年譜』が掲載された『富士宗学要集』を刊行したのか。このことを、明らかにすべきである。
 貴殿の『質問状』こそ、純真な徒を迷わす悪文≠ナあり、また多くの人を迷わす悪行≠ニいわずして何と言おう。

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