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 敬称をつけろというのか?
         ─正信会─

  お粗末な口実

 自称正信会では、どうやら定期的に『大白法』を読んでいるらしい。せっかく本紙を読むなら、謙虚に自らの謗法を猛省すればいいのに、本「異流義破折」のことが目障りらしく、時折、話題に出して反論を試みる。
 本年七月の『正信会報』(第一一八号)の編集後記では「H・S」なる者が「内容は相変わらず無に等しい」とか「もう少し品のある文章を書けないものだろうか」などと、口汚く批判した。
 何を「下品」と評しているのかと思いきや、
 「『自称正信会の丸岡文乗が』『池田大作』云云と、平気で 他者を見下す」(同誌)
と述べているから、敬称を付さないことに怒っているらしい。
 勘違いしないでもらいたい。筆者が右の者どもに敬称をつけないのは、けっして見下しているからではない。
 大聖人は『立正安国論』に、
 「悪侶を誡めずんば豈善事を成さんや」(御書二三九頁)
と御教示である。加えて、誹謗正法の罪業を積む念仏僧らを、
 「妄語の至り、悪口の科、言ひても比無く、責めても余り有り」(同二四二頁)
とまで厳しく指弾されている。
 自称正信会も、大聖人の末弟と吹聴するならば、この謗法厳誡の姿こそ模範のはずである。
 にもかかわらず、「他者を呼び捨て」たことをもって、宗門を「独善的体質」などと非難するとは、その口実自体が、お粗末この上ない。

  誹謗正法の者に敬称は不要

 さらに続けて「H・S」君は、
 「こんな下品な文章をものして、何とも思わない宗門の体制と感覚は、常軌を逸している」(同誌)
と結論づけ、呼び捨てにすることを「下品」だの「常軌を逸している」だのとあげつらう。
 ならば、君に反問しよう。
 大聖人は、曇鸞、道綽、善導、法然など、誹謗正法の者らを「呼び捨て」にされ、敬称をつけられてはいない。これが念仏者だけに限らないことも、御書を開けばだれでもわかる。
 ということは、君の発想に従えば、大聖人は下品なのか?
 時代や社会の状況が違うなどの言い訳は通用しない。なぜなら、儀礼として敬称を付すことは、大聖人御在世中とて変わらないからである。
 社会通念を御存知でありながら、敢えて敬称をつけられなかったのはなぜか。それは正邪の峻別のためにほかならない。
 すなわち、筆者は大聖人の精神を体し、謗法を戒めるために、「丸岡文乗」や「池田大作」など、誹謗正法の者どもに敢えて敬称を付さないのである。

  常軌を逸した行動

 かつて、日達上人は、
 「我々は、この一大秘法の御本尊を拝み、宗旨の三秘として、三大秘法を説くのであります(中略)戒壇の御本尊に依って、我が宗旨が建立されておるのであります」(大日蓮 昭和四九年八月号二〇頁)
と御指南され、本門戒壇の大御本尊に大聖人の仏法のすべてが収まること、故にここから離れて日蓮正宗の教義は存在しないと示された。そして、
 「日蓮正宗の教義が、一閻浮提に布衍していってこそ、広宣流布であるべきであります。日蓮正宗の教義でないものが、一閻浮提に広がっでも、それは、広宣流布とは言えないのであります」(同頁)
と御指南されているのである。
 これは昭和五十二年路線を突き進む創価学会を破折されたものであるが、自称正信会とて、なんら変わることはない。彼らも、今や本門戒壇の大御本尊から離れ、日蓮正宗の教義でないものを広めようとしている。
 日蓮正宗から放逐され、富士の人間ではないくせに「富士の本流」などと標榜すること自体、全くの偽りではないか。
 この偽りこそ「常軌を逸している」と評すべきであり、「下品」すなわち、卑しい行動や態度と知るべきである。

大白法701(h18.9.16)号より転載



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