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 血脈相承誹謗を破す
 執拗な邪義の反復すり込み
         ─創価学会─

  地獄の中の懲りない面々

 なんとしても日蓮正宗を否定しなければならない創価学会は、創価新報で、
「破綻、矛盾だらけの日顕宗の“相承”」(平成一八年九月二〇日付同紙)
と題して、性懲りもなく血脈相承に対する誹謗を行っている。その執拗な邪義の反復すり込みによる洗脳は、かのオウム真理教以上の悪辣なものである。
 そのなかでは、血脈相承を「まやかし」と述べ、離脱僧の中島某を登場させて、
「相承を受ければ、それだけで法主には『大聖人の法魂』が宿るというのが今の宗門の教義である。そもそも、こんな教義は大聖人の仏法とはかけ離れたもの」(同紙)
などと言わせている。この血脈に対する反逆心こそが池田大作・創価学会の本質であり、まさに仏法を破壊しようとする魔性の実体である。
 しかし『本因妙抄』には、
「血脈並びに本尊の大事は日蓮嫡々座主伝法の書、塔中相承の稟承唯授一人の血脈なり。相構へ相構へ、秘すべし伝ふべし」(御書 一六八四頁)
と、厳然と唯授一人の血脈の存在が示されているから、創価学会の血脈否定こそが、「まやかし」であることが判る。

  恥知らずの創価学会

 そもそも文武一般、何事によらず、その精神や技術の精髄の継承は不可欠である。しかし、だれでもが継承の任に堪えうるかといえば、そうではない。やはり「器」というものがあるのだ。特に仏法においては、仏の悟りと深義の継承は、法器に対する付嘱によって行われてきたのである。
 以前の創価学会は、
「よく信心の血脈を問題にする者がいる。生死一大事血脈抄に『信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり』とある文をもって、信心さえあればよいとする立論である。誰でも自由に継承できるなどというのはこれだ(中略)有名無実の信心をふりまわして、付属相承を否定するは、総別の二義に迷惑し、師弟相対の深義に暗く自ら混乱を好む仕わざではないか」(大白蓮華 昭和四一年九月号三五頁)
と、日蓮正宗の正論を述べていたのだ。しかるに現在の創価学会では「信心の血脈」などと囀り、信心さえあれば日蓮大聖人の仏法の付嘱が受けられるかのように考えて、別付嘱である血脈相承を否定しようとしている。こんな恥知らずな教義改変でも、平気でできるのが創価学会なのだ。

  血脈相承の真実

 そもそも中島某なる元僧侶が、血脈相承の何を知っているというのだ。創価学会はこの点を明らかにしてみよ。
 できるわけはない。なぜならば、血脈相承は唯授一人であって、御法主上人しか、その内容は判らないからである。中島某など血脈相承について、知るよしもない。
 日応上人は『弁惑観心抄』に、
「唯授一人嫡々血脈相承にも別付惣付の二箇あり其の別付とは則ち法体相承にして惣付とは法門相承なり」(二一一頁)
「此の法体相承を受くるに付き尚唯授一人金口嫡々相承なるものあり」(二一二頁)
「此の金口の血脈こそ宗祖の法魂を写し本尊の極意を伝ふるものなり之を真の唯授一人と云ふ」(二一九頁)
等と、血脈相承に、別付嘱である法体相承と、これを受けるについての唯授一人金口嫡々相承の存在を示されている。このように「宗祖の法魂を写し」「本尊の極意を伝ふる」のが、血脈相承の不思議である。
 そういえば、いつか大作も、
「法水写瓶の血脈相承にのっとった信心でなければ、いかなる御本尊を持つも無益であり、功徳はないのである」(広布と人生を語る 八―二二八頁)
と言っていた。これを二枚舌と言わずして、なんと言うのだ。

大白法704(h18.11.1)号より転載



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