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  支持者こそ主人?
         ─創価学会─

 恩着せがましい!

 「恩着せがましい」とは「いかにも、恩恵を与えたことを、相手にありがたく思わせようとする態度」(小学館 日本国語大辞典)を意味する。
 公明党議員に対する創価学会の報道は、この「恩着せがましい」もの以外の何ものでもない。
 過日の創価新報(平成十八年十月四日付)においても、会長の秋谷栄之助自身が、
「支持者は『主人』である。議員は『召使い』である。それが本当の『民主主義』である」
と、「支持者」の言うことを聞けと言い放っている。
 たしかに支持者の支援によって選挙の当落が決まることは民主主義の根本原理である。しかし、だからといって、「議員は『召使い』」と言い放つのは、極言に過ぎ違和感を禁じ得ない。
 元来、候補者が掲げる政策や政治理念などを鑑みて、投票する候補者を選ぶのが民主政治ではないのか。自分達の代表を選び、国会で代弁してもらうために選挙をするのではないのか。
 その原点に立ち返ったとき、秋谷の言は、民主主義を勘違いしていると感じるのは、けっして筆者一人ではあるまい。

議員である前に…

 また秋谷は、
「議員である前に『信心』ではないか。『弟子』ではないか。ゆえに同志は、『信心』で、同じ『弟子』として、支援してくださる」
とも言っている。つまり、政策や政治理念等のいわゆる政治論争はなおざりのまま、同信の同志、同じ弟子として支援するとし、その上で「議員は『召使い』」と言うのである。
 ここに言う「信心」が、創価学会の邪信を指すことは言うまでもない。また「弟子」とは、池田大作の弟子との意であることも、明々白々である。
 創価学会の邪信とは、畢竟、大作信仰にほかならない現実をも考えれば、秋谷は、公明党議員である前に大作の弟子たれ、と強要しているのである。
 もし、これに反したときはどうなるか。かつての公明党元委員長に対し、今や「天魔の一凶」などと、罵詈雑言の限りを尽くしている現実を思えば、だれの目にも結果は知れよう。

 “公明党は大作の魂を忘れるな”

 これら秋谷の言は、「『支持者あっての議員』を生命に刻め」との見出しのもとに述べられたものである。しかし、先に見たことをも鑑みれば、この「支持者」との表現も、一般的支援者を指すものではあるまい。
 加えて、大見出しで、
「公明党は創立の魂を忘れるな!」
と掲げつつ、文中では、
「公明党の創立者は池田先生である」
と述べていることをも合わせ考えれば、結局は「公明党は大作の魂を忘れるな」と言っているにも等しいではないか。
 一方では、創価学会は公明党の支援団体に過ぎないなどと、政教一致の批判をかわしつつ、他方では大作の影響力を徹底し、あるいは大作への報恩を強要して、これが「民主主義」だと叫ぶのである。
 こんな公明党が、政権与党として日本の舵取りを握っていることを考えると、背筋が凍る。

  立正安国の実践

 大聖人は『立正安国論』に、
「先づ国家を祈りて須く仏法を立つべし」(御書 二四四頁)
と御教示である。
 現代の一凶と言うべき創価学会が、政権与党として大きな影響力を有している現実のなかで、真の平和の実現を考えるとき、正法の功徳を広く示すことこそが急務である。
 今や『立正安国論』正義顕揚七百五十年の節目を目前に控え、
「早く天下の静謐を思はゞ須く国中の謗法を断つべし」(同 二四七・)
の御金言を拝し、謗法破折に一層邁進して、各記念事業を成就することが我らの使命である。

大白法705(h18.11.16)号より転載



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