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   御本尊はどうしてるの?
         何を拝んでるの?
             ─正信会─


     自称正信会の徒労

 本年九月十五日号、十月一日号、同月十五日号の各継命紙のそれぞれ一面に、自称正信会の新たな拠点が開設されたことが報道されている。
 もとより、これら各拠点は、日蓮正宗とは全く無縁のものである。このことは、それぞれの拠点の名称が、日蓮正宗とは無関係に、各建立主らによって勝手に命名されている事実からも明らかである。
 かつて日達上人は、
 「日蓮正宗の教義が、一閻浮提に布衍していってこそ、広宣流布であるべきであります。日蓮正宗の教義でないものが、一閻浮提に広がっても、それは、広宣流布とは言えないのであります」(大日蓮
 昭和四九年八月号二〇頁)
と明確に御指南されている。
 この御指南は、昭和五十二年路線における創価学会の謗法を指されたものであるが、そのまま自称正信会にも当てはまる。
 いくら拠点を建てようと、日蓮正宗から離れた自称正信会の活動は、広宣流布とは全く無縁であり、むしろ謗法の害毒をまき散らしているに過ぎない。
 文字どおり、「徒労」以外の何物でもないのである。


    文証に逆らう妄執

 また、自称正信会では、
 「『戒壇の大御本尊』は秘蔵されることによって、御物体としての本尊の奥に厳然と在す、目に見えぬ日蓮大聖人の御内証・魂魄そのものたることが、化儀として示されてきた」(本年九月一日付継命)などと、わけのわからぬ抽象論を振りかざす。
 要は、実在の戒壇の大御本尊ではなく、その超越したところに、日蓮大聖人の御内証があると言いたいようだ。
 御戒壇様にお目通りのかなわぬ身と落ちぶれた以上、そんな脆弁を弄さなければならないのだろうが、全く大聖人の御化導を拝せぬ愚か者である。
 そもそも大聖人は、
 「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ」(御書 六八五頁)
と御教示ではないか。この「たましひ」こそ、御本仏としての御内証であり、しかも「すみにそめながして」御顕発あそばされたことも明確である。
 すなわち、御本尊にこそ、大聖人の御内証がましますことは御書から明白である。
 なかんずく本門戒壇の大御本尊は、大聖人御自ら「本懐」と示された一期御化導の肝要であり、故に日達上人は、
 「大聖人様は御自身の当体を戒壇の御本尊として、我等末法の衆生の依止の本尊と顕わされておるのでございます」(大日蓮 昭和四八年九月号 二〇頁)
と明確に御教示である。さらに、
 「大聖人の建立遊ばされた戒壇の御本尊を中心として、三大秘法の中心の御本尊として、我々は、この一大秘法の御本尊を拝み、宗旨の三種として、三大秘法を説くのであります(中略)それが、たま たま違ったことが入るならば、それは、日蓮正宗でもない」(大日蓮 昭和四九年八月号二〇頁)
とも御指南である。
 これだけ明らかな文証に反し、「目に見えぬ…御内証」と言い張るとは、もはや妄執である。


     何を拝んでるの?

 ところで、そんな邪教正信会は、新設した拠点にいったい何を安置しているのだろうか。そういえば、彼らが創価学会の『ニセ本尊』を破折する姿を見たことは無いように思うが…。
 まさか…。正信会よ、おまえもか! 創価学会は謗法だと言いながら、その創価学会と全く同じ謗法に手を染めたのか? 所詮、日蓮正宗でもなく、また大聖人の御化導の中心肝要に迷走する彼らにとって、今さら御本尊など、どうでもよいのかも知れない。
 こんな正信会に振り回され、福徳が積めると大きな勘違いをして、せっせと寺院建立資金を貢ぐ檀徒こそ哀れでならない。

大白法728(h19.11.1)号より転載



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