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俗物・大作の売名こそが唯一の目的 ─創価学会─ 講釈師、見てきたような嘘を言い・・・ 訳のわからぬ創価学会青年部が、座談会と称して勝手なことを言い立てる創価新報。 そういえば、かつて創価学会機関紙の聖教新聞では、会長の秋谷栄之助(当時)が主導して、宗門僧侶が、葬儀に際し高額の御供養を請求しただの、それを値切ったなどと、全くの虚偽を並べ立てたために、逆に名誉毀損であるとして賠償金を支払うはめになった。 青年部も会長ら幹部に倣ったものか、勝手旅所な戯言に終始しているが、なかでも、 「そもそも相承というのは、公の場でやるんだよ」(平成一九年一一月七日付の創価新報) などと、御相承は必ず公開されるかの如く装って、日達上人から日顕上人への御相承を否定せんとする企みは、まことにバカバカしいかぎりだ。 こんな言葉を信じるのは、愚かな創価学会員だけだ。 ならば聞くが、日蓮大聖人から日興上人への御相承も「公の場」だったと言うのか? 公の文証として「二箇相承」は挙げられるが、これは御相承そのものが公の場で行われた証拠ではない。 さらには御歴代上人の御相承について、ある程度、記録として残された文書等があっても、それらは御相承そのものが公の場で行われた証拠ではない。 それは当然である。御相承とは、御法主上人が唯お一人を抜きん出られて行うものてある以上、余人が関与する余地は寸分もなく、当然ながら衆人環視のもとに行われるものではない。 故に古来、「唯授一人」と拝するのである。 学会青年部は、そんな基本も知らずに、記録と御相承とを敢えて混同し、「相承というのは、公の場でやる」などと勝手に放言しているに過ぎない。 知りもしないことを邪推して話す彼らは、まさに「講釈師、見てきたような嘘を言い」との俗諺が、ピタリと当てはまる。 性懲りもなく「C作戦」 さらに、彼らは、 「日顕(上人)は、あの陰湿極まる『C作戦』を発動した」(同紙) と、性懲りもなく「C作戦」を持ち出している。 しかし、この架空の「作戦」なるものは、司法の場において、 「一方的な陳述の類であり、その内容も客観的根拠に乏しく、また、これらを補強し得る的確な証拠もない」(長野 地裁松本支部・平成一一年四月二一日の判決) と明確に否定されている。 被害者意識丸出しで、あたかも宗門が一方的な策略を用いて創価学会を破門したかの如き幻想を学会員に植え付けることを目論んで、根も葉もない架空の「作戦」を執拗に言い続ける「C作戦」報道こそ、創価学会の「陰湿」さを示して余りあると言えよう。 この尋常ならざるしつこさは池田大作の性格か?世間に嫌われるのも当然である。 何が目的なの? 今や創価学会は、大聖人の仏法などそっちのけで、大作を宣揚することに躍起である。 大作が得た「名誉称号」なるものは、現在、二百二十三にも上るそうだ(同紙)。もはや、ここまで来ると、俗物という表現すら超越している。 所詮は、創価学会の唯一の教義が大作の宣揚であり、大作の名を世界に売ることだけが目的と成り果てているのである。 かつて日達上人は、 「日蓮正宗の教義が、一閻浮提に右折していってこそ、広宣流布であるべきであります。日蓮正宗の教義でないものが、一閻浮提に広がっても、それは、広宣流布とは言えないのであります」(大日蓮 昭和四九年八月号二〇頁) と明確に御指南された。 広宣流布とは縁遠い売名に、なんの功徳も伴うはずもない。 なのに、こんなことにも気付かずに狂気歓喜する学会員の、なんと哀れなことか・・・。 大白法734(h20.2.1)号より転載 |