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「非学匠は理につまらず」 ─正信会─ 正信会の難癖 本年正月号の『正信会報』に、自称正信会における昨年度の教師講習会の講義が掲載された。そこでは、色々と理屈をこねまわし、御法主日如上人猊下の御指南について「法義の混乱」などと難癖をつけている。 その「混乱」とは、御法主上人が、『文底秘沈抄』の、 「事を事に行ずるが故に事と言うなり」(六巻抄 四一頁)との本門の題目についての御指南を挙げて、 「大事なことは、信心とはあくまでも理論や観念ではなく体験であり、実践である」(趣意) と、常々、我ら僧俗を督励されていることに対し、 「一宗を代表する貫主自らが 事・理の法門について、非常 に単純な見解をもって信徒倍増への理論として用いている」(同会報 三九頁) というものだ。 日蓮大聖人は、 「非学匠は理につまらずと云ひて、他人の道理をも自身の道理をも聞き知らざる間、暗証の者とは云ふなり」(諸宗問答抄・御書 三五頁) と御教示である。 まさに、彼ら正信会の僧侶らは、いたずらに宗門への反論を試みる「非学匠」であり、その姿は、怨念をもととした邪な活動であることを証明している。 正信会の混同 要するに、この筆者は、 「日寛上人は、理と事の相違が法体のそのものの違いであるとされてい(る)」(同会報 六八頁) とし、事と理の相違は法体の相違に限られ、修行の違いを示されたものではないかの如くとらえ、御法主上人の御指南に言いがかりをつけているのである。 しかし、御法主上人が引用されている『文底秘沈抄』そのものに、「行ずる」とあるではないか。「行」とは修行である。 すなわち、観念ではなく、実践を意味している。 法体に、事と理という相違がある以上、その実践修行にもおのずから大きな差異が生じることは当然ではないか。その事と理の法体の異なりに基づく我らの修行の相違を示されたところに、御法主上人の御指南の主意があることは明白である。 そのどこに、「法義の混乱」などがあろうか。 理行と事行の異なり そもそも大聖人は『三大秘法抄』に、 「題目とは二意有り。所謂正像と末法となり」(御書 一五九四頁) と仰せられ、正法・像法時代と末法とでは、同じ題目を唱えようとも、大きな違いがあることを示されている。すなわち、正像時代の題目は、いずれも、 「自行の為にして広く化他の為に説かず。是理行の題目なり」(同頁) と御教示され、化他行がないことをもって「理行の題目」と示されているのである。 これに対して、大聖人が御所持される末法の題目とは、 「前代に異なり、自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり」(同頁) と御指南である。 すなわち、自行のみにとどまらず、化他行を伴ってこそ事行となるのであり、本門の題目の真の功徳も具わるのである。 信行ともに具足せず 日寛上人は『文底秘沈抄』に、 「信行具足して方に本門の題目と名づくるなり」(六巻抄 七一頁) と御教示である。この「信行」とは、正しい御本尊への信仰心はもとより、自行化他にわたる実践修行をも含むことは、今さら言うまでもなかろう。 この二つがそろい、初めて「本門の題目」となり、その信行に邁進するところ、おのずと体験を積む。 この貴重な体験と実践を強調された御法主上人の御指南に、 「法義の混乱」と難癖をつける正信会は、信行ともに具足せず、その活動に功徳が具わることはない。 大白法740(h20.5.1)号より転載 |