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    法華経の学習運動?
       全く的外れな「立正」
              ―正信会―


      ささやかな小冊子

 本年、『立正安国論』正義顕揚七百五十年に当たり、宗門は七万五千名大結集総会を大成功裡に終え、五十万総登山もたけなわである。更に、御影堂の大改修をはじめ、総本山塔中の新築や記念出版など、数々の御報恩事業をすでに成就し、現在も行っている。
 このような宗門隆盛に比し、自称正信会は、ひっそりと鳴りを潜めていると思いきや、過日、筆者のもとに『信仰の寸心を改めて』なる小冊子が送られた。
 「この佳節にあたって上梓しました」(同書 まえがき)
とあることからすると、どうやら本年の御報恩行のつもりらしい。しかし、あまりにささやかな小冊子に、正信会組織の弱体化を垣間見た思いがする。
 正信会問題から早三十年。宗門の大前進と正信会衰退の姿に、正邪は歴然としている。

    法華経の学習運動?

 この小冊子では、
 「『法華経』こそ末法適時の正法」(一四n)
などと書くが、「御本尊」の記述は見当たらない。
 むしろ「あとがき」には、
 「『法華経』への回帰を訴え、『法華経』信仰をもって個人・社会の救済をめざす『立正安国論』は、広宣流布を願う私たち正信会僧俗の永遠の指針」(七七n)
と記していることからすると、故意に「御本尊」への信仰心を削いでいるのだ。
 加えて、
 「安国論奏上七百五十年を契機に、僧俗が真摯に『法華経』の学習運動に取り組めるといいですね」(三八n)
と、全く的外れな実践論を言い出す始末…。
 彼らには『立正安国論』の正義が何もわかっていない。これこそ頭破作七分の現証である。

    「立正」とは三大秘法

 正信会の徒輩の目には、浅薄にも『立正安国論』が、
 「権実判を示しているに過ぎません」(二〇n)
と、法華経を宣揚した書としか映っていないようだ。
 『立正安国論』は一往、念仏破折、権実相対の御妙判と拝せられるが、再往は、
 「病即消滅不老不死の詞を仰いで法華真実の妙文を崇め」(御書 二三四n)
と、当時の法華信仰の姿を挙げられた上で、
 「世皆正に背き人悉く悪に帰す」(同n)
と括られ、単なる権実判ではないことを示される。
 すなわち、日寛上人は、
 「立正の両字は三箇の秘法を含む」(御書文段 六n)
と、『立正安国論』に三大秘法が含まれていると御指南されている。つまり、三大秘法による平和実現を示されることこそ、『立正安国論』の本義である。
 正信会はこれを敢えて矮小化し、会員から本門戒壇の大御本尊を忘れさせるために、日蓮大聖人の御本意を軽視しているのである。

    「立正」とは破邪に対する言

 更に、日寛上人は、
 「立正とは破邪に対するの言なり」(同 四n)
と御教示され、
 「『寸心を改めて』とは即ち是れ破邪なり。『実乗に帰せよ』とは即ち是れ立正なり」(同 四九n)
と重ねて御制誡される。
 したがって、立正は破邪の実践によって裏付けられるのであり、破邪が伴わない立正は成立しない。
 迂闊にも正信会は、この基本を全く弁えていない。よって彼らが何を言おうと、大聖人の正義からは程速い詭弁に過ぎない。
 こんな彼らが「富士の清流」を気取るなど笑止の極み、全くの噴飯ものだ。

    「立正」の実践とは折伏行

 しからば破邪の実践とは何か。それは折伏であり、これこそが立正行である。
 大聖人は、
 「法華経の文々句々をひらき、涅槃経の文々句々を開きたり共、置いて云はずんば叶ふべからざるなり」(御書 一八五七n)
と厳誡されている。折伏を伴わない「『法華経』の学習運動」など、大聖人の御聖意に背く所業である。
 机上の学習の啓蒙などと言って折伏を忘れ、御本尊に迷妄するこの姿こそ、もはや正信会が、日蓮宗と同轍の邪義に陥っている何よりの証左である。

大白法777(h21.11.16)号より転載



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