三、近代の宗門法主は皆「立宗四月二八日」説
 ところで、たしかに宗門関係の諸資料をみると、立宗の日については建長五年三月二八日と、同年四月二八日という、両方が過去において存在していたことは事実である。むしろ、そうした事実を踏まえた上で歴代の法主は、はっきりと明確に四月二八日をもって立宗の日としてきた。

 貴殿らは「近代の宗門法主は皆『立宗四月二八日』説」と、見出しで「近代」と断っておきながら、本文では御歴代上人すべてが、宗旨建立の日を四月二十八日にされているように話をスリ替えている。実に卑怯なやり方である。
 第二祖日興上人の『安国論問答』や、第四世日道上人が『御伝土代』に、宗旨建立の日を「建長五年三月二十八日」とされていることは前述のとおりである。また江戸時代の金沢信徒、福原昭房(式治)の記録には、宗旨建立会に関して三月二十八日のみが記録され、四月二十八日の文字はない。また貴殿らも認めているように、第三十一世日因上人は、『三四会合抄』に三月宗旨建立の御書を挙げられ、実際三月二十八日に宗旨建立会を行われている。また第三十三世日元上人御筆の『年中行事』には、三月二十八日と四月二十八日の二回に亘り、宗旨建立の御報恩御講が行われた記録が残っているのであり、過去において、総本山で三月二十八日に宗旨建立会が奉修されていたことは明白である。このように厳然と、「三月二十八日」宗旨建立会奉修の事例があるにもかかわらず、御歴代上人がすべて四月二十八日説であったとするのは大きな誤謬と欺瞞であり、誠に狡猾な論法である。

徳川時代の宗門では、日顕が何かとかばおうとする一八世・日精が『日蓮聖人年譜』の中で、三月と四月の両説をふまえたうえで四月説を採用している。 

 貴殿らはここで日精上人の歴代数を十八世としている。日精上人を第十七世とすることは、昭和四十三年三月五日に日達上人が決定あそばされたことであり、同年五月三日に、その考証内容及び理由が宗内に発表された。このことは貴殿らも十分承知している筈である。にもかかわらず、日達上人の御意を無視して十八世とし、しかも日精上人の御事を創価学会に同じて「日精」と呼び捨てにして恬然として恥じない、これが仮にも僧侶であった者の言か、誠に悩乱の一言に尽きる。
 日達上人の御前で日精上人を「十八世日精」と呼べるのか。貴殿らのこの所業は、日達上人に対する大いなる反逆であり、貴殿らが「日達上人」を尊信することは、単なるポーズにすぎず、誰の目にも面従腹背が明らかである。所詮、どのような詭弁を弄そうとも、御当代法主上人に背くことは、すべての御歴代上人に背くことであり、結局は宗開両祖に背くこととなる。要するに貴殿らは、宗祖大聖人に背く大謗法者なのである。
 ところで貴殿らは、日精上人が「三月と四月の両説をふまえたうえで四月説を採用している」と、「三月」を否定しておられるかのごとくいうが、それは欺瞞であり、日精上人の御意に背くものといわねばならない。なぜなら『日蓮聖人年譜』には、
「(建長)五癸丑宗旨建立四月廿八日朝日に向ひ合掌して始メて題目十遍計り唱へたまふ、之レに就て違文有り」(富要五―七三頁)
と仰せになり、宗旨建立を四月二十八日とされているが、さらに「之レに就いて違文有り」と述べられて、『清澄寺大衆中』等の当該御文を全文挙げられているのである。これを素直に拝せば、日精上人は宗旨建立を一往四月とされているが、それだけではなく別に三月にも宗旨建立のあったことを御教示されているといわねばならない。

また近代の宗門法主はすべて、四月二八日のみをもって立宗の日としてきた。戦前の宗門で、四月二八日を「建宗会」として恒例法要に組み入れていたことはすでに述べたが、当時の宗門出版物を見ても、熊田葦城『日蓮大聖人』(昭和五年刊)、富士本日奨『日蓮大聖人御伝記』(昭和七年刊)等の宗祖伝が、ともに「四月二八日説」をとっている。さらに戦後を見ると、立宗七〇〇年の大法要が四月二八日を中心に奉修されたことが何よりの証拠と言えるが、「立宗七〇〇年」を記念して出版された『日蓮正宗聖典』をひもとくならば、戦後の先師方が皆「建長五年四月二八日」をもって宗旨建立の日と考えていたことが、はっきりとうかがえる。
 今、それらを適示しておくと、
@六四世・日昇上人
「日蓮大聖人が建長五年四月二十八日始めて題目を唱え出ださせ給いて、妙法蓮華経宗の立宗を宣言せられてから今年を以って七百年の歳を数うるに至った」(『日蓮正宗聖典』三n)
A六五世・日淳上人
「唯南無妙法蓮華経のみ正法であると御宣言遊ばされて声も高らかに天上天下十方法界に響けよとばかり題目を唱え出されたのである。時は建長五年四月二十八日であつた。」
(「日蓮正宗略史」『日蓮正宗聖典』二n)
B六六世・日達上人
「本聖典は昭和二十七年四月二十八日の立宗七百年を記念して、本宗の綱格を広く世に知らしむ目的で出版したのであった。」(「日蓮正宗聖典」一n)
と、いずれも厳然と記されてある。さらに五九世・堀日亨上人も「四月二八日」を立宗の日とされていたことは、同上人が編纂された『御書全集』中の宗旨建立に関する記載が「四月二八日」で統一されていることを見れば、明らかである。繰り返すようだが、実際、宗門では「立宗七〇〇年」の宗旨建立会を、昭和二七年四月二八日を中心に奉修し、三月二八日には行わなかった。

 貴殿らは、近代の宗門が立宗会を四月二十八日に行ってきたことをもって、今般三月二十八日に「開宣大法要」を行ったことを否定しようとしているのだが、それは全く否定の理由にならない。
 まず、日達上人は四月二十八日に宗旨建立会を奉修されたが、『昭和新定日蓮大聖人御書』(日達上人監修)では、『清澄寺大衆中』『大白牛車書』『御義口伝』の文中における宗旨建立日を「三月二十八日」とされている。故に四月に宗旨建立会を奉修されたからといって、三月の意義を全く無視されているわけではないのである。
 「三月二十八日」宗旨建立についての当家の定義は、『富士年表』を見れば一目瞭然だが、「宗旨建立の内証を宣示」とされており、これは昭和三十九年、御先師日達上人の命により発刊された初版の時からの記載である。他門の年表には、三月二十八日の項目は一切書かれておらず、当家のみが古来、三月二十八日という日を大事にしてきた。それは御開山日興上人以来の伝承だからである。その伝承につき、今回、宗旨建立七百五十年の時に当たり、御法主上人は特にその根本からの甚深なる意義をお示しになられ、「開宣大法要」として奉修されたのである。
 今まで同様、四月二十八日を中心として法要を奉修し、と共に三月二十八日にも甚深の意義に則り、御報恩の法要を奉修申し上げることは、仏恩報謝の上からも大変に意義のあることである。貴殿らのごとき門外漢がとやかくいうのは、おこがましいの一言に尽きる。血脈相伝から離れ、信心のカケラもなくなった貴殿らに、日顕上人の甚深の御心地は全く領解できないのであろう。
 ところで、聖教新聞社から昭和四十七年に出版された『日蓮大聖人の生涯』中の年表には、
「(建長五年)3・28 安房 清澄寺に宗旨建立の内証を宣示」(同三〇頁)
と記載されている。また日蓮正宗栄光会編になる『日蓮大聖人伝』には、立宗宣言について、
「実はその一か月前の三月二十八日に、宗旨建立の内証を宣示されているのである。(中略)三月二十八日、はじめてただ一人南無妙法蓮華経と唱え、宗旨建立の内証を宣示なされたのである」(聖教文庫版四三頁)
との記述がある。この書は、やはり御先師日達上人の代である昭和四十五年に、学会関連の出版社である和光社から発刊され、昭和四十六年には聖教文庫としても発行されたものである。因みにこの栄光会には、自称「日蓮正宗改革同盟」に所属する渡辺慈済も加わっていた筈である。渡辺慈済よ、申し開きをせよ。創価学会も「三月二十八日内証宣旨の唱題」を認めていたのである。貴殿らの短見を笑うものである。

今回、悩乱した日顕によれば、当時の法主・日昇上人をはじめ、その時に宗門の中枢にあった日淳上人、日達上人等はいずれも「過失」を犯したことになり、三月に法要を行わなかったことは「遺漏」である、ということになる。何たる非礼、何たる不知恩だろうか。「相承箱」すら手元にないと言われる血脈詐称の日顕には、日昇・日淳・日達の三上人からの「師資相伝」が何もない。だからこそ平気で、ここまで先師方の行跡を踏みにじることができるのである。しかも日顕自身、教学部長時代、詐称法主時代を通じて、本年までは四月二八日のみに宗旨建立法要を営んできたのである。それを遺漏がある、などと批判することは、まさに天に唾する狂態であろう。

 御法主上人が「遺漏」と仰せになられたのは、本年の唱題行中に、三月二十八日宗旨建立の大事の御仏智を拝受され、宗旨建立七百五十年という特別な時に当たって三月二十八日に法要を奉修することがいささかの遺漏をも余すことがなくなるとの意であり、御当代のお立場として万全な仏恩報謝を心掛ける意味で仰せられたのである。なにも日昇上人・日淳上人・日達上人に「遺漏」があったなどと仰せになっているわけではない。普通の読解力があれば理解できそうなものであるが、これも例の誣言というべきである。
 また「相承箱」「血脈詐称」などと血脈相伝のことを云々しているが、御相承を受けていないものに血脈相承のことを論ずる資格などない。身の程を弁えよ。しかも、日顕上人の御代替法要には揃って参列し、正信会問題の時には、声高に唯授一人血脈相承の大事を訴え、その後、長年御法主上人と仰いでお仕えしてきたにもかかわらず、自分に都合が悪くなると平気で血脈詐称などと血脈相承を否定し出すのは、あらゆることに変節甚だしい創価学会と共に、反逆者の常の姿であると断じておく。

 いやしくも法を説く者として、「信徒を悩ませる説法をしてはならない」という宗門僧侶の初歩的な心得すら守れない日顕には、もはや袈裟衣を着す資格すらないではないか。

 日蓮正宗信徒が、御法主上人の御説法を聞いて悩んでいるかのような言であるが、悩んでいるのは貴殿ら離脱僧だけである。日蓮正宗の僧俗には、御法主上人の御説法を聞いて悩んでいる者など一人もいない。また「袈裟衣を着す資格」のないのは、宗門に反逆し離脱し還俗した貴殿らの方である。未練がましく袈裟・衣など着さず、今すぐ法衣を脱ぎ創価学会員となればよいではないか。

日顕が教学部長時代に出した『日蓮正宗の行事』には、「宗旨建立法要とは、末法の御本仏日蓮大聖人が、宗旨を建立し、立宗を宣言あそばされた建長五年(一二五三年)四月二十八日を記念してご報恩申し上げる法要です」と明記されている。この『日蓮正宗の行事』は、日顕が詐称法主になってからも、宗門僧俗の年中行事の手引き書として広く活用されてきた。その内容に重大な遺漏があるのなら、まず責任者の日顕が平身低頭して読者に詫び、己が不明を恥じて金輪際、身を隠すべきではないか。ちなみに平成十年に宗務院が発行した『法華講員の心得』でも、立宗会は四月二八日とされ、三月二八日の意義などどこにも説かれていない。
 さらに日顕は、今回述べたごとく「立宗七五〇年」に「宗旨の上の重大な見解」によって三月二八日に「開宣大法要」なるものを奉修した以上、本年一月一日に日顕監修の下で「宗旨建立七五〇年慶祝記念出版」として出された『日蓮正宗入門』の中では、いったいどう書かれているのか、説明する義務がある。
 そして四月二八日、蓮長は夜明け前より清澄山・嵩が森の頂に歩みを運ばれ、昇り来たる太陽をはじめとする宇宙法界に向かって、『南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経…』と題目を唱えられ、宗旨を建立されました(『日蓮正宗入門』八三頁)。
 ここでもやはり、宗旨建立における「三月二八日」の意義など、一言も述べられていない。今回、三月二八日の「開宣大法要」に約三〇〇〇人もの信徒を集めた日顕は、法華講信徒をいたずらに悩まさないためにも、真っ先に以前の自分の言動に責任をとるべきだったのである。それができなかった以上「立宗七五〇年」における「宗旨(ママ)の上の重大な見解」などという日顕の弁は、まったくマユツバものである。

 自分たちに都合のよい文献を血眼になって漁りまくる貴殿らの姿は、ただただ浅ましく、醜い限りである。
 先にも述べたが、三月二十八日宗旨建立の伝承を大事にしてきたのは当家のみである。その伝承の上から、今回三月二十八日の宗旨建立の本義を「開宣大法要」の御説法にてお示しになられたのである。その御説法中、
「この宗旨建立七百五十年を奉修するに当たり、四月二十八日はもちろんのことながら、三月二十八日の意義をも顕彰すべきであると信ずるに至ったのであります」(大白法五九五―二)
と仰せであり、「顕彰すべきであると信ずるに至った」といわれるその時とは、本年一月二十八日のことである。とすれば、それ以前に出された出版物に「三月二十八日宗旨建立」の記事が書かれていないのは少しも不思議なことではない。
 貴殿らはこれまでの宗内書籍の中に「四月二十八日」との記載しかないものを挙げ、三月二十八日が記載されていないことが、重大な「遺漏」であったと御法主上人が述べたかのように誹謗しているが、先にも述べたごとく、御法主上人はこれまでの宗内書籍のあり方を「遺漏」と仰せられたのでは決してないのである。スリ替えに終始する貴殿らの言こそ卑劣極まりないものである。
 去る四月十一日の全国宗務支院長会議の砌、御法主上人猊下は、
「もちろん、宗旨建立の主意・主体は、『聖人御難事』の御文を中心として拝するときに、四月二十八日に当たると思います」(大日蓮六七五―九一頁)
と仰せになられている。『日蓮正宗の行事』などの行事関係の書に、これまで行われていない行事の説明がないのは当然である。『法華講員の心得』『日蓮正宗入門』は、信徒向けの書であるから、主体たる四月二十八日のみを記載し、三月二十八日は記載していないのである。
 平成十四年一月二十八日以前に出版された宗内の書物で、専門的な『富士年表』『日蓮正宗要義』『日蓮大聖人正伝』には、「内証の宣示」として三月二十八日宗旨建立の意義が明記されており、信徒向けに書かれた『日蓮正宗の行事』『法華講員の心得』『日蓮正宗入門』には四月二十八日のみを記載しているのであり、貴殿らの誹謗は全く当たらない。

シアトル裁判の敗北に慌てた日顕が、バカげた思いつきから「三月二八日」の話題作りを考え、そのうちに持病の名聞名利の心がふくらんで先師否定の慢心説法まで行うに至った。これが事の真相であろう。

 「シアトル裁判の敗北」などといっているが、何度でもいう。この裁判は創価学会が屈辱的な和解に応じて、宗門側が勝訴以上の大勝利で終わったものである。よって「敗北に慌てた上でバカげた」誹謗中傷をしているのは、貴殿らの方である。また「持病の名聞名利」とはまさに勲章漁りの好きな池田大作のことであり、「先師否定の慢心」も、戸田城聖氏の宗門外護の赤誠を蔑ろにし、規則と会則から「日蓮正宗」と「本門戒壇の大御本尊」を削除した本仏気取りの池田大作と、それに随従する離脱僧のことであるといっておく。

「本宗信徒にとって必読の書」であるべき『日蓮正宗入門』が出版された、わずか一ヶ月後、当の監修者の日顕が宗旨建立という重大事項の解釈を勝手に変更し、同書の記述内容を否定してしまったのだから、総監の藤本ら「記念出版委員会」の連中は、まさに面目丸つぶれである。

 『日蓮正宗入門』につき、御法主上人が「同書の記述内容を否定」したなどといっているが、御法主上人はどこにも『日蓮正宗入門』の記述内容を否定などされていない。
 先にも述べたが、『日蓮正宗入門』は、信徒向けのものであるから、『富士年表』『日蓮正宗要義』等に記述した、甚深の意義を含む「宗旨建立の内証宣示」との三月二十八日の文は、誤解を避けるために省略したのである。むしろ御法主上人猊下の「宗旨建立の主意・主体は、『聖人御難事』の御文を中心として拝するときに、四月二十八日に当たる」との御指南は、『日蓮正宗入門』の宗旨建立についての「四月二十八日」の記述を積極的に肯定するものである。よって「記念出版委員会」の面目がつぶれることなどありえる筈もなく、一同、「三月二十八日宗旨建立」の深義を深く拝受できたのである。貴殿らの言は揚げ足とりの憶測にすぎない。

これでは「開宣大法要」なるものに、二百名ほどの末寺僧侶が欠席し、参加した者が「チェックされるから渋々登山した」と言っているのも無理からぬことである。まったく笑止の極みであり、日顕の「立宗二回説」は無用な混乱を引き起こしただけで終わったのである。

 「チェックされるから渋々登山した」といっているが、デタラメもいい加減にせよ。「開宣大法要」は当初、代表僧侶(慶祝記念局委員)七十六名のみで行われる予定であった。それが自由希望出仕も許可されたため、その出仕僧侶を含めて、四百八十名もの僧侶が参集し、盛大に仏恩報謝のため、宗旨建立の「開宣大法要」が奉修されたのであり、誠に喜ばしいことであった。また諸天の御加護により、前後の三月二十七日と三月二十九日には大雨が降ったにもかかわらず、「開宣大法要」が奉修された三月二十八日当日だけは好天であった。また総本山の桜も「開宣大法要」に合わせたかのように例年になく早期に満開となり、遠く世界各国より、大法要に馳せ参じた多数の海外信徒も大いに喜んだのである。これ法界全体がこの「開宣大法要」を寿ぐ現証というほかはない。このように「開宣大法要」が大成功裡に行われたことを妬んで、言い掛かりをつけている貴殿らの姿は全く哀れとしかいいようがない。「笑止の極み」であり、「無用な混乱を引き起こし」ているのは貴殿らの方である。