四、「民衆救済」を忘れた妄説
 次に、日顕の「立宗二回説」は宗史をもてあそぶ戯論にすぎず、そこには大聖人門下として最も大事な一閻浮提広布、民衆救済の念がどこにも見当たらない。日顕は「開宣大法要」なるものの中で、「宗旨建立の説法が三月と四月の二回の二八日にわたって存していたと拝し奉る」などと得意満面に述べているが、仮にそうだとしても、わざわざ二回に分けて御報恩の法要を修する意味がいったいどこにあるのか。
 そもそも宗旨建立法要とは、日蓮大聖人が下種の妙法蓮華経によって末法の全民衆を救済しようと発願され、命の危険をも顧みず真実を説き示された、その御本仏の大慈大悲に対して御報恩謝徳申し上げる儀式である。ゆえに『日蓮正宗の行事』では「大聖人の立宗宣言は信と謗、善と悪の一切に対して行なわれたのであって、根本は大聖人の南無妙法蓮華経の一念、大慈悲の一念が国土・衆生・五蘊の三世間にあまねく浸透し、知ると否とにかゝわらず、また信謗の如何にかゝわらず、一切民衆と宇宙法界に妙法を下種されたところに立宗宣言の究極の意義がある」「毎年執行される宗旨建立法要は、このような宗祖日蓮大聖人の大慈悲に対し奉りご報恩申し上げる儀式であって、この儀式に際し私たちは不退転の弘通誓願をなされた大聖人のお心を拝し奉り、いよいよ信心を強盛に死身弘法の決意を新たにすべきであります」(同書四三n)と、宗旨建立法要の意義が大聖人の民衆救済の大慈悲に対する御報恩にあることを明記している。また平成一〇年に宗務院が発行した『法華講員の心得』でも、「立宗会は、すべての人々を救う唯一の正法が建立された日を祝い、日蓮大聖人にご報恩謝徳申し上げる法要です」(九七n)とあり、民衆救済に力点を置く説明がなされている。

 「仮にそうだとしても」とは何たる言い草か。不信心の貴殿らには、御法主上人の深い御内証よりの御説法が宗史をもてあそぶ戯論に見えるようであり、二回に亘って御報恩の法要を奉修することが「民衆救済の念」を忘れた行為に映るらしい。
 しかるに本宗における宗旨建立法要は、大聖人の大慈大悲に対して御報恩謝徳申し上げる儀式であり、それと共に令法久住広宣流布と民衆救済を御本仏日蓮大聖人にお誓い申し上げる重大な儀式なのである。
 日蓮正宗の僧俗は、今般の御説法によって、大聖人が三月二十八日と四月二十八日の二度に亘り、甚深の意義の上から宗旨建立をあそばされたことを領解し、大恩まします御本仏日蓮大聖人に対し奉り一層の御報恩の念を懐いた。そして三月と四月のそれぞれに法要を奉修することは、御報恩の上からも重大であることを深く領解し、本年の宗旨建立七百五十年の大佳節に当たり、僧俗一致して折伏に励み、法華講三十万総登山をもって御報恩し奉るべく懸命に精進しているのである。
 貴殿らは「民衆救済」を声高に叫んでいるが、その民衆救済の根本を知っているのか。真の救済とは人類が煩悩・業・苦の三道を法身・般若・解脱の三徳と開くところの、即身成仏の功徳を得せしめる以外にはない。すなわち、即身成仏とは『生死一大事血脈抄』に説かれる「生死一大事の血脈」にその肝要がある。「生死一大事の血脈」とは、「法体の血脈」を根本に、僧俗異体同心に南無妙法蓮華経と唱える「信心の血脈」によって流れることは、貴殿らには全く分かるまい。僧俗一致して真実の「民衆救済」に励んでいるのは、邪教創価学会ではなく、日蓮正宗のみであることに目を開くべきであ
る。

 日顕は「開宣大法要」で三一世・日因法主の「三四会合抄」を持ち出してきて、「三月二八日」の題目が「内証開顕」、「四月二八日」の題目が「外用流通」などと言っているが、日因法主が同抄で「但し、四月二八日の外用方便の題目の中には、御内証真実の本門の題目を含在する也」(同・中巻三九丁)と述べている箇所は、完全に無視している。信心をもって拝するならば、大聖人の宗旨建立は民衆救済のためにあったのだから、「外用」の中に「内証」を摂する、とする日因法主の見解は、広宣流布への信心に基づくものと言える。このことから、因師が宗門に前例のない三月二八日の立宗会を強行した背景には、憂宗護法同盟の諸師が言うごとく、立宗三月説も存在することをあえて宗内に教えたい、という同師の思いがあったとも推察されよう。
 ともあれ、歴代先師の多くが、大聖人が「外用」の題目を唱えられた「四月二八日」をもって宗旨建立法要を行ってきたことは、御本仏の民衆救済の大慈悲に対し奉る御報恩としては、まことに理に適っているのである。日淳上人は、昭和一二年の「真仏法建立の日」と題する論文において、大聖人の宗旨建立を建長五年四月二八日と明示されたうえで、「この日このことこそ実に重大なる御意義を有するのであってこれによって衆生成仏の道が開かれるとともに一切の仏法は顛倒して存立すべき凡ての価値を失ったのである」(『日淳上人全集』一五五n)と述べている。

 ここで貴殿らは、御法主上人が御説法において「内証開顕」と「外用流通」と述べておられるとしているが、御法主上人は今回の御説法において「内証開顕」「外用流通」などという語は一度も用いられていない。御説法の内容を云々する前に、正確に拝するべきであるといっておく。
 また貴殿らは日因上人を「日因法主」と呼び、「日淳上人」の呼称と差別している。御歴代上人に対し、気ままに呼称を差別して憚らない貴殿らの所業は、自らの邪心を師とするものであり、根本的に狂っていると指摘しておく。だから日因上人が三月二十八日に宗旨建立会を奉修あそばされたお心を、「立宗三月説も存在することをあえて宗内に教えたいという同師の思い」程度の浅薄な理解しかできないのである。
 次に貴殿らは日因上人の『三四会合抄』の御文を引いて「四月」説を強調し、日顕上人を誹謗しているが、「開宣大法要」における御法主日顕上人の御説法をよく拝した上で述べているのか。もしそうなら救いようのない程頭が悪いとしかいえない。三月と四月における内証宣示と化他弘通の両義は、先にも述べたように、久遠元初の妙法蓮華経を御所持なされる御内証があってはじめて化他弘通も叶うのである。しかし、末法一切衆生救済のための三大秘法開顕に至る一期の御化導の開始という上からは、四月がその始まりであり、故に四月二十八日が宗旨建立の主体と拝すべきであると御指南なされているのである。四月の宗旨建立における外用の題目には、内証の妙法が具わることは当然であり、その意義を無視したかのような貴殿らの言は、悪意に満ちた見当違いの邪難であるといっておく。

 日顕は今回の邪説において、「大聖人様の宗旨建立の日が虚空像菩薩と深い関係がある」とか、「まさしく大聖人様が虚空像菩薩より帰依(ママ)の宝珠を受けられたこの日こそ宗旨建立」の二八日だった、などと一人で妄想を逞しくしているが、大聖人が虚空蔵菩薩に向かって「日本第一の智者となし給へ」と祈願されたのは、ひとえに広宣流布による民衆救済のためである。大聖人は「日蓮生れし時より・いまに一日片時も・こころやすき事はなし、此の法華経の題目を弘めんと思うばかりなり」(御書一五五八n)と仰せである。無信、無行、蒙昧、嫉妬の権化にして広布妨害を生業とするに至った日顕には、もとより宗祖・歴代法主の広宣流布・民衆救済という根本精神がまったく分かっていない。

 ここでも貴殿らは、御法主上人への悪口罵詈に終始し、大聖人の宗旨建立と虚空蔵菩薩との重大な関係については全く無視している。御法主上人が「開宣大法要」の御説法中に挙げられたごとく、大聖人は諸御書に三月に清澄寺で宗旨を建立あそばされたのは、虚空蔵菩薩の御恩を深く報ずるためであることを御指南なされている。この大聖人のお心を拝するとき、『撰時抄』『教機時国抄』など、特に「時」について重視あそばされた大聖人が、宗旨建立という重大な時を定められるのに、気まぐれでお決めになられる筈がない。故に、虚空蔵菩薩より大智慧を賜ったその日こそが宗旨建立の日、すなわち二十八日であり、その上から三月と四月の二回に亘る宗旨建立の意義が明らかに拝せられるとの御指南こそは、まさに御仏智を拝されたものと、僧俗一同、目から鱗が落ちる思いで、感激をもって深く領解し奉ったのである。
 三宝不信の大謗法団体・創価学会を破門駈遣あそばされ、真の僧俗一致による広宣流布への道を切り開かれた御法主日顕上人こそは、宗祖大聖人・御開山日興上人以来の御歴代上人の広宣流布・民衆救済という崇高な精神を受け継がれたお方であり、貴殿らの御法主上人への誹謗は、野干が師子王を吠える大罪であると断ずる。

 だからこそ「立宗二回説」に固執するあまりに伝統の「虫払い法要」まで中止し、内外から非難と嘲笑を浴びているのである。ちなみに立宗七〇〇年の時の宗門は、やはり四月に大法要を行ったために虫払い法要を恒例通り執行できなかったが、後に、同年八月二四日に繰り下げて虫払い法要を厳修している。今回、日顕は前もってこっそり虫払いを済ませたと言っているが、同法要には、大聖人の御真筆等を目の当たりにした僧俗門下が「正法護持」と「妙法広布」を誓うという意義が込められているはずである(『日蓮正宗の行事』三八n)。伝統の虫払い法要を中止して三月二八日に法要を強行したことは、とりも直さず日顕に、大聖人の御書を伝持しようとの御書根本の精神がまったくないという証左である。本山所蔵の「諌暁八幡抄」に、御本仏が御直筆で立宗の日を「日蓮は去ぬる建長五年癸丑四月二八日より・・・」(御書五八五n)とお認めあることを拝信できず、あまつさえこの御書を宗門僧俗に拝観させまいとした日顕――まことに詐称法主ならでは、の魔性の仕業と言えよう。

 本年は、「開宣大法要」と「特別大法要」の諸準備のために、恒例の「御霊宝虫払大法会」は休止し、御真筆御本尊等の重宝のお風入れは、前もって二月十三日に執り行われた。昭和三十七・三十八年にも、大客殿建設のために虫払会が休止された事例もあり、常識人であれば大法要を前にして臨時の措置を行うことは、至極当然のこととして理解できるのである。ましてや通常の年の「虫払会」においては、時間の関係と法要の儀式化のため、重宝の御修復のための調査を行う余裕がないが、本年はかえってそれが十分に行うことができたのである。にもかかわらず、本年の大慶事に当たり、「虫払会」を休止したことに対して「こっそり済ませた」と揶揄し、剰え『諌暁八幡抄』を宗門僧俗に拝観させまいとしたなどという邪推による偽言をもって、御法主日顕上人の甚深の御差配を口汚く詈る貴殿らの所業は、まさに狂気の沙汰であり、誠に創価学会の傀儡ならではの魔性の仕業といえよう。まして、総本山大石寺に格護する御霊宝拝観の資格を自ら放棄して、仏法破壊に狂奔する貴殿らが、「虫払会」の休止についてとやかくいう筋合いではない。