| 恐らく貴殿の知的レベルでは改変の根拠まで辿り得なかったと見える。が、他門の明治以降、発行の御書すべてが、三月を四月に改変するに、何の根拠もなく、為されるはずはない。小林是恭師は、その「開宗の月について」と題する論考(大崎学報101号)で、宗祖全遺文中、三月四月の箇処を精査し、「旧内外本では三月説と四月説は均等。大本(明治十三年開版の木版本)で清澄、大白の二書共に四月と記したことから四月説が圧倒的となった」と述べている。而して、その根拠に就いて「年譜攷異が清澄書等の正本の文字が古字の |
貴殿らはここで、明治以降の他門の御書、また『御書全集』が、「三月」と伝承される御書を「四月」と改変したことについて、小林是恭の説を用いて得々と述べているが、その説は、後に破折するごとく、杜撰な考証しかしていない『年譜攷異』をその根拠とするもので、極めて信憑性の乏しいものである。これらを鵜呑みにする貴殿らの知的レベルが知れよう。また正系門家に刃向かうときは必ず不相伝家の迷見を味方につけるものであり、これ以降の論旨にそれが顕著である。
| 「高祖年譜」、「同攷異」は、安永八年(1779年)に完成し、宝暦十二年(1762年)の因師の「三四会合抄」より十七年後、更に、三月説の中心依文「清澄寺大衆中」の眞蹟焼失の明治八年より遡る93年前の著述であり、信を置くに値する。 更に、その考証の精確さに於いて、宗祖門家全般のみに止まらず、門家外の一般史家に於いても、その権威は圧倒的なものがあり、高い評価を得ている(辻善之助著「日本仏教史(三)」中世編之二第七章鎌倉時代)。 |
貴殿らの詐術の巧みさには呆れ果てる。辻氏が『日本仏教史』の当該箇所において述べているのは、単に「考異には考証の参考とすべきものがある」との言葉にすぎない。それを「その考証の精確さに於いて・・・・その権威は圧倒的なものがあり、高い評価を得ている」などと勝手にいい加減な文章を作り、それがいかにも辻氏の言であり、『年譜攷異』について辻氏がそのような高い評価をしているかのごとく欺いている。このような姑息なことをするから貴殿らの言はますます信用をなくすのだ。『年譜攷異』等による貴殿らの憶説については、次に批判する。
| 江戸期という閉塞した時代背影から止むを得ぬことでもあるにせよ、因師の「三四会合抄」の宗祖遺文の三月・四月の考証には宗内からも甘さが指摘されている。我々も、「高祖年譜」、「同攷異」の文献考証を土台に、因師の「三四会合抄」の再検討の必要を禁じ得ぬと主張したい。それは兎も角、小林師が指摘注目する「年譜攷異」の「清澄寺大衆中」の三月四月の考証の箇処を煩を厭わず引文してみる。 「論者ノ曰ク、四月正説ナリ、故ニ松野書外十二―三十四、建長五年夏初ト曰ヒ、又松野書三十四―四十三、建長五年ノ夏ノ頃ト曰フ、乃チ下山書二十―六十二、文永十一年夏頃 (六月)ト曰ヒ、一谷書三十五―三十一、文永九年ノ夏頃(四月)ト曰フニ同ジク、即チ其ノ時ヲ指ス、然ルニ、清澄書等ニ、三月ト曰フハ蓋シ、親書四ノ字古字ノ と。 ここに明らかな様に、後世編集の録内録外の異本には執われず、眞蹟があるものはどこ迄も眞蹟に依拠するという「攷異」の厳格な考証態度が伺える。その上で、身延の碩学、「録内扶老」の日好、「見聞愚案記」の日重等が、親しく「清澄寺大衆中」の眞蹟を閲した事実を指摘した上で「清澄寺大衆中」の四月説を断定しているのである。 |
まず、この『年譜攷異』の著者である日諦は、立宗が四月であるとの思い込みに立って、その編纂に当たっているといわざるを得ない。「親書四ノ字古字ノ
卜作レル有ッテ寫シ誤カ」とはその日諦の推測である。『年譜攷異』で四月説の強い根拠として挙げているものは、
「先哲親リ親書ノ遺文ヲ閲シ、四月ト曰フ(扶老十一、三十六、愚案記三)何ノ疑カ之レ有ラン」
との部分である。しかし、『扶老』『愚案記』の当該箇所を見てみると、『清澄寺大衆中』の「三月」につき、日諦の推測する「親書四ノ字古字ノ
卜作レル有ッテ」などを裏付けるような記述は一切ないのである。
すなわち『録内扶老』の十一巻三十六丁は『聖人御難事』の注釈であるから「四月」と記述することは当然な部分であるが、しかしその箇所には次に、
「三十三巻清澄寺書ノミ三ノ字ニ作ル故ニ三ノ字誤ナルベシ」(本満寺版録内扶老六三六頁)
とあり、むしろ録内御書の『清澄寺大衆中』における宗旨建立の記述が、「三月」であることを明確に述べているのである。ところでこの「三十三巻清澄寺書ノミ三ノ字ニ作ル」とは、録内御書中、『清澄寺大衆中』には宗旨建立につき「三月」との記述があるが、他の御書は全て四月と記されているとの意味であり、『扶老』の著者・禅智日好は、ただ単に多数決的判断によって、「四月」が正しく、「三月」は誤りであると結論づけているにすぎない。この箇所には、日好が御真蹟を拝したとは述べていないのである。
また『見聞愚案記』三巻の宗旨建立に関する記述は次のとおりである。
「御宗旨建立ノ月日一両所ノ御自筆ニ四月廿八日ト御遊ス 又建長五年夏比ヨリモト御遊タル事モアリ 注画讃云(中略)建長五年癸丑三(或作四)月廿二日ノ夜ヨリ室内ニ入リ出玉ハズ廿八日ニ朝日ニ向ヒ掌ヲ合セ十遍バカリ始テ自ラ南無○経ノ七字ヲ唱へ玉フ文 注ノ或作四正義ト見タリ」(見聞愚案記三巻六二丁)
まず「四月」宗旨建立の御書を挙げ、さらに『註画讃』を引用した上で、著者である一如院日重の意見として四月正義としている。すなわち三月説の依拠となる御書『清澄寺大衆中』については、日重も御真蹟を拝して述べているわけではなく、単に『註画讃』の「或作四」の記述を依用しているにすぎないのである。
また『年譜攷異』の中で、『清澄寺大衆中』の印本に三月とあるのは、旧字の四、すなわち「
」の写し間違いかと指摘していることは、前述のごとく、全く日諦自身の勝手な憶測の範疇を出るものではない。
以上、日諦・日耆の『年譜攷異』が「先哲親リ親書ノ遺文ヲ閲シ」と注記している、その先哲の書には、そのような事実は全く存在していない。すなわち、日好・日重とも、御真蹟は拝しておらず、御真蹟によって立論しているわけではないのである。
要するに、貴殿らが「考証の精確さ」を讃える『年譜攷異』とはその程度の書であり、「眞蹟があるものはどこ迄も眞蹟に依拠するという『攷異』の厳格な考証態度が伺える」などと称賛するなどはまさに噴飯もので、素人だましの付け焼き刃教学を振り回すのもいい加減にすべきである。
| 前述の辻善之助氏も、立宗の三月、四月説に言及し、「三月といふ説は、四の字の異體 |
まず、辻善之助氏の記述は、『年譜攷異』の請け売りにすぎないと指摘するものである。すなわち同氏は、
「日蓮に関する資料の主なるもの左の如し」(日本仏教史三―一頁)
として、『元祖化導記』『註画讃』『蓮公薩
略伝』『蓮公行状年譜』『本化別頭高祖伝』『本化別頭仏祖統紀』『本化高祖年譜攷異』を挙げている。この中から立宗三月説・四月説の会通について、辻氏が学者の立場から『年譜攷異』の説を穏当であるとして採用しているにすぎない。しかし、『年譜攷異』の説は同書に「寫シ誤カ」というごとく、あくまでも一つの仮説であって、その信憑性は別問題である。
伝記というものは年代が近ければ近い程資料として重要視されるべきであり、大聖人滅後五十年、まさに大聖人と唯我与我の直弟たる日興上人が御入滅されたその年に第四世日道上人により著された『御伝土代』を度外視して、遥かに時代が下った他門の学説に依拠する貴殿らの姿勢は、論外という他ない。
さらに、『日蓮教団全史』の根拠もおよそ『年譜攷異』によるものであろうが、『年譜攷異』の説自体が日諦の推測をもととした主張なのである。自ずとその根拠は崩れていると断ずるものである。
| この様に、眞蹟を所蔵していた当事者の身延側が、清澄寺大衆中の四月説を断定している以上、貴殿がどの様な屁理屈を述べようと、その主張する三月説は根底から、問い直さざるを得まい。「清澄寺大衆中」の三月説は、あらゆる宗旨建立三月説の主軸となる論点であり、その主軸が崩れれば、あらゆる宗旨建立三月説は遂に戯論に堕す。宗祖遺文に依拠して、三月説を立論する際には、この「高祖年譜」、「同攷異」の文献考証を反駁せぬ限り、世に認められるはずはなく、と同時に、宗祖遺文に依る宗旨建立三月説の限界も自ら此の辺に存するのである。 |
貴殿らは「眞蹟を所蔵していた当事者の身延側が、清澄寺大衆中の四月説を断定している以上」などと大見えを切っているが、貴殿らの大いなるごまかしは、当事者の身延側きっての学者であり、『清澄寺大衆中』の真蹟を最も拝せる立場にあった行学院日朝の『元祖化導記』をわざと素通りしていることである。行学院日朝は三十八年もの長きに亘って身延山の住職だったのである。日朝の録内写本目録(昭和新修別巻)には『清澄寺大衆中』が存している。日朝はことあるごとに『清澄寺大衆中』の御真蹟も拝し、写本まで残しているのである。その行学院日朝が立宗についてどのように記述しているかといえば、
「九、御弘通発心ノ事(中略)建長五年癸丑三月二十八日」(日蓮上人伝記集一六頁)
「十、弘通初ノ事 建長五年三月二十八日(中略)或御書曰、四月二十八日」(同一七頁)
と二箇所に亘り明確に日朝の意見として三月二十八日と断定し、その上で別義として或る御書の四月説を紹介しているのである。日朝の立宗三月二十八日の根拠となるもの、これこそ自山に存し、三十八年もの間、ことあるごとに目の当たりに拝した『清澄寺大衆中』の御真蹟に依拠していること明白である。
このように、目の当たりに『清澄寺大衆中』を拝した日朝が立宗三月説を述べているのである。門下最古の録内御書の目録は第六世日時上人のものであるが、録内の写本御書そのものは日朝本が最古であるとされている。すなわち、日朝は『聖人御難事』の記述が四月となっていたことも知っていたのは当然である。しかるに、「弘通初ノ事 建長五年三月二十八日」と記しているのは、自山に存する『清澄寺大衆中』の御真蹟の記述こそ大聖人の正意であると、誇示するものであろう。
また、『録内扶老』を著した日好、『見聞愚案記』を著した日重、両者とも身延に晋山しておらず(日重は加歴)、したがって『録内扶老』『見聞愚案記』とも宗旨建立を「四月正意」としているのは、『清澄寺大衆中』の御真蹟を披見していないことを証するものであり、またこれらを根拠に、三の字は古字の
の誤写かと、四月説を主張した『年譜攷異』の誤りも明らかなのである。このように身延側の資料をもってしても、『清澄寺大衆中』の宗旨建立の記述が「三月」であったことが伺えるのである。
| それでも尚、貴殿が「清澄寺大衆中」の三月説を固執するのであれば、内心貴殿が頼りとする通力、或いは常々口にする霊夢を持ち出し、明治八年に焼失した「清澄寺大衆中」の眞蹟を「感得」したと強盛に言い募る以外に方策は無い。貴殿が感得する霊夢もどきの中で、「清澄書」の眞蹟が、「建長五年三月二十八日」とあるか、或いは「建長五年 |
先に破折したごとく、『年譜攷異』の杜撰な考証の記述、また貴殿らが知らぬふりを決め込んだ『元祖化導記』の記述によって、貴殿らがどのような屁理屈を並べようと、その主張する三月説否定の邪難は、根底から崩れ去ったといわざるを得まい。貴殿らの主張こそ内外より一笑に付されること請け合いである。