一、現今の血脈論争の盲点≠破す
         (松岡雄茂の悪書は背景を鼠色にした) 

  創価学会が平成三(一九九二)年一一月に日蓮正宗宗門と訣別してから、はや一二年の歳月が経過した。その間、両者は自己の教義的正当性を主張しながら様々な論争を繰り広げてきた。論争のテーマは、本尊論・血脈論・法主論・謗法論をはじめ、在家信者を導師とする葬儀の是非、塔婆・戒名の要不要といった化儀上の問題にまで及んでいる。このうち最大の論点は、何と言っても血脈論であろう。本尊の正当性も、法主の意義も、謗法の定義も、あるいは化儀における僧侶介在の問題も、詮ずるところは『血脈』をどう考えるか、という一点に帰着するからである。
 日蓮を宗祖、日興を開山と仰ぎ、日目・日道の法系を継ぐ富士大石寺門流では、日蓮が日興に付嘱した本仏の内証(内面の悟り)が、歴代法主の「唯授一人血脈相承」(以下、唯授一人相承と略示)によって約七百年にわたり伝持されてきたと自負する。一方、創価学会の側は、日蓮の教えのままに折伏弘教に励み、世界一九〇ヶ国、一千万人を超える人々に日蓮仏法を流布したという未曾有の実証を誇りとし、宗祖・日蓮に直結した「信心の血脈」が根幹であると主張する。こうして現宗門は「唯授一人の血脈」を、創価学会は「信心の血脈」を、それぞれ主張しながら論争を続け、今日に至っている。しかしながら両者の論争には、一つの盲点があるようにも思われる。
 盲点とは、学会の「信心の血脈」論が大石寺二六世・日寛の本尊論を踏まえて提唱されている、ということである。
 悪書では、この最初の項目を現今の血脈論争の盲点≠ニ題している。そもそも、創価学会は日蓮正宗から破門処分を受けたのであり、その原因は下種三宝に敵対する謗法に存した。故に、正統宗門が創価学会と対等の立場で論争≠ネどすることはあり得ない。現今の創価学会問題とは、日蓮正宗の謗法破折の善導に対して、池田大作・創価学会が背逆しているところに存するのである。そこに盲点≠ネどありはせず、日蓮正宗は池田大作・創価学会の謗法を正しく認識している。
 その証拠を挙げれば、池田大作を信徒除名処分に付す際には、宗門からはその理由が本宗の血脈に対する謗法行為にあることを提示し、弁疏の機会を与えている。しかし、それに対して、池田大作は一言の弁明すらできずに、悄然として処分に服す以外になかったのである。これは、池田大作の謗法に対する宗門からの指摘が正鵠を射ていたからに他ならない。故に盲点≠ネどはどこにもないのである。ではなぜ、松岡は、今頃になって盲点≠ネどと言うのであろうか。その理由は、池田大作・創価学会の謗法の正当化にある。
 創価学会はその発足以来、日蓮正宗の信徒団体として活動し、発展してきた。したがって、その本尊も教義も化儀も創価学会独自のものは何一つとして存在しない。故に、破門以降は奈落の底へ転がり落ちて、行き着いたところは、日蓮正宗に似て非なる三毒充満の新興宗教・池田教である。この日蓮正宗に「似て非なる」という創価学会の形態は、存在それ自体に矛盾が存している。本尊の根拠・教義の根拠・化儀の根拠、どれひとつとして正当性のある根拠を持たない「根無し草」、それが創価学会なのである。謗法によって日蓮正宗から破門され、新興宗教団体へと変質した創価学会は、その構造的矛盾から脱出しようとして、懸命にあがいているのである。
 その正しい解決の道は創価学会の解散しかないのであるが、不正直にして貪欲な池田大作や創価学会幹部達には、その勇気も健気さもない。そこで考えることは、誤魔化しである。日蓮正宗を猿マネし、よく似た形態を装いつつ、創価学会を正当化するための偽装論理の構築、それが悪書のめざすものである。創価学会の本尊・教義は日蓮正宗と同じである、否、創価学会こそ正統の日蓮仏法であると僭称したいのである。盗っ人猛々しい、とは、まさにこのことである。大聖人、日興上人は、このような邪悪な法盗人の詭弁をけっしてお許しにはならない。
 次に悪書では、この盲点≠ノついて、盲点とは、学会の「信心の血脈」論が大石寺二六世・日寛の本尊論を踏まえて提唱されている、ということである≠ニ述べている。しかし、前述のごとく日蓮正宗から見れば盲点≠ネどないのであって、これすなわち詭弁である。それでは、「唯授一人の血脈」を否定する学会の「信心の血脈」論≠ネるものは、一体いつから存在するのだ。
 かつて池田大作・創価学会は、血脈について、昭和五十二年路線の謗法逸脱を反省し、次のように正義を述べていた。
  血脈については、法体の血脈と信心の血脈等がある。御書に「生死一大事血脈抄」がある。その冒頭に「夫れ生死一大事血脈とは所謂妙法蓮華経是なり」と仰せである。これは別しては日蓮大聖人の御内証そのものであられる南無妙法蓮華経の法体が生死一大事血脈の究極であるとの意味である。
 この別しての法体の血脈相承は「身延相承書」に「血脈の次第 日蓮日興」と仰せのごとく、第二祖日興上人にすべて受け継がれ、以後、血脈付法唯授一人の御法主上人が伝持あそばされるところである。同抄に「総じて日蓮が弟子檀那等・自他彼此の心なく水魚の思を成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり」の御文は「別して」の法体の血脈を大前提としての「総じて」の信心の血脈を仰せなのである。故に、代々の御法主上人猊下の御内証によってお認めの御本尊を受持していくことが正しい信心の在り方であり、総じての生死一大事の信心の血脈となる。
 故に、別しての法体の血脈相承と、総じての生死一大事の信心の血脈とは、その意味に違いがあることを確認しておきたい。
 一、昨年、発表された会長の「生死一大事血脈抄講義」は、こうした原理をふまえたうえで、総じての仏法実践のうえでの生死一大事の信心の血脈を中心に、一般社会に展開したものであるが、別しての法体の血脈相承について深く論ずることをしなかったために、誤解を生ぜしめる点もあった。これについては、会長からの意向もあり、一部訂正して改訂版を発行するので了承願いたい。(教学上の基本問題について・聖教新聞 昭和五三年六月三〇日付)

 ここに述べられていることは、日達上人にお詫び申し上げ、また宗門僧侶や一般創価学会員に公表したものであり、日蓮正宗の正義である。もし創価学会の「信心の血脈」論≠ェ、破門以前から存在していたとするならば、創価学会は当時表面では右のような正義を述べながら、裏では日達上人をはじめ宗内僧俗を欺いて、己義謗法を抱いていたことになる。またそれが破門以降に生じたというのであれば、明らかな教義改変であり、異流義謗法ではないか。
 このように学会の「信心の血脈」論が大石寺二六世・日寛の本尊論を踏まえて提唱されている≠ネどと言うことは明らかに詭弁であり、日寛上人を隠れ蓑にした狡猾な意図による邪義である。すなわち今後の創価学会の正当化の根拠にしようと考え、次に池田大作の発言を挙げて、日寛上人の御指南を利用しているに過ぎないのである。
 実例に即して説明してみよう。近年、学会の池田大作名誉会長が長期にわたって行った教学対談の中に「日蓮大聖人は虚空会の儀式を借りて、御自身の内証の悟りを御本尊に示してくださった」「大聖人は、御自身の己心に根源の妙法を観じとり、御自身の生命のコスモス(宇宙)を虚空会を用いて御図顕された。それが、十界具足の曼荼羅本尊です」といった表現が散見される。これによれば、宗門において唯授一人相承の秘事とされる本仏甚深の内証はじつは曼荼羅本尊として図顕され公開されているのであり、もはや万人が曼荼羅本尊を通じて本仏の内証にアクセス可能である、という見方が生ずる。そしてその前提に立ったときには、個々人が曼荼羅本尊への信を通じて本仏の内証を直接継承する、という意味での「信心の血脈」が最重要事となるわけである。だが問題は、本仏日蓮の内証の図顕が曼荼羅本尊である、というような考え方自体を一体どこから引き出したのかであろう。その答えは、現在の学会教学の基盤となった日寛の教学に求める以外にない。事実、日寛の「観心本尊抄文段」を読むと、日蓮本仏の観点から「仏、大慈悲を起し、我が証得する所の全体を一幅に図顕して、末代幼稚に授けたまえり」(文段集458)「久遠元初の自受用身、大慈悲を起して妙法五字の本尊に自受用身即一念三千の相貌を図顕し、末代幼稚の頚に懸けしむ」(文段集547〜548)などと述べられている。学会は、まさにこの日寛の曼荼羅本尊観の文脈の中で「信心の血脈」を論じているのである。
  まず悪書では、池田大作の、日蓮大聖人は虚空会の儀式を借りて、御自身の内証の悟りを御本尊に示してくださった大聖人は、御自身の己心に根源の妙法を観じとり、御自身の生命のコスモス(宇宙)を虚空会を用いて御図顕された。それが、十界具足の曼荼羅本尊です≠ニの発言を挙げて、それが日寛上人の御指南に合致するものであるとしている。しかしこの池田大作の発言は日寛上人の御指南に合致するのではなく、池田大作が大聖人や日寛上人の仰せをマネて自分勝手な言葉で表現したものにすぎない。したがって、松岡が、ただの猿マネに過ぎない池田大作の発言を取り上げて、本仏日蓮の内証の図顕が曼荼羅本尊である、というような考え方自体を一体どこから引き出したのかであろう≠ニ勿体をつけ、日寛上人の仰せと池田の発言が同じだなどとするのは、松岡の池田に対する阿諛の言辞以外の何物でもない。
 悪書では先の池田大作の本尊についての発言の根拠として、日寛上人の御指南を挙げ、その正当化を謀っているが、そもそも日寛上人の本尊観と、池田大作の本尊観とでは、その実義において天地雲泥の開きが存することは言うまでもない。なぜなら、日寛上人の本尊観は御相伝に基づく真実義であるのに対し、池田大作のそれは勝手な邪観による妄想にすぎないからである。
 つまり、日寛上人等の御歴代上人の本尊観は、日蓮大聖人以来の血脈相承によって、その人法の御本尊の実体・実義を相伝された上のものであって、日蓮大聖人と全く等しい本尊観である。これに対し、唯授一人の御相伝に背く池田大作の本尊観は、池田大作個人の単なる想像の産物に過ぎないのである。
 もとより池田大作ごときが、御本尊の深義など知るわけがないのであるから、いくら大聖人の御本尊について語ってみたところで、それは単に日寛上人の猿マネをして知ったかぶりをしているだけであり、実際は破門除名処分となり邪信となった池田大作の三毒充満の心で見た本尊観なのである。そして、これは、池田大作一人に限らず、創価学会員をはじめとする謗法の一切衆生も同様である。すなわち、創価学会の信心の血脈≠ニは言葉だけのものであり、実体は邪義堕獄の血脈なのである。
 次に悪書では、これによれば、宗門において唯授一人相承の秘事とされる本仏甚深の内証はじつは曼荼羅本尊として図顕され公開されているのであり、もはや万人が曼荼羅本尊を通じて本仏の内証にアクセス可能である、という見方が生ずる。そしてその前提に立ったときには、個々人が曼荼羅本尊への信を通じて本仏の内証を直接継承する、という意味での「信心の血脈」が最重要事となるわけである≠ニ述べている。この言は、のちに述べるところと合わせて考えれば、要するに、三大秘法義を理解して大漫荼羅本尊を信ずれば、万人が成仏できるとするものである。しかしこの見解は、言うまでもなく日寛上人の御指南に背いている。日寛上人は、『当流行事抄』に、
  問う、末法は応に何なる法、何なる仏を信ずべしや。
  答う、文上脱益の三宝に執せず、須く文底下種の三宝を信ずべし。是れ則ち末法適時の信心なり。起信論に云わく「一には根本を信じ、二には仏宝を信じ、三には法宝を信じ、四には僧宝を信ず」已上取意。初めの一は総じて明かし、後の三は別して明かすなり。
 初めの一は総じて明かすとは、総じて久遠元初の三宝を信ずることを明かすなり。血脈抄に云わく「久遠元初の自受用報身・無作本有の妙法」と。又云わく「久遠元初の結要付嘱」云云。自受用身は即ち是れ仏宝なり、無作本有の妙法は法宝なり、結要付嘱豈僧宝に非ずや。久遠元初は仏法の根本なり、故に「根本を信ず」と云うなり。後の三は別して明かすとは、久遠元初の仏法僧は則ち末法に出現して吾等を利益したもう。若し此の三宝の御力に非ずんば極悪不善の我等争でか即身成仏することを得ん。故に応に久遠元初の三宝を信じ奉るべし、故に「二に仏宝を信じ、三に法宝を信じ、四に僧宝を信ず」と云うなり。(六巻抄一九四頁)

と、『起信論』を依用されて本宗の信心を明かされ、文底下種の三宝を信ずべきことを説かれているからである。そしてそこに総別を立てられ、第一は総じて根本を信ずることを説かれ、その根本とは久遠元初の三宝であるとされ、本宗の三宝を信ずることが根本であることを明かされている。ついで「二に仏宝を信じ、三に法宝を信じ、四に僧宝を信ず」と別して三宝を信ずべきことを示される。
 すなわち、仏宝を信ずるとは御本仏日蓮大聖人を信ずることであり、法宝を信ずるとは本門戒壇の大御本尊を信ずることであり、僧宝を信ずるとは本門弘通の大導師日興上人をはじめとする御歴代の法主上人を信ずることであることは言うまでもない。しかしてこの三宝は、『真言見聞』に、
  三宝一体(新編六〇八頁)
と説かれるように一体である。このように本宗の信心における対境は大漫荼羅御本尊にましますが、御本尊を信ずることは、根本である下種三宝を信ずる義なのである。その中の一を欠いても信心は成じないことを深く知るべきである。
 大漫荼羅御本尊とは、日蓮大聖人の御化導の究竟中の究竟たる本門戒壇の大御本尊にましますことは申すまでもない。しかるに松岡ら離脱僧や創価学会の者達は戒壇の大御本尊にお目通りのかなわぬ身であり、さらに大御本尊を信ぜず物体視するのみならず、勝手に「ニセ本尊」まで作製して恥じない池田大作の弟子である。故に、
  師は是れ針の如し弟子檀那は糸の如し(臨終用心抄・富要三二六六頁)
の道理で、彼らが法宝に在す大御本尊違背の大謗法に当たることは当然である。
 また『当流行事抄』に、
  本門の大本尊、其の体何物ぞや。謂わく、蓮祖大聖人是れなり。(六巻抄二〇〇頁)
と説かれるように、本門戒壇の大御本尊は即日蓮大聖人の御当体にあらせられる故に、大御本尊不信の輩は、その義、仏宝にまします日蓮大聖人への不信に当たる。
 そしてまた、僧宝に対する不信とは、末法の「結要付嘱」所受の人にまします日興上人を随一とする唯授一人血脈付法の御歴代上人に対する不信であり、就中、現在その唯授一人の法灯を継承される御当代日顕上人に対し奉り、極悪非道の罵詈讒謗を加え続ける創価学会や松岡らの不信謗法は、まさに言語道断である。
 このように創価学会や松岡ら離脱僧には、本宗の下種三宝すべてに対する不信謗法が存するのである。悪書がいかに曼荼羅本尊への信≠ニか信心の血脈≠ネどと囀ろうとも、それは言葉のみであって、全く実体のないこと明白である。すなわち、松岡らのごとく僧宝の唯授一人血脈付法の御法主上人に背いては、内証三宝一体の道理より、大漫荼羅御本尊への信は成じないのである。なおまた、僧宝の御法主上人は、三宝一体の御内証にましますことを信解しなければならない。僧宝の外用の一辺に執われて、御内証を見失うなかれと教えておく。
 さらにいえば、法華経は十界互具・一念三千すなわち具遍を明かすのであるが、日寛上人は『観心本尊抄文段』に、
  若し理に拠って論ずれば法界に非ざる無し。今、事に就いて論ずれば信不信に依り、具不具則ち異なるなり。(御書文段二一〇頁)
と説かれて、衆生における御本尊の「具不具」も所詮、信心によることを御教示されている。それは要するに、成仏とは一切衆生が仏界を具すことによって成ずるということの上から、仏界の具不具を論じられるのである。たしかに理についていえば一切衆生において仏界を具さない存在はない。しかし事について論ずれば、信・不信によって具不具の異なりが存するのである。しかして仏界とは、『御本尊七箇之相承』に、
  真実の十界互具は如何。 師の曰わく、唱えられ給う処の七字は仏界なり、唱え奉る我等衆生は九界なり。(聖典三七八頁)
と、説かれるように、真実の仏界とは、「七字」の御当体たる御本尊なるが故に、御本尊への不信者は十界互具を成じないのである。
 日寛上人は、先に挙げた『観心本尊抄文段』の次下に、
  若し一念の信心有らば即ち一念三千の本尊を具す。(御書文段二一〇頁)
と説かれて、一念の信心のある者に本尊が具すことを御指南されている。つまり、御本尊・仏界は三宝に対する正しい信心があってこそ、はじめて我らに具し給うのである。三宝不信の松岡らがいかに喚こうとも、御本尊は彼らに具し給うことはない。しかのみならず『当体義抄』には、
  問ふ、末法今時、誰人か当体蓮華を証得せるや。答ふ、当世の体を見るに大阿鼻地獄の当体を証得する人之多しと雖も、仏の蓮華を証得せるの人之無し。其の故は無得道の権教方便を信仰して、法華の当体、真実の蓮華を毀謗する故なり。仏説いて云はく「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば、則ち一切世間の仏種を断ぜん。乃至其の人命終して阿鼻獄に入らん」文。(新編七〇一頁)
と説かれて、信不信による証得の違いを明かされているが、松岡や創価学会のような不信の者は本仏の内証を直接継承≠ネど思いもよらず、大阿鼻地獄の当体を証得することは間違いない。
 また悪書では、万人が曼荼羅本尊を通じて本仏の内証にアクセス可能≠ネどの言をなすが、松岡ら不信者が何を論じようとも、御本尊が具し給わないのであるから通じ≠驤ネ前の問題である。また曼荼羅本尊を通じて本仏の内証にアクセス可能≠ニの言は、御本尊を単なる媒介として軽視する義であり、御本尊の御当体即御本仏の御内証という実義に違う邪義である。さらにまたアクセス≠ネどと言うことは、パソコン用語の接続の感覚であり、尊極なる御本尊に対して用いる言葉ではない。御本尊軽賤の謗法であると断じておく。
 だとすれば、学会と宗門の血脈論争は、日寛の本尊論をもって日蓮の教義の究極とみるのか(学会)、それとも日寛の本尊論の他にさらなる唯授一人相承の秘法を立てるのか(現宗門)、という論争であるようにも思えてくる。ゆえに筆者としては、「信心の血脈」か「唯授一人の血脈」か、という二者択一論の前に、日寛教学は大石寺の唯授一人相承といかなる関係を持つのか、について検討する必要性を感ずるのである。
 悪書では、学会と宗門の血脈論争は、日寛の本尊論をもって日蓮の教義の究極とみるのか(学会)、それとも日寛の本尊論の他にさらなる唯授一人相承の秘法を立てるのか(現宗門)、という論争であるようにも思えてくる≠ニ言う。そもそも日寛上人が御教示される本尊論をはじめとする御指南と、唯授一人の金口血脈相承とは、けっして別個のものではなく、日寛上人の教学は全て唯授一人金口の血脈相承より示されたものである。しかしながら御教示の文々句々に唯授一人金口の血脈相承そのものが直ちに顕示されてはいない。したがって悪書が日寛の本尊論をもって日蓮の教義の究極≠ネどと言って血脈否定に導こうとするのは、まさに正法背逆の根本的な誑惑である。しかも日寛の本尊論≠ネるものは、先に述べるごとく、唯授一人血脈相承に背逆してなお本尊を証得できるという勝手極まる我見であり、日寛上人の御意に背く似て非なる本尊論≠ネのである。
 日寛上人の教学については、日顕上人の、
  日寛上人の教学のなかには、その御先師が時代時代に応じての必要性から、前代に仰せにならなかったところを初めて仰せになったということも、色々な面において表現的にはあるのであります。表現的にはあるけれども、それは日寛上人が新しく発明された法門かというと、私が常に申し上げているとおり決してそうではありません。元々、大聖人の化儀・化法のなかにきちんと確立されておられるけれども、その説明的な形において、これをまだ明らかにせられなかったところがあるというような時に、その時代に応じた他宗他門の教学との関係、あるいは自門における指南の必要性等からそれをお示しになるのであります。(大日蓮 昭和五六年九月号三頁)
との御指南に明らかなように、日寛上人が新しく発明されたものではなく、その時代に応じた他宗他門の教学との関係、あるいは自門における指南の必要性等から、広宣流布・令法久住のために、それをお示しになられているのであって、日蓮大聖人の教義の全てでも、究極でもないのである。それをあえて究極≠ニいわねばならないのは、そうしないと唯授一人金口嫡々の血脈相承の存在を認めなければならなくなり、それでは創価学会の教学が日蓮の教義の究極≠ナはなくなるからである。松岡は巧みに誤魔化しの論理を組み立てたつもりかもしれないが、「頭隠して尻隠さず」の醜態を晒していると笑っておこう。
 またゆえに筆者としては、「信心の血脈」か「唯授一人の血脈」か、という二者択一論の前に、日寛教学は大石寺の唯授一人相承といかなる関係を持つのか、について検討する必要性を感ずるのである≠ニいうが、日顕上人は、
  血脈の全分を言えば、『安国論』の附文に対する元意、『本尊抄』の下種本尊に関する法体と法門の血脈、『法華取要抄』『報恩抄』『三大秘法抄』に説かれる三大秘法に関する甚深の血脈等を含むのであり、言うまでもなく、大御本尊を根幹とする法体の血脈、唯授一人金口嫡々の血脈、法門の血脈、信心の血脈がそれであります。(創価学会の仏法破壊の邪難を粉砕す九三頁)
と、御指南されるように、日蓮正宗には、大御本尊を根幹とする法体の血脈、唯授一人金口嫡々の血脈、法門の血脈、信心の血脈という四種の血脈が存するのである。創価学会は単にその中の、「信心の血脈」の語をもって邪義を立てているに過ぎない。松岡の言うような、二者択一℃ゥ体がスリカエであり、本来成立しない議論なのである。
その際に想起されるのは、日寛の教学展開が常に真剣な秘密開示性をともなっていたことであろう。日寛は、三大秘法、日蓮本仏論、人法体一などの大石寺門流独自の法門を論ずる際に、必ずと言ってよいほど「宗門の奥義此に過ぎたるは莫し。故に前代の諸師尚顕に之を宣べず」「これ内証深秘の相承なり」「これ当流の秘事なり。口外するべからず」などの意味深長な言葉を付した。そこには、大石寺の唯授一人相承の内容を理論的に開示しよう、との意図がありありとうかがえる。
 悪書では、唯授一人相承の内容を理論的に開示≠ニ言うが、前述のように、日寛上人の教学は唯授一人金口嫡々の血脈相承の内容そのものの開示ではない。理論的に開示≠ネどということは、悪意と浅知恵によるまったくの曲解である。松岡は、御本尊の法体は無論のこと、唯授一人金口嫡々の血脈相承の内容を何も知らない。にもかかわらず唯授一人相承の内容を理論的に開示≠ニいうことは、想像というよりも、当てずっぽうで述べているのである。これほどの大事について、何の根拠も論証もなく断定的に述べること自体、無責任極まりない論であって、松岡がまったく良識の欠けたエセ学者であり、信をおけない人物であることを証明するものである。
しかるに日寛教学を秘密開示性という視点から本格的に分析する試みは、今までなかったと言ってよい。
 そこで筆者は、日寛教学に関して、唯授一人相承の教義の理論的開示という観点から、改めて検討を加えてみたいと思う。また、歴史的にみて日寛教学は唯授一人相承の教義の理論的公開につながったのか、という問題にも考察を進める。日寛による秘密法門の開示は、元々同門の一部の学僧たちに向けられ、相伝文献の開示も著しく制限されていた。よって長年にわたり、一般の平僧や在家信徒、門外者が日寛の諸著作に触れ、大石寺の唯授一人相承の内容をうかがい知ることは困難な状況下にあった。日寛の秘密開示が公開性を持つには、彼の諸著作やそこに引用された相伝書が、全面的に出版公開される時期を待たねばならなかったと言える。その意味では、日寛教学の公開過程に関する考察も、現代の血脈論争に有効な回答を与えるために避けて通れない重要課題となろう。
 以上の観点を踏まえ、本稿では、日寛教学にみられる秘密開示性の分析を中心に考察を行っていく。そして、この考察に基づきつつ今日の法体相承論や僧宝論を再検討した後、現代において唯授一人相承の信仰上の意義をいかに考えるべきか、について最終的見解を示すことにする。なお断っておくが、筆者は大石寺門流が唯授一人相承と信じてきた教義の公開過程を論ずるものであって、何も大石寺の唯授一人相承を日蓮日興以来の歴史的事実として承認しているわけではない。大石寺の相承法門の形成過程については日本仏教思想史や宗門史の観点から更なる文献精査が必要であり、今後の研究の進展に期待したいと思う。
 悪書では、なお断っておくが、筆者は大石寺門流が唯授一人相承と信じてきた教義の公開過程を論ずるものであって、何も大石寺の唯授一人相承を日蓮日興以来の歴史的事実として承認しているわけではない≠ネどと言う。それならば、松岡は、次に掲げる池田大作の、大石寺の唯授一人相承を拝信する言辞に対して、万人を納得させる説明をしてみよ。
  ご存じのとおり、私どもは日蓮大聖人の仏法を奉ずる信徒である。その大聖人の仏法は、第二祖日興上人、第三祖日目上人、第四世日道上人、および御歴代上人、そして現在は第六十七世御法主であられる日顕上人猊下まで、法灯連綿と血脈相承されている。ゆえに日顕上人猊下の御指南を仰ぐべきなのである。この一貫した仏法の正しき流れを、いささかなりともたがえてはならない。(広布と人生を語る三二四九頁)
いま、日蓮正宗御宗門においても、仏法の師であられる御法主上人猊下に師敵対する僧俗が出たことは、まことに悲しむべきことである。これは恐ろしき謗法であり、真の日蓮大聖人の仏法を信解していない証左なのである。血脈付法の御法主上人を離れて、正宗の仏法はありえないのである。(広布と人生を語る三二九四頁)
日蓮宗身延派にあっても、南無妙法蓮華経の題目を唱えている。御書もある。経文も、法華経の方便品、寿量品等を読経している。また、もと正宗の僧侶であった「正信会」も、御法主上人の認められた御本尊を拝しているし、読む経文も唱える題目も、われわれと同じである。外見からみればわれわれと同じようにみえるが、それらには唯授一人・法水写瓶の血脈がない。法水写瓶の血脈相承にのっとった信心でなければ、いかなる御本尊を持つも無益であり、功徳はないのである。すなわち「信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり」なのである。(広布と人生を語る八二二八頁)
本宗における厳粛なる法水瀉瓶唯授一人の血脈は、法灯連綿と、代々の御法主上人に受け継がれて、今日に至っております。あくまでも、御本仏は、日蓮大聖人様であらせられ、唯我与我の御法主上人のご内証を、大聖人と拝すべきなのであります。(聖教新聞 昭和五四年五月四日付)

 以上、池田大作の過去の発言を提示した。松岡は池田のこの発言と全く異なった、大石寺の唯授一人相承を日蓮日興以来の歴史的事実として承認しているわけではない≠ニの言を弄するが、池田大作が過去にこのような血脈を尊信する発言を繰り返していたことはまったくの矛盾ではないか。池田大作の過去の発言は、正しかったのか、誤りだったのか。もし正しいのであれば、松岡の述べることは誤りとなる。また過去の池田の発言が誤りであるなら、それがなぜ誤りであるのかを総括すべきである。
 松岡雄茂に聞く。池田大作は、二枚舌なのか、それともボケたのか、どちらなのだ。正直に答えてみよ。



ホーム    目次   前頁  次頁