2 内証の次元における因分と果分の立て分けについて≠論ず

 汝は、あくまで御法主上人の御内証を因分としたいらしく、前回『邪誑の難を粉砕す』(一六二頁)で当方が破折した内容を一切無視し、懲りることなく日寛は、「蓮祖の門弟」である以上、法主の内証も「因分の無作三身」を超えることはない、とみなしたと思います果分の仏を日蓮一人の内証に限定した日寛の教説%凾ニ繰り返し述べ、汝自身が殊更に学術的内容学問研究≠ニこだわる割には、日寛上人の御指南を主観的に断定し、邪義を述べている。
 しかし、前回破折したように、日寛上人の『法華取要抄文段』における因分果分の御指南は、あくまで下種仏法の教相の上より判じた能化の仏と所化の衆生との対比である。したがって、日寛上人が、法主の内証も「因分の無作三身」を超えることはない、とみなした≠ネどということは、法門の筋道に迷う汝の我見である。
 『邪誑の難を粉砕す』でも引用したが、日寛上人が『文底秘沈抄』に、
今に至るまで四百余年の間一器の水を一器に移すが如く清浄の法水断絶せしむる事無し、蓮師の心月豈此に移らざらんや、是の故に御心今は富山に住したもうなり。(六巻抄六六頁)
とお示しの如く、御本仏大聖人よりの金口嫡々の血脈法水は一器より一器へ相伝され、当代の御法主上人の御内証には清浄なる大聖人の御法魂がましまされるのである。また、日有上人は『化儀抄』に、
  師匠有れば師の方は仏界の方弟子の方は九界(聖典九九六頁)
と示され、さらに日達上人は、この文につき、
授与の本尊に法主が書き判せられるから法主は主の方で仏界の方であります。法主が書き示されるは弟子の方で、九界の方でありその師弟相対して中尊の南無妙法蓮華経に相向ふので、その所が当位即妙の即身成仏であります。(有師化儀抄略解一〇八頁)
と註釈なされているように、下種仏法においては、御法主上人に対する師弟相対の信心が重要なのである。
 つまり、大聖人が『御本尊七箇之相承』に、
日蓮在御判と嫡嫡代代と書くべしとの給う事如何。 師の曰わく、深秘なり、代代の聖人悉く日蓮なりと申す意なり。(聖典三七九頁)
と仰せられていることからも明らかなように、御本尊を御書写し給う御法主上人の御内証には大聖人の御法魂がましまされるのであり、大聖人が究竟果分の無作三身であらせられるならば、大聖人の御法魂を具え給う御法主上人の御内証も究竟果分の無作三身にましますのである。したがって、日有上人、日寛上人、日達上人の右の御指南も、この大聖人の御金言に基づいた一貫した御指南なのである。
 なお、汝は、御法主上人が因分であると主張する根拠として、日寛は法主の本尊書写を「受持」の修行中の書写行に分類しています≠ニ言うが、その日寛上人の御指南が、『観心本尊抄文段』の、
今「受持」とは即ち是れ偈の中の総体の受持なり。故に五種の妙行に通じ、五種の妙行を総するなり。然るに今、受持正しく信心口唱に当たるとは、信心は即ち是れ受持が家の受持なり。口唱は即ち是れ受持が家の読誦なり。当に知るべし、受持が家の受持読誦は此れ即ち自行なり。今自行の観心を明かす故に但自行の辺を取るなり。解説書写は化他を面と為す故に之を論ぜず。解説は知んぬべし。本尊書写豈化他に非ずや。(御書文段二二八頁)
とのお示しであるとするならば、それは、能所を混乱した邪義である。
 この日寛上人の仰せは、下種仏法における五種の妙行を示されたものであるが、ただ本尊書写の部分は御法主上人に限られるのであるから、能化たる御法主上人の本尊書写は化他行であるという意である。すなわち御法主上人の御内証は究竟果分の無作三身にましますのであるから、一切衆生の観心の対境として御認め遊ばされる御法主上人の御本尊書写は、能化における化他行という意義が存するとの御指南である。したがって、この「本尊書写豈化他に非ずや」の御指南を所化の修行と同等の「受持」の修行中の書写行≠ニ解釈することは間違いであり、摧尊入卑の邪言である。汝の主張は、あくまで御法主上人を「因分」に属させたいが為にする狡猾な欺誑であると断ずる。
 さて、ここで汝に質問したい。
 池田大作は、以前、御法主上人の御事を、
唯我与我の御法主上人のご内証を、大聖人と拝すべき(聖教新聞 昭和五四年五月四日付)
だと公言していたが、汝はそれを肯定するのか、否定するのか。何れにせよ、その学術的根拠を明示せよ。



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