7 金口相承の内容の未公開について≠破す

 ここで汝は、日寛によって金口相承の法門は理論的に整束され、開示されたたとえ大石寺門流の金口相承である法門や文献の内容が非公開のままだとしても、日寛の『文底秘沈抄』はすでにその教義上の核心を開示し終えている唯授一人、金口相承の法門に関する私の理論的開示説は、あなた方のいう相承文献の永久非公開説と矛盾しません≠ニ主張している。前回の汝の悪書に対する当方の破折の意味が理解できていないようなので、再度指摘する。汝は前回の悪書で、
日寛は、当時、法主以外に見ることができなかった唯授一人相承の文献まで六巻抄に引用している。(中略)日寛は、今日でいう「御本尊七箇相承」や「本尊三度相伝」を唯授一人相承の重要な極秘文献とみなし、その開示を認めなかったのである。(中略)さらに日寛以降の大石寺門流に関しては、六巻抄が長らく貫主直伝の秘書とされてきた、という問題もある。(邪誑の難を粉砕す八四頁)
などと言い、ことさらに『御本尊七箇之相承』『本尊三度相伝』が秘書であるということを強調し、そしてまたそれらを引用して著された『六巻抄』も貫主直伝の秘書≠ナあって、それらが公開された現在、大石寺の唯授一人血脈相承の意義が消失したと言っていた。
 ところが、これらのことは実態に反したことなのであり、それを当方が指摘したのである。つまり、『御本尊七箇之相承』や『本尊三度相伝』が大石寺以外の他山にも伝承されていたということ。もう一つは『六巻抄』が別して御歴代上人に伝承された重書であっても、総じては門下一同に講義されたものであり、また披見を許されたものであることを種々論証したのである。
 汝は前回の悪書で、
時代性や堀日亨の尽力により、富士門流の秘伝書が次々と活字化され、日寛の六巻抄及び御書文段等も出版公開されたことは、まさしく金口相承の三大秘法義の理論的開示に必要な外的条件が整ったことを意味していよう。(邪誑の難を粉砕す九二頁)
などと言い、あたかも近年になって文献が公開され、血脈相承の意義が消失したかの如く述べていた。これは実態を無視した汝の独断偏見であり、そのことを指摘したのである。
 つまり、これらの文献の公開と、血脈相承の意義とを混同して議論することに汝の大いなる欺瞞が存するのである。なぜならば、『六巻抄』を御著述、御講義遊ばされた日寛上人は、日養上人と日詳上人にそれぞれ唯授一人の血脈相承を遊ばされている。このことこそ、日寛上人が『六巻抄』等に開示された法門とは別に、絶対に開示されてはならない唯授一人の血脈が存在するという厳然たる証拠なのである。そしてまた血脈相承の尊厳は日寛上人以降の三百年に及ぶ今日に至るまで、寸分も違うことなく、大石寺門流に受け継がれてきたのである。すなわち、文献の公開によって本宗の血脈相承の意義が消失することはないのである。
 要するに、汝の唯授一人、金口相承の法門に関する私の理論的開示説≠ネどという発想自体が、汝の無知蒙昧からくる迷論であり、学術論文を装いながらも、何としても創価学会が大石寺門流の正統であると位置づけたいという汝の妄念からくる邪説なのである。
 さらに、たとえ大石寺門流の金口相承である法門や文献の内容が非公開のままだとしても、日寛の『文底秘沈抄』はすでにその教義上の核心を開示し終えている≠ニの主張も『邪誑の難を粉砕す』において徹底して破折したが、また蒸し返して述べているようなので一言する。
 この主張は『六巻抄』にある「秘すべし」等の言説を取り上げて、それがあたかも唯授一人の秘法であるかのごとく思わせようとしているが、「秘すべし」との語は、『六巻抄』が門弟に講義されたという性質上、当然、他門に対して「秘すべし」と仰せられたものであり、大石寺門流の僧侶に対して秘密にされていたという意味ではない。また汝は金口相承≠ノついてその教義上の核心≠開示し終えていると迷推するが、大石寺の金口嫡々の血脈相承は汝が知ることのない唯授一人なのであり、その不識不知の汝に『文底秘沈抄』が金口相承≠フ教義上の核心≠ゥ否かを判断する前提も資格もないのである。したがってその主張も悪意による勝手な邪推であると断ずる。
 すなわち、当方が、
日寛上人が述べられた人法体一の本尊論は、その時代の機縁に応じて述べられた法門であり、その根源となる唯授一人血脈相承の法体そのものを示されたものではないのである。即ち人法体一の根本は「南無妙法蓮華経 日蓮」と御書写遊ばされた御本尊にあり、日興上人をはじめ代々の御法主上人はその根本の法体を血脈法水の上に承継遊ばされているのである。故に日寛上人は当時における必要性の上から、根本の法体に具わる深義を人法体一の法門として説明されたのである。したがって、悪書の人法体一の本尊論こそが金口相承の三大秘法義における最大深秘≠ニの言が、日寛上人によって示された人法体一の法門が法体法門のすべてを開示しているとの意味であれば、それは根本に迷う短見なのである。(邪誑の難を粉砕す七八頁)
と述べたように、日寛上人の『六巻抄』や『御書文段』も、その当時における他門に対する破折や、門弟の教化育成の為に著されたものであり、それが血脈の深義より述べられたものであったとしても、逆説的に『六巻抄』や『御書文段』が「血脈相承」であるということはできない。どこまでも本末の区別が存するのである。
 つまり「唯授一人、金口相承」は、日應上人が、
此の金口の血脈こそ宗祖の法魂を写し本尊の極意を伝ふるものなり之を真の唯授一人と云ふ (弁惑観心抄二一九頁)
と仰せのように「宗祖の法魂を写し本尊の極意を伝ふるもの」であって単なる法門相承ではない。このように汝の論は、金口嫡々の相承と法門相承をあえて混同させた戯論に過ぎないのである。
 次に汝はあなた方は、かつての法主が“非公開の唯授一人相承である”と規定した諸文献を“それは唯授一人ではない”と否定しているからです≠ニ疑念を投げかけ、『御本尊七箇之相承』『本尊三度相伝』について云云している。
 汝は、日寛上人の『法華取要抄文段』の、
本尊七箇の口伝・三重口決・筆法の大事等、唯授一人の相承なり。何ぞ之を顕わさんや。 (御書文段五四〇頁)
や日忠上人筆録の『観心本尊抄聞記』の、
本尊七箇、又本尊筆法等は一向に言わざる也。貫主一人の沙汰也(研教一二─五八九頁)
を引き、そこに「唯授一人の相承」「貫主一人の沙汰」とあることをもってこれらの文献の相承をもって本尊書写の資格を生ずるとしたことがうかがえます≠ニ主張している。この主張も論理的に破綻を来している。『邪誑の難を粉砕す』にも指摘したが『法華取要抄文段』は日寛上人が御登座以前に著されたものであり、そこに「何ぞ之を顕わさんや」と言われているのであるから、明らかに「本尊七箇の口伝」や「三重口決」について内容を承知されていた上での仰せであることが伺える。しかるに汝がこれらの文献の相承をもって本尊書写の資格を生ずる≠ニいうのならば、御登座以前の日寛上人に本尊書写の資格≠ェあったとでもいうのか。そのようなことはないのである。これについて日顕上人は、
「此の血脈」の文には、初めから法門の相承として存在したものや、あるいは時代によって唯授一人の相伝のなかより、やや一般的に法門相承に展開した、相伝血脈と言うべきものがあるほかに、全く公開せられざる、人法の血脈相伝が具わり、含まれているのであります。
 創価学会は軽忽浅識の判断をもって、塔中相承の稟承、唯授一人の血脈とは文書であり、日亨上人によって『富士宗学要集』第一巻に公開されているものがすべてであるとしています。しかし、それは彼等の無知による独断であり、日亨上人も御生前中、僧侶への講義等のなかで、全く非公開の法を内容とする相伝があることを述べられておりました。
(創価学会の仏法破壊の邪難を粉砕す一一二頁)

と御指南されている。つまり、『御本尊七箇之相承』や『本尊三度相伝』は御本尊に関する大事の相伝書ではあるが、日寛上人が御著述に引用されたり、他山にも写本があることからも明らかなように、極秘伝の金口嫡々の相承ではないのである。
 よって「唯授一人の相承」「貫主一人の沙汰」という意味は、御本尊の書写や相貌に関する相伝書である『御本尊七箇之相承』や『本尊三度相伝』について、御法主上人にのみ御本尊書写の大権が存する本来の意義より、門下への伝承の実態とは別に、両書に含まれる血脈相伝の深義の上から、このように述べられたものというべきである。また「何ぞ之を顕わさんや」「一向に言わざる也」とは、御本尊に関する深義は、甚深の御法門であるので、扱いに慎重を期された御教示なのである。
 また汝は、いわゆる「文底秘沈」の文が寿量品のいずこを指すのかについても、九世・日有と二十六世・日寛とでは意見が異なっています。将来、大石寺の「唯授一人金口嫡々の血脈相承」の法門や文献は時代により変化していた、という真相が究明されるのではないでしょうか≠ネどと悪態をついているが、日有上人・日寛上人の仰せは、いずれも文上脱迹に執する他門に対し、本因下種仏法の正義を明かされたものであり、両上人の御指南に全く齟齬はないのである。すなわち汝の九世・日有と二十六世・日寛とでは意見が異なっています≠ネどとの邪難は、両上人の御指南における表面上の食い違いに囚われた、愚癡蒙昧の空言である。
 なぜなら、日有上人・日寛上人当時、他門では『開目抄』の「文底秘沈」の文につき、不相伝の故に不毛の議論が種々に生じていた。それらの邪義に対し日有上人・日寛上人は御相伝の上から等しく文底の正義を示されたのであり、その両上人に、「文底秘沈」の文が寿量品のいずこを指すのか≠ナ意見の食い違いが生じることなどありえないのである。つまり、『当流行事抄』に、
能詮の辺の二千余字、是れを「我が内証の寿量品」と名づけ、所詮の辺の妙法五字、是れを「本因妙」と名づくるなり。(六巻抄一九〇頁)
とあるごとく、「内証の寿量品」二千余字は全てが文底なのであり、文底の妙法五字の能詮たる「内証の寿量品」の場合、全ての文が本因妙を詮顕するからである。
 しかるに汝が「文底秘沈」の文が寿量品のいずこを指すのかについても、九世・日有と二十六世・日寛とでは意見が異なっています≠ネどということは、下種法門の構格に暗く、徒に部分観に執われて自らの浅識を露呈する邪難であると指摘しておく。
 さらに汝は、将来、大石寺の「唯授一人金口嫡々の血脈相承」の法門や文献は時代により変化していた、という真相が究明されるのではないでしょうか≠ネどととぼけたことを言っているが、正法を護持する日蓮正宗に魔が競うことは理の当然であり、汝らのような魔族が大聖人の仏法を簒奪せんと企てることは、御本仏大聖人が知見せられているのである。その上に大聖人は、正法正義を末法万年にわたり令法久住していく方途として、日興上人に唯授一人の血脈相承を遊ばされたのであり、その意義は万代不易なのである。
 先の『邪誑の難を粉砕す』において、
金口嫡々の唯授一人血脈相承とは、時代によって何か新しく付加されたり、逆に削除されたりするものではない。未来永劫に不変である大聖人の御内証そのものであり、その御法魂を肉団の胸中に伝持あそばされる御法主上人以外に、全く知ることあたわざる唯我与我の奥義なのである。(七一頁)
と述べた。三大秘法義等の甚深の御法門は、金口相承の法門をもととして、その時と機にしたがって正しく化導の上に顕示されるのであり大石寺の「唯授一人金口嫡々の血脈相承」の法門や文献は時代により変化していた≠ネどということは、金輪際あり得ないのである。



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