五 開眼本尊の焼却について≠破す



五 開眼本尊の焼却について≠破す

 返納された御本尊については『十項目の愚問を弁駁す』で次のように述べた。
汝は人目を憚(はばか)るかのごとく、大坊西寮の近くの倉庫の中に密かに焼却炉を設置し≠ニいうが、総本山においては、全国の末寺より返納された御本尊に関して、しかるべき施設において丁重に御火中申し上げてきたことは周知の事柄である。汝の言は、読者に人目を憚る≠ゥのごとき印象を抱かせようとの誑言にすぎない。ここでの汝の愚問は当方が、
創価学会は、いったいこれらの御本尊様をどう扱ったのだ。謗法、不信心の創価学会にふさわしく、これらの尊い生身の大聖人と拝すべき御本尊を、ドラム缶で焼いたという情報がある。このことは、三年前にも『新興宗教「創価学会」と離脱僧らの再度の邪難を摧破す』において指摘したが、いまだに何の返答もない。もし事実とすれば、無慙極まりない、堕地獄の極大謗法である。(邪誑の難を粉砕す一三五頁)

と破折したことに対する当てつけのつもりであろう。しかしながら汝の難癖はまったくの的はずれである。問題なのは、御法主上人の許可もなく、しかもニセ本尊の大量配布にともなう悪辣な意図のもとに本宗の御本尊の焼却をおこなったことである。すなわち、こと御本尊に関する権能は御法主上人にのみ存するのであり、御法主上人の御意に反して勝手に本尊を焼却することこそ大謗法行為なのである。
 また汝は「大聖人の御法魂が宿り給う」本尊を大量に焼き払っていることになりますが、その点はどうお考えですかどのような手順で許可がなされるのか「閉眼」の儀式を行わないのか≠ネどと言い掛かりをつけるが、総本山における返納御本尊の御火中と、汝ら創価学会の犯したドラム缶での焼却とでは天地雲泥の相違が存するのである。総本山で返納御本尊を御火中申し上げる儀は、御法主上人の御許可のもとで丁重に行われているものである。またお役目を終えられた御形木御本尊に具わり給う御法魂は、御法主上人の御許可のもとに御火中申し上げ、且つ丑寅勤行における御法主上人の甚深無量の御祈念によって、大聖人のもとに還御遊ばされるのである。
 このように総本山において返納御本尊を御火中申し上げることは、汝らの如き、お役目を終えていない御法魂まします御形木御本尊を、邪悪な念をもって焼却することとは訳が違うのである。
(二九頁)
 このような我らの正論に対し、汝は、@ シャッター付の倉庫の内部に焼却炉を設置し、焼却炉が外から見えないようにして本尊の焼却作業を行っていた。これを「人目を憚る」行為と言わずして何と言うのか。A 阿部は、返納本尊の一々を直接に確認した後で焼却の許可を出しておらず、「閉眼」の儀式も行っていない。B「御法主上人の御許可」「御法主上人の裁断」による本尊焼却、などと言うのは欺瞞である≠ニ反論している。あきれかえる詭弁であり、すべて偏見に基づく妄断である。
 @については、一般の火葬が他見に及ぶことのないように配慮するように、総本山の中とはいえ御本尊の御火中を担当者以外の者に安易に見えることのないように御配慮申し上げることは当然である。これを「人目を憚る」行為≠ネどということこそ異常であり、☆下司(げす)の勘ぐりの最たるものである。
 Aについては、「閉眼」の用語は本宗にはない。しかし開眼の時もその儀式が重要なのはいうまでもないが、開眼の実体実義は御法主上人の御祈念に在すのである。同様に御火中においても、
丑寅勤行における御法主上人の甚深無量の御祈念によって、大聖人のもとに還御遊ばされる(同書三〇頁)
のであって、このような御本尊の御魂魄に関する意義については、ただ深く拝信すべきである。
 御本尊の御事に関する汝の言は、座敷を土足で踏みにじるような傍若無人なものであり、御本尊を仏と拝する敬虔な気持ちなど微塵も感じられない。要するに汝には信心が全くないのである。御法主上人はその御胸中に日蓮大聖人の御内証を具えておられるのであるから、御法主上人の御祈念によって御本尊の御魂魄が大聖人のもとに還られるのは当然なのである。
 Bについては、御本尊に関することは御法主上人の権能である。「御法主上人の御許可」「御法主上人の裁断」なくしては何人もお取り扱いすることができないのは周知のことである。総本山における御火中も在勤僧侶が勝手に行うことなどないのである。汝の発想はニセ本尊を勝手に造る創価学会の考えそのものである。
 また汝は、本尊は上行菩薩即久遠元初の本仏から一切衆生に与えられるのであり、阿部の言うごとく「お貸し下げ」されるわけではない。「さづく」とは、「目上の者から目下の者に与える」という意である。そこに「貸す」という意味はまったくないのである≠ニいうが、本義に立ち還って考えてみよ。日蓮大聖人から御本尊を授与された者が、所有権を主張するごとき表現をするかどうかである。御本尊は信仰者の信心に対して授与されるのである。世間の物質的譲与と同義に考えるべきではない。しからば、死亡や退転等で授与された者の信仰的受持の持続が不可能となった場合には、返納すべきことは道理ではないか。要するに御本尊下附とは、信仰者の信心に対して授与するのであって、個人に物質的に授与するのではない。故に御本尊の下附の意義を「お貸し下げ」としているのである。汝の邪難は全く的はずれである。
 つぎに汝は阿部の回答のポイントは「お役目を終えられた御形木御本尊に具わり給う御法魂は、御法主上人の御許可のもとに御火中申し上げ、且つ丑寅勤行における御法主上人の甚深無量の御祈念によって、大聖人のもとに還御遊ばされるのである」(『阿部側回答書』三〇頁)というところに存すると思われる。そこで、この主張の問題点を指摘しておく≠ニして、次に四点挙げている。要約すれば、
 @「お役目を終えられた御形木御本尊」と言うが、「お役目」を終えた本尊かどうかを、阿部はいかにして判定するのか。
 Aまた、たとえ「お役目」を終えた返納本尊であったとしても、なぜ焼却しなければならないのか。
 B「丑寅勤行における御法主上人の甚深無量の御祈念」によって、返納本尊の法魂は「大聖人のもとに還御遊ばされる」と阿部は言う。これは過去のいかなる法主も唱えたことのない新説であるが、(中略)阿部が新しい法門(釈論)を唱えるのならば、何よりも日蓮の教示という「経」を示してほしい。
 C返納本尊の焼却について、(中略)本尊の法魂を本仏大聖人のもとに「還御」する重要儀式だ、と主張するのならば、法主の阿部自身が法衣で正装し、いかに面倒でも一体ずつ、丁重に「御火中」するのが筋ではないか。
というものである。
 @については、総本山に返納されたということが、お役目を終えられたことを意味しているではないか。汝は比較的新しい≠ニか授与者を救う前に返納≠ニかいうが、これが屁理屈に過ぎないことは説明はいらないだろう。
 Aについては、御火中がもっとも適切な化儀だからである。
 Bについては、前記、『観心本尊抄』中の『弘決』の「一身一念法界に遍し」の深意によるのである。
 Cについては、御法主上人が全ての法務を御一人でできるのなら、一般僧侶は不必要である。子供じみた難癖はやめよ。汝が笑われるだけである。
 以上、「狂人走って、不狂人走る」の愚を顧みず、反論した次第である。




ホーム    目次   前頁   次頁