一、御法主上人の血脈相承への誹謗について

 (1) 創価学会の血脈に関する自語相違

 さて当方は、御法主日顕上人猊下に対し奉り、貴殿らがあくまでも「血脈詐称の偽法主」と誹謗するのなら、誤魔化すことなくその根拠を示すべきであると厳然と通告したのである。しかるに貴殿らは、確たる根拠も示せず、相も変わらず不正直な言い逃れに終始している。
 すなわち貴殿らの「邪論」では、日達上人から貴殿への相承については、当方は貴殿と袂を分かって以来、折に触れ何度となく明快に「ない」と言ってきた≠ニ述べている。
 これまさしく詭弁というほかない。貴殿と袂を分かって以来≠ニはどういう意味か。袂を分かつ≠ニは平成三年の創価学会破門処分の年を指すのであろうが、それではそれ以前は血脈相承があったというのか、或いは無かったというのか。この点につき、答弁に曖昧さがつきまとうのである。もし平成三年以前は血脈相承があったと言うなら、日蓮正宗の血脈法水とは、平成三年に謗法団体たる創価学会を破門したことで無くなるような浅薄なものではなく、また貴殿らに血脈相承が「ある」とか「ない」とか、その有無に言及できるような資格も権能も一切存在しないと言っておく。
 また一方貴殿らは、今回の邪論において、残念ながら、日達上人は誰にも相承せずに御遷化されたと言うほかない≠ニ不知恩極まるとんでもない暴言を吐いた。もしこのように血脈相承が始めから無かったという立場を徹底してとるというなら話は別である。それなら貴殿らは次の質問にハッキリと答えなければならない。
 それは、なぜ血脈相承のない日顕上人猊下に対し、何百体もの常住御本尊、何万体もの特別御形木御本尊の御下付を会員に願わせ、十年以上に亘り拝ませたのか。本尊とは信仰の根幹であり、自らの生命を帰する尊極の対境にましますのである。
 創価学会は、日達上人より日顕上人への御相承がないと思っていたというなら、そのような不純な信仰で御本尊の下付を願わせたというのか、この点につきハッキリとした回答をするよう要求する。
 またなぜ、御法主日顕上人猊下への信順を、あれほど創価学会機関紙に何度も掲載し、更にはそれをもとに徹底して正信会を破折攻撃したのか。
 昭和五十五年から六十一年までの六年間において、貴殿らの首魁・池田大作の行ったスピーチでは、百五十回にも及び各種会合で血脈法水の大事を強調している。その中の二、三を挙げてみよう。

(a) 熊本・城北圏自由勤行会(阿蘇)
「日蓮正宗の僧俗であるならば、絶対に御法主上人猊下に随順すべきである。それに反して、随順せず、いな、弓を引く行為をする僧や俗は、もはや日蓮正宗とはいえない。私どもは無数の讒言や画策をうけながらも、一貫して総本山を外護したてまつり、御法主上人猊下に随順してまいった。これが真実の信心であるからだ。それを、増上慢と権威とエゴと野望のために踏みにじっていく僧俗は、まったく信心の二字なき徒輩であり、もはやそれは、日蓮大聖人の『広宣流布をせよ』との御遺命に反した邪信の徒と断ずるほかないのである」(広布と人生を語る二―三七)

(b) イタリア広布二十周年記念勤行会(フィレンツェ)
「三座は、御本仏日蓮大聖人に対する御報恩感謝、ならびに日蓮大聖人の仏法を血脈相承なされ、現在の富士大石寺を御開基なされた第二祖日興上人に対する御報恩感謝である。さらには、第三祖日目上人をはじめ唯授一人の血脈をうけられた、正法の正師であられる歴代の御法主上人に御報恩感謝申し上げるのである。現在においては、ご存じの通り第六十七世日顕上人猊下が厳然と大法を受け継がれ、仏法の師匠としておられる」(広布と人生を語る二―八三)

(c) 富山県記念支部長会(富山文化会館)
「この法、すなわち末法の大白法は、唯授一人、血脈付法の御歴代の御法主上人御一人が、お伝えあそばされているのであり、そのうえからわれわれ信徒のために御本尊をお認めくださっているのである。ここに、令法久住があることを知らねばならない。したがって、われわれは総本山を外護申し上げ、御法主日顕上人猊下の御指南のもと、僧俗和合の道を歩みゆくことが正しいのである」(広布と人生を語る四―六七)
 このように御歴代上人、並びに御当代日顕上人猊下に対する信伏随従の大事を全世界の会員に徹底して説いていたのである。一回や二回の話ではない。昭和五十四年以降、池田大作をはじめ、創価学会幹部が、百回、二百回と、あらゆる会合で繰り返し訴えてきたこれらの本宗宗旨の根幹たる血脈法水への尊崇と、第六十七世御法主日顕上人猊下への随順は、すべて本心からではなかったというのか。
 すなわち、かかる宗義の大事を十年以上にわたり、日本全国はもとより、全世界の会員に語りながら、腹の中では、日達上人は誰にも相承していない、日顕上人は相承など受けていない≠ニ思い続けていたというのか。もしそうだとすれば、池田大作とは宗教史上にも類例のない稀代の虚言者であり、口では信仰を説いて恭順を装いつつ、本心は不信の一念で日蓮正宗血脈仏法の破壊を目論んでいた二枚舌の大悪漢と言うほかはない。また創価学会そのものが大悪団体であったことになる。
 ともかく、これらの池田大作及び創価学会の当時の言動という歴史的事実からは、日蓮正宗の連綿たる血脈法水≠ニ日達上人から日顕上人への血脈相承≠厳然と信仰の根幹に置いていたとしか見えない。
 そこで貴殿らに質問する。この時期の十年にも及ぶ、血脈付法の第六十七世御法主日顕上人猊下に対する信順の言葉は、一体本心だったのか、ペテンだったのか。どちらだったのかをハッキリと答えられたい。それと共に昭和五十二年の創価学会謗法逸脱路線についても、当時、御先師日達上人にお詫び申し上げ、お許しを戴いた筈である。その折の貴殿らの一々の反省の辞はここには挙げないが、今回、再び過去に遡って日蓮正宗を攻撃するのは自己矛盾ではないか。あの折の反省のすべてについて、本心だったのか、ペテンだったのかを聞きたいものである。日達上人の御弟子方も宗内に大勢おられる。恐らく貴殿らの返答を大変に注目しておられると思うので期待を裏切ることなく、以上の二点と、先に述べた、日顕上人猊下に常住御本尊、及び特別御形木御本尊の御下付を会員に申請させた理由、の計三点につき、頬っ被り≠決め込まず、堂々と必ず回答するよう要求するものである。
 ここに至って、貴殿ら創価学会の信仰とは一体なんぞやと問わざるを得ない。ある時は白といい、ある時は黒という。要するに貴殿らは、創価学会にとって都合のよいものは白であり、都合の悪いものは黒なのだ。創価学会の利益になるものであれば、それが一切に優先するのである。誠に自分勝手、自己中心の我見我所見で凝り固まった外道教団というほかない。大慢婆羅門さながら堕獄は必然と呵しておく。

 (2) 日達上人の後継に関する件

 次に貴殿らは、日達上人の御遷化の砌、日顕上人が日達上人の御遺族との話の中で、後継についてふれた時に、菅野慈雲師(現大宣寺御住職)が「総監さん(日顕上人)じゃないんですか」と応じたとし、もし日達上人から血脈相承を受けていたのなら、何故遺族とそんな話をする必要があったのかと疑義を呈している。
 この件に関して述べる前に、日顕上人への御相承に関しては、日達上人が日顕上人を後継と考えておられたことを証明する多くの証人が宗内におられ、それらの方からお話を伺うことができたのでまず紹介しよう。
 始めに昭和四十九年一月十八日、日顕上人の御母堂妙修尼が逝去されたが、これに先立つ一月十三日、日達上人は京都平安寺へ御下向、妙修尼を見舞われた。このとき妙修尼の部屋へ日達上人のお供をして入ったのは日顕上人夫人と当時御仲居であられた光久諦顕師(現妙縁寺御住職)であった。その折に日達上人は病床の妙修尼に「あなたの息子さんに後をやってもらうのですからね、早く良くなって下さいよ」と述べられ、妙修尼を元気づけられたのである。この日達上人の深い御慈悲に妙修尼は感涙に咽ばれたことであろう。このことはお供で入室された光久諦顕師も証言しておられる。
 またこの件に関してもう御一方、日達上人から直接話を聞かれた方がおられる。それは昭和四十九年当時、大石寺理事を務めておられた野村慈尊師(現清涼寺御住職)である。師は日達上人が京都からお帰りになられたときに総本山でお出迎え申し上げたのであるが、この折に日達上人は野村慈尊師に対して、「妙修さんにな、あなたの息子さんに後を譲るから安心しなさいといって励ましてきたよ」とお話しになられたとのことである。
 また、昭和五十年当時、法華講連合会佐藤悦三郎委員長のもとで連合会登山部長として尽力されていた小島富五郎氏(妙國寺総代)は、ある時連合会幹事三名で、総本山内事部において日達上人に御目通り申し上げた。その折に、「私もだんだん身体が弱ってきたので、後は阿部教学部長に任せようと思う」とはっきりと仰せになられたので、この時に、後は阿部教学部長がなられるのだと思ったと述懐されている。
 これ以外にも、日達上人の御遺族や御弟子、御信徒など、相当数の方々が、日達上人の御生前に日顕上人への御相承に関して聞かれているのである。
 これらの状況は何を物語るのであろうか。すなわち、日達上人が御生前において、血脈相承を日顕上人に御譲りになることを、それとなく宗内に周知するように心掛けられておられたことは事実であり、これは日達上人が宗内に対して、後継は日顕上人であることを暗黙裡に了解せしめ、御遷化後の宗内の異体同心の団結を計られたものと拝察できるのである。
 また日顕上人は、日達上人より後継のことについて、お話をお受けしたことは数回以上に及んでおり、ただそれらの中で特に法義の上からの正式な御相承をお受けしたのが昭和五十三年四月十五日であったと仰せられている。
 しかし、それではどうして、日達上人の御遺族との間に、貴殿らが疑義を呈するようなことが起こり得たのであろうか。実はこの折の日顕上人のお振る舞いには、当時としてのそれだけの深い理由がおありだったのである。
 それは昭和五十三年四月十五日、日達上人が日顕上人へ御相承遊ばされた当時、宗門は創価学会の五十二年謗法路線に対する活動家僧侶の学会攻撃檀徒活動により大揺れに揺れた時期であった。したがって宗内僧俗のバランスというものも非常に微妙なものがあったのである。正法正義を令法久住せしめるための一筋の正しい道を歩むためには、僅かのずれも許されない緊張の局面であり、日達上人におかれては、恐れ多いことながら薄氷を踏まれる思いで宗門を董しておられたことと拝察申し上げる。このような状況の中での御相承であるが故に、日達上人には諸種の状況を判断遊ばされ、公表されない形での御相承を遊ばされたものと拝されるのである。
 よって日顕上人猊下が御先師の御遷化に際し、遺族にあたる菅野慈雲師にそのような話を出された理由は、一歩間違えば、池田大作処分、創価学会破門という宗門にとっての重大局面を迎えるやも知れぬ時局であり、一年前の御相承が内付の形式であったこともあり、非常事態という特殊事情の中において、日達上人の御意志を、遺族の方々に確認するために質されたものと拝察し奉る次第である。
 ただし、貴殿らが言う、この時の菅野慈雲師の答え、「総監さん(日顕上人)じゃないんですか」との言は、実際に菅野慈雲師に確認したところ、「総監さん(日顕上人)と伺っていましたが」という趣旨で答えられたものであり、その場の御遺族一同もそのように考えておられたというものであった。以上のことからも、日達上人は日顕上人にのみ御相承されておられたことが明白であって、遺族の方々も、予て日達上人がお決めの通り、後継は日顕上人と認識しておられたのである。

 (3) 当日の時間帯について

 貴殿らは昭和五十三年四月十五日は日達上人の誕生日であり、スケジュールが過密で、日顕上人と二人きりの場などなかったと難癖をつけている。しかし当方は当日の日達上人のスケジュールは当然乍ら詳細に承知申し上げている。この日、日達上人と日顕上人がお会いになれた時間は優に一時間は存在しているのである。従って、この件に関する貴殿らの言い分もまったくいい加減という他ない。
 特にこの日は御講の日であり、関係者の記憶も喚起し易い日であった。実はこの日、当時、宗務院の書記であった楠美慈調師(現富士学林大学科事務局長)が大講堂三階の宗務院の東側端にあった印刷コピー室でコピー中に、偶々内事部玄関の方を眺めたところ(コピー機が置いてある位置から真正面が内事部玄関であった)、事務衣に小袈裟を着けられた日顕上人が、内事部玄関へお入りになるところを目撃したのである。通常宗務院へ登院なさる場合には、大講堂の方にある宗務院の入口を使われるが、内事部へお入りになったということは、後から宗務院の方へお見えになるのだろうと思っていたところ、その日は宗務院へはお見えにならなかったと証言されている。日顕上人(当時教学部長)が宗務院ではなく、内事部玄関へ、それも小袈裟を着けてお入りになられたということは、その目的はただ一つしかない。日達上人へのお目通りである。

 (4) 「奥番日誌」について

 次に貴殿らは大石寺大奥の「奥番日誌」を持ち出して、奥番日誌には貴殿の名前は見当たらない≠ネどというが、昭和五十三・四年当時に奥番であった早川検道師(現法貴寺御住職)と磯村如道師(現要行寺御住職)は、その頃「奥番日誌」は存在しなかったと明確に証言している。
 現存する「奥番日誌」は、昭和五十六年に日顕上人が常備を命ぜられた以降のものである。このことは、もし日達上人の代から「奥番日誌」が存在していれば、同じ奥番が日顕上人の代にも引き続き勤務していたのだから、当然、それ以前の日誌も含めて、「奥番日誌」は引き続き記録され、保管されている筈である。それが存在せず、当時の奥番を務めた両師が、明確にその存在を否定しているということは、「奥番日誌」は日顕上人の代になって以後、昭和五十六年から記録し始められたものなのである。
 したがって、奥番日誌には貴殿の名前は見当たらない≠煢スも、昭和五十三年の「奥番日誌」など、もともと存在しないのだから、見当たらないのは当然である。貴殿らの狡賢い誹謗のやり方には、まったく呆れて物が言えない。
 また先にも述べた件だが、当時日達上人のお側で長年奥番を勤めていた早川検道師は、現日顕上人の夫人が大奥へ御目通りに来られた時など、大奥の階段のところで、「後はあなたの旦那さんだからね」と言われていたのを何度も伺ったことがあると証言されているのである。

 (5) 河辺メモの件

 次いで貴殿らは昭和六十二年五月十八日の河辺メモを取り上げ、菅野慈雲師が「昭和五十三年四月十五日の件は知らない」と明言したと述べ、更に六十一年十月四日の河辺メモには、当時の御仲居・光久諦顕師(現妙縁寺御住職)が「四月十五日にしていいのですか。あの日は達師が忙しい日だが」と述べたとしている。
 ここで貴殿らに確認したい。この河辺メモなるものの信憑性は一体誰が証明しているのか。高解像度スキャナ取り込み、編集自在の当世のこと。「河辺メモ」とさえ言えば誰でも恐れ入ると思ったら大間違いである。まず第一は河辺師の直筆かどうかということ。第二に河辺師の記憶違いがないかどうかという点。第三は悪意は勿論、たとえ善意でも、本人の主観、他人の思惑が文章に入り込んでいないかどうかという点である。これらの確たる証明がなく、ただ「河辺メモ」にこうあるなどと言っても何の効力もないと言っておく。
 しかし、百歩譲って、仮に本物の内容だと仮定してみよう。その場合でも、菅野慈雲師が「昭和五十三年四月十五日の件は知らない」と述べたことは至極当然なのである。なぜなら日達上人は御生前、日顕上人に後を御譲りになることは表明されたが、御相承の具体的な日時については他の人には一切口外しておられなかったからである。それは菅野慈雲師も例外ではなかっただけのことであり、菅野慈雲師は先にも述べたごとく、日達上人の後継が日顕上人であることは内々御存じであったが、その御相承の日時までは御存じでなかったことに何の不思議もない。
 次に光久諦顕師の言については、当の光久師御本人に確認したところ、師はこの件についてはかなり明確に記憶しておられた。それは、御法主上人が「四月十五日」の御相承を仰せになられたことについて、「あの日は日達上人の御誕生日で、お忙しい日でしたですね」ということを申しあげたところ、御法主上人猊下は「そういう特別な日ということは私も記憶にある。だからこそはっきり覚えているので、心配しなくてもいいよ」と仰せられたとのことである。光久師は御仲居として、午後日達上人のお供をして東京へ出られたので、特に記憶していたことを申し上げたのだが、午前中についてはまったく記憶にないとのことであった。また「四月十五日にしていいのですか」などという疑念的ともとれる不遜な言い方は絶対にしていないと明確に否定しておられた。従ってこの件も、貴殿らの捏造か、河辺師自身の聞き違い、乃至は主観による偏向記述ということになる。
 河辺メモを直接調べた某師の話によると、「河辺メモ」には、同じ日付で内容の異なる場合が複数存在するとのことであり、その何れに信憑性があるのか明確でない。「河辺メモ」の記述自体が公開を想定したものでなく、第三者のチェックを経ていない個人的文書であり、精神的肉体的疲労による記憶違いという点からも、個人的な思い込みによる主観的脚色という面からも、「河辺メモ」の客観的信憑性には多々問題が存すると言わねばならない。

 (6) 日淳上人からの御相承の件

 貴殿らは、日達上人が後継者に御相承する場合、御自身が先師日淳上人から相承を受けた時の経緯に鑑み、周囲に明確にその意志を告げ、二人きりの場などでなく、公に相承の儀を行ったであろう≠ニ述べ、日達上人が、誰にも言わずに二人きりの場で相承することなど、到底考えられないと疑義を呈している。
 貴殿らの信心のなさ、頭の悪さは呆れるばかりである。本宗の御相承とは、そのような形式が重要なのではなく、授者と受者との信仰を根本とした領解こそが中心主体であることは、これまでに御法主上人猊下の御指南を始め、宗門の文書に明白ではないか。故に古来より、その時その時の状況に応じた様々な御相承の在り方が存在するのであり、かかる実際の在り方そのものが、本宗の御相承の真義を厳然と証明しているのである。御自身がそうだったから後の方にも必ずそのような形態にするに違いないなどの考えは、凡夫の浅智慧以外の何物でもない。事実日達上人は様々な当時の事情から、その様にはされなかったのである。
 また日達上人が相承をされたとすれば、日顕上人を能化にすべきであるにも拘らずそのような動きがまったくみられなかったのはおかしいとも難癖をつけている。しかし日達上人は日淳上人が御遷化遊ばされた四日後に、御自ら能化となられているのであり、その翌月管長に就任されている。この例からも明らかなように御先師の生前に能化になることが、御相承に当たっての要件とはならないのである。まして昭和五十三年四月十五日の日顕上人への御相承とは、内付に近い形であり、能化の件も含めて、その内密なる御相承の形式は、まったく貴殿らが疑難すべき事柄ではないのである。

 (7) 御相承に対するその他の誹謗

 また貴殿らは、工藤玄英、大橋正淳の両名が、東京・常泉寺において日顕上人からワシも日達上人に対抗して、仲間を募ろうと思うのだが…≠ネどとの日達上人への対抗意識丸出しの言を聞いたとして、本当に貴殿が日達上人から相承を受けていたなら、このような発言は絶対にできなかったはず≠ネどと誹謗し、また吉川幸道の名を挙げては、日顕上人が早瀬日慈さんあたりが受けているのではないかとも思ったが、待っていても何も言い出さないので、自分から登座した≠ニ明言したごとく述べさせているが、まったく呆れて物が言えない。工藤・大橋や吉川などは日顕上人憎しの最右翼の者共ではないか。そんな者の言葉を悪びれもせずに堂々と載せることは、すべて貴殿らお得意の、自分たちに都合のいいように加工した虚言であることを自ら語る愚行と言っておく。
 次に、再び昭和五十九年十二月七日の「河辺メモ」なるものを持ち出してきて、菅野慈雲師の言葉として、日達上人が次期総監を決定されるに際し、日顕上人に決定することを躊躇されていたので、未だ相承をされていないのかと思ったと証言した事実が記録されている≠ネどとし、既に御相承があったのなら昭和五十四年五月の総監決定を躊躇される必要はない筈であると疑難している。
 しかし、これもまた随分いい加減な話である。まず「河辺メモ」の内容自体が、先にも述べたごとく信用性が薄く、この件も菅野慈雲師から直接聞いた話かどうか疑わしい。むしろ第三者を介しての又聞きの可能性が高いのである。今回、直接菅野慈雲師にお伺いしたところ、果たして、そのようなことを河辺慈篤師に話した覚えはないとの回答を戴いた。
 次に「河辺メモ」中の言葉の信用性とは別に、仮に万々が一、阿部総監の就任について日達上人が躊躇なされた≠アとが一時的にあったとしても、それが日顕上人への御相承を否定する根拠とは少しもならない。それは宗門において、総監の職は次期法主へ就任するための座では決してないからである。むしろ総監に就任しても御法主にはなられなかった方のほうがずっと多いのである。創価学会と活動僧侶との対立など、様々なむずかしい問題を抱え、その矢面に立つ多忙な総監職について、他の方を任命する可能性を一時お考えになられた上で、やはり日顕上人以外に適任者はいないとして、総監に任命された状況があったといえよう。しかし現実には総監に任命されたことからも、その件の「河辺メモ」の存在は疑わしく、まして菅野慈雲師がハッキリ否定していることにおいて、問題にならぬ言い掛かりである。

 (8) 山崎正友氏の発言について

 日顕上人の御相承を否定するためには、ありとあらゆる利用出来そうなものに飛びつく貴殿らが、次に選んだのが山崎正友氏の発言と言われるものである。
 たしかに氏は当初、創価学会顧問弁護士として池田大作から信用され、飛ぶ鳥をも落とす勢いであった。顕正会との裁判などを通して、日達上人からも御信任いただき、正信会問題では宗門と創価学会の間に立って活動したが、日達上人の御遷化に伴い、余りに裏の事情を知りすぎた氏が創価学会からうとまれたためか、種々軋轢が生じ、いつしか氏は正信会側に立つようになった。その時に氏が、御法主日顕上人猊下の血脈相承に関して疑義を呈したのが、所謂『週刊文春』(昭和五十五年十一月二十日号)事件である。
 御先師日達上人から御当代日顕上人への血脈相承に疑義ありとの『週刊文春』の記事は、宗内僧俗にかなりの衝撃を与えた。すなわち当時、宗務院の活動停止命令に背き、武道館で檀徒大会を開催し、創価学会攻撃の手を一向に緩めようとしなかった正信会の僧侶達は、宗門からの正式な処分を逃れ、寺院に居すわる方途を模索していた。そして寺院を不当に占拠し続けるためには、処分権者の地位の不存在を理由に争うしか方途がないことを見つけた彼らにとって、山崎氏の記事は、正信会が大謗法の管長訴訟へと突入してゆくための進軍ラッパともいうべき働きをしたことは事実である。
 但し、氏は、その後、正信会の信心が、日達上人に対する不信誹謗など、根本的なところで狂っていると感じ、正信会と離れ、創価学会との裁判を経て、平成六年中頃からの、妙観講講頭大草氏との縁により、現在は日蓮正宗理境坊信徒となっているのである。そこで今回、氏と面談し、忌憚なく、貴殿らの挙げた内容につき事実関係を質した。
 そこで、まず始めに、貴殿ら創価学会と離脱僧は、塚本某著『私は山崎正友を詐欺罪から救った』中に、山崎正友氏の発言として、「日顕(上人)は、宗門ではナンバー7なんだ。日達上人の娘婿が菅野といって国立にいるが、これが跡目だった。日顕(上人)は悪いやつで、日達上人から相承もないのに相承があったと言い張って法主になってしまいやがった。俺は日達上人が死ぬまぎわまでそばについていたから、日顕(上人)なんかに相承されなかったことはわかっている。日達上人は日顕(上人)を全然信用していなかった」との文があることを取り上げている。
 しかるにこの書を著した塚本という人物は、平成五年から六年にかけて、約半年間、山崎氏の会社シーホースに接触してきた男であり、同書中の内容は、社会的にも山崎氏として放置できない性質のものであるため、去る七月十六日付けで塚本氏に対する損害賠償の訴状を提出し、横浜地方裁判所は同十七日、これを受理したとのことであった。その訴状には、塚本被告が創価学会副会長の福島啓充弁護士と共謀して同書を出版した経緯が明記されており、山崎氏は創価学会側にも今後断固とした措置をとると明言している。
 このように山崎氏と塚本被告とは仕事上の、それもわずか三ヵ月程の付き合いであり、山崎氏によれば、塚本氏は、その著書中に述べられているような宗門関係の事柄を理解できる相手ではなく、またそういった宗門関係の事柄に関して一切話したことはなかったと証言しているのである。
 また次に貴殿らは、山崎氏が平成七年二月十六日付『慧妙』において、『私が御相承≠拝信するに至るまで』と題する手記を寄稿し、昭和五十五年の『週刊文春』における御相承否定の発言を撤回し、
「信者の立場で御相承≠云々したことは、甚だ僣越なことであり、深く反省し、お詫び申し上げる次第である」
と自らの所業を総括し、謝罪を表明したことを取り上げ、この謝罪は表向きで、実は金儲けが目的だったとし、当時、大石寺の墓苑建設の話が山崎のところに舞い込み、金に困っていた山崎は、「自分が血脈相承を認める代わりに、条件として日顕(上人)から墓苑建設のお墨付きをもらおう」とはしゃいでいた、などと述べている。
 これについても山崎氏は、まったくのデマである。日達上人の代に本山で富士山に墓園を造る計画が進行したが、そのとき、池田大作が本山へ乗り込み、日達上人に富士桜墓園は創価学会が造成し本山に御供養するということで話をつけてしまった。しかしその後、池田大作は私に富士桜は本山には渡さない、学会のものにすると言い、そのようになった。申し訳けないので本山の墓園として、逗子、葉山、本山近辺の土地を探したこともある。そのようなことで、私には富士桜墓園を造った経験があり、誰にでもできることではないので、過去にも某富士宮市長後援者の一人である地主に協力を要請されたこともあった。そんな中で、私の知り合いのある男が、私に無断で、「山崎正友事務所」という肩書の名刺を作り、大石寺周辺を徘徊して回ったことがある。私はまったく関知していないことなので、本人に「大変迷惑だから止めてくれ」と言って止めさせた。離脱僧らはその辺のことを書いたものであろう≠ニのことであった。事実、総本山には山崎氏から墓地の話などまったく無く、また山崎氏がそのような思惑を懐くような状況は、総本山側においても皆無であることからも、貴殿らの話がまったく荒唐無稽であることが証明される。
 そして貴殿らは、正信会の浜中和道の「回想録」なるものの抜粋を掲載し、日顕上人の血脈相承否定に更に躍起となっている。平成三年一月、山崎が「阿部がオレに謝ってきた」「オレにひれ伏した」と自慢げに浜中に電話し、その際、日顕上人が「頼むから、オレに血脈相承があったことを認めてくれ」と泣きついたと語った≠ネどというものである。この件に関しても山崎氏に確認したところ、当然ながら御法主上人からそのような御自ら血脈相承を否定するような内容の御電話がある筈もなく、また浜中に対してそのような下品な発言を行ったことも一切ないとのことであった。
 貴殿ら池田創価学会と離脱僧は、数々の疑難について、貴殿はダンマリを決め込んでいるが、この際、是非とも明快なる答えを公表していただきたい≠ネどと大見得を切り、更には、当方の「破折書」や「通告書」は負け惜しみと強がりのみの墓穴であり、とんだ薮蛇≠セと揶揄している。
 しかし事実はまったく逆である。これまで論じたごとく、貴殿ら創価学会と離脱僧が持ち出した疑難につき、詳細に検証すればするほど、あらゆる点で、貴殿らの虚偽と誣言が明白となり、貴殿らの挙げた疑難は悉く粉砕されているのである。よってとんだ藪蛇だったのはむしろ貴殿ら池田創価学会と離脱僧の方であったと告げておく。

 (9) 裁判に関するごまかしの見解について

 次に貴殿らは、寺院明け渡し請求訴訟において、日顕上人猊下の血脈相承を否定する主張を行った結果、裁判では、この主張が全面的に認められ、本年最高裁で、名古屋・妙道寺、岩手・常説寺、神奈川・大経寺と、三件連続して日蓮正宗の訴えが却下された。この法廷の場でも相承を受けた証拠を提出できなかった≠ネどと誹謗している。
 ところが、この最高裁の判決は、「血脈相承」は宗教上の事項であり、有るとか無いとかの判断は裁判に馴染まないとして却下されたもので、それは日顕上人猊下が宗教法人日蓮正宗の代表役員として二十年の長きに亘り、一宗を統率遊ばされている社会的な厳然たる立場をまったく無視した不当判決ではあるが、裁判所が血脈相承を否定する見解によって判定したのではない。
 即ち貴殿らの言はごまかしであり、創価学会側の勝利≠ネどと言える状況ではまったくないことは、貴殿ら自身がよく承知していることではないか。つまり、これら妙道寺、常説寺、大経寺は、最高裁不当判決のお陰で、今すぐに住職が立ち退くことは何とか免れた。しかし、これらの寺院に居すわっている離脱僧らは皆六十歳以上であり、その死去と同時に、寺院は直ちに日蓮正宗に返還しなければならないからである。
 また貴殿らは東京地裁の下田裁判長の下した不当判決を挙げて御法主上人猊下を誹謗しているが、御法主上人が御自ら証明されたクロウ事件裁判の不当判決の所以について、いずれからも抗議があったとは聞いていない。まして東京高裁における今回の和解条件として、クロウ事件に関して、今後、一切報道をしないと約束する一方、日蓮正宗側がクロウ夫人が言うような事件は一切無かったと否定することは許されているのである。この事実こそ、御法主日顕上人猊下の無実を「雄弁に証明」していることを知るべきである。普通の意識をもった宗門人なら、クロウ事件が事実無根であったことは今日までの経過で熟知していることであり、事実無根は未来永劫の歴史に刻まれることであろう。

 (10) 日達上人への誹謗について

 次に貴殿らは、日達上人が誰にも血脈相承をされなかったと言うことは日達上人への誹謗に当たる≠ニ当方が述べたことに対し、勝手に他人の家に不法侵入しておきながら、見つかるや、家主に代わって留守を守っていたなどというに等しい、盗人猛々しい居直りの論にすぎない≠ニの頓珍漢なわけの分からぬ屁理屈を並べている。しかしその言わんとするところを反訳すれば、日顕上人は日達上人を誹謗しているから、その日顕上人側から創価学会・離脱僧は日達上人を誹謗≠ネどとは言われたくない、との意味であろう。
 貴殿らはその根拠として次に何点かを挙げている。ところが、その悉くが筋違いの妄言であるのでまず指摘しておく。
 前述の通り、工藤玄英と大橋正淳の言などはまったく話にならない。
 次に昭和五十三年二月七日の「河辺メモ」に、「猊下(日達上人)は話にならない」との言が記録されているとして、日達上人を限りなく誹謗≠オてきたのは日顕上人であるとしている。この件については、先に光久諦顕師の言に関する「河辺メモ」、菅野慈雲師の言に関する「河辺メモ」につき、二人の御本人にお伺いしたところ、当該事項の不存在、乃至は意味の取り違えがあったことは前述した。このように、「河辺メモ」の信憑性については多分に疑問が存するのである。したがって、この「猊下は話にならない」とのメモが、仮に河辺師の直筆であったとしても、それは河辺師の頭脳というフィルターにかけられた後の言葉であり、先程の例と同様、事実とは相違する可能性が高いと言わねばならない。
 この件に関しては、平成十一年八月十六日の『大白法』に、河辺慈篤師御本人の「証言」が掲載されている。その中で河辺師は、(前略)私はこれまで、種々メモを残しておりますが、その方法は、見聞した事柄につき、後に回顧して書いたものが多く、その際、私の性格として、自分の主観に強くこだわり、その趣旨で書き記す傾向があります。(中略)事実とは異なる不適切なメモが外部に流出致し、(中略)云々≠ニ、宗内へのお詫びと共に、メモの性格について、このように自ら証言しているのである。
 昭和五十三年当時の宗門は、創価学会と活動家僧侶とのせめぎあいの真っ只中にあった。特に創価学会も活動家僧侶も完全な面従腹背の状態であり、裏では日達上人を小馬鹿にし、誹謗する状況であり、そのような実体の創価学会と活動家僧侶の両方を、今後、宗門として正しく導かれる上での日達上人の御苦労につき日顕上人が話されたことが、河辺慈篤師の個人的主観を交えてメモとなったというのが真実であろう。
 従って、このような状況の時代に書かれた「河辺メモ」をもって、日顕上人が日達上人を限りなく誹謗≠オたなどとは言い掛かりも甚だしいものである。あの北条報告書で北条浩に、
「猊下の話は大へんひどいものでした。之が猊下かと疑うほど、また信心そのものを疑いたくなるほどひどいものでした」
「先生が前々から見抜いておられた本質がさらけ出されたように思います」
「かねて先生の仰言っておられた通り、私たち到底想像することの出来ない、みにくい姿であります」
と、日達上人を限り無く誹謗させ、その報告を得々と、満足げに聞いていたのはどこの誰だ、即ち池田大作ではないかと言っておく。
 次に貴殿らは、日顕上人が、正本堂・大客殿・大化城・六壺・総坊前の桜など、日達上人の事跡を悉く葬り去ったとし、先師否定の権化であるとして日顕上人を誹謗している。
 これに関しては、先の貴殿らに対する我ら邪義破折班の『離脱僧らの邪難を粉砕す』の八十三頁に、かかる事態に立ち至った理由が詳しく述べてある。およそ仏法を学んだ者なら、世の中の一切が因縁の上に生起することは知っていよう。日顕上人が好き好んでこれらのことを為される筈も、また出来よう筈もないのである。創価学会の謗法に対応する中で自然の間に現在の総本山の姿となったことは、まさしく御仏智であり、宗祖大聖人、二祖日興上人の御命であることは宗内の僧俗一同等しく領解奉るところなのである。
 また御先師日達上人におかれては、かつて山崎正友氏に対して、「このままでは霊山に行って先師方に合わせる顔がない。どうか学会を糾すことに山崎さん、力を貸して下さい」と仰せられたという。そのような御気持ちの日達上人であられれば、霊山より今日の創価学会の大謗法の姿、そして総本山の姿を御照覧遊ばされ、必ずや日顕上人を称讃遊ばされると、深く深く感ずるものである。何故なら、代々の御法主上人には創価学会が邪推するような名聞名利の自我は金輪際おありにならず、ただただ宗開両祖の御心に叶い奉る広宣流布・令法久住を念ずる崇高な御境界にあられるが故である。
 その意味から、御先師日達上人におかれては、御自身の全責任において血脈を御相承遊ばされた日顕上人が、正しく仏法を護持興隆遊ばされ、日蓮正宗から邪教創価学会の毒気を払拭し、総本山を霊山浄土そのままに浄化荘厳なされ、宗旨建立七百五十年にあたり、法華講三十万総登山と奉安堂建立をもって、末法広宣流布の礎たる法礎を建立せられ、未来世界広布を目指して宗門が僧俗一致の大前進を開始せんとしていることは、そのすべてが、日達上人御一身に具わり給う御徳でもあることを、心からお喜び遊ばされることは大地を指すがごとくと拝するものである。
 それに対し、昭和五十四年、御遷化に先立ち、日達上人より賜った大慈大悲の御指南に背き、再び三宝破壊の大謗法を行った貴殿ら池田創価学会と離脱僧を、日達上人には決してお許し遊ばされないであろう。貴殿らが日顕上人への血脈相承を否定することは勿論のこと、去る平成二年以来の仏法反逆の振る舞い自体が、五十二年路線の懺悔を反故にする日達上人への限り無い誹謗に当たると、厳重に戒告するものである。
 以上、述べてきたとおり、貴殿らの言の悉くは道理に背く誣言であり、御法主日顕上人猊下が御先師日達上人より厳然たる御相承をお受け遊ばされ、その上から一宗を正しく嚮導あそばされてきたことは、疑う余地のない明々白々たる事実なのである。
 貴殿らは血脈相承の立証責任は日顕上人にあるなどと嘯いているが、立証などということは単なる世法のそれも裁判上の用語にすぎない。仏法の世界は師弟相対であり、師匠にまします日顕上人猊下から、血脈相承についての厳たる御指南を賜ればそれに信伏随従し奉ることが、本宗の信心なのである。
 すなわち、「何時から」とか、大奥の「どの部屋で」とか、相承の儀式は「どのように」行われたのか、などという下司の勘繰りをもって、清浄なる御相承の儀を冒涜せんとする謗法者の不信の疑難に付き合うべき筋道は全くありえない。何故なら、柄の無い所に柄をすげて疑難する貴殿らのような不信の者共には、仮に真実を答えたとしても、必ず「信じられない」との難癖が返ってくることは明白だからである。