二、大謗法の創価学会流「血脈論」

 次に、ここで貴殿ら創価学会と離脱僧は、珍奇な創価学会流「血脈論」とでも言うべき邪義を展開している。かかる邪論を恥ずかしげもなく述べて、恬として恥じないところに貴殿らの救いがたい迷妄があるのだ。
 この貴殿らの邪難は、かの五十二年路線の折に、創価学会が裏で作成した『宗門への質問状』の蒸し返しにすぎない。創価学会は教義逸脱に対する宗門の指摘に対し、『教学上の基本問題について』として一応の反省を示したが、その実、裏では、貴殿らが、今回の邪難に使用してきた内容を「質問状」として用意し、宗門への邪難材料として保存してきたのである。その全ては信心の欠如から生ずる不当な疑難というほかはない。

 (1) 血脈断絶の言こそ許されざる謗法行為

 ここで貴殿らは、当方の日達上人から日顕上人への御相承がなかったとすれば、宗祖大聖人、日興上人以来正系宗門七百年の血脈相承が、日達上人の代に断絶したことになる。日顕上人詐称法主論を真っ向から振りかざしつつ、日蓮大聖人以来の正統の血脈相伝がどのようにして存続することが可能なのか。堂々と開陳してみよ≠ニの詰問に対し、日達上人から日顕上人への御相承など無くとも、「宗門伝統の七百年の血脈相承」は断絶しないなどと珍無類の邪義を開陳し、かと思えば宗門七百年の歴史は、「血脈断絶の歴史」だったと誹謗している。創価学会の血脈観は、邪説「血脈ワープ論」であったことがここに明白となったのである。
 まず貴殿らは「預かり相承」を挙げ邪難の最初としている。その第一は総本山第五十七世日正上人より同第五十八世日柱上人への御相承についてであり、貴殿らは日正上人より日柱上人への相承が円満な形で行われず、在家二名を介した「預かり相承」という異常な形でなされたとして、総本山第五十九世日亨上人の「日正師が特別の相承を預けたと云う者より其内容を聞き取りし事は」云々。との「告白」文をその証拠として掲げ、「唯授一人金口嫡々」の血脈相承がそこで途絶えたと邪難している。
 この邪難も貴殿らの悪意か捏造か、まったく筋違いなものである。即ち日亨上人の「告白」中の文は、貴殿らが邪難するような、日正上人が在家二名に相承を預け、日柱上人がその者から聞き取った≠ニいうような事では全くないではないか。それは貴殿ら得意の切り文による解釈であり、その後に続く「上求菩提の精神に合うや」の文を繋げて読めばそんな意味でないことが理解できよう。
 事実、この日正上人から日柱上人への厳然たる御相承を証明するものが、総本山第六十六世日達上人の御証言である。日達上人は日正上人のお弟子であられ、この日正・日柱両上人の御相承の場に立ち会われたのである。その当事者でなければ語れぬ詳細な状況の中には、当時大阪に居られた日柱上人が、確かに中弥兵衛と牧野梅太郎という二名の在家と共に、日正上人のおられた興津へ呼ばれたこと。夜中の十二時より、日正上人から日柱上人へ一時間余り御相承の儀があったこと。その間、日達上人等のお弟子の所化や在家の中氏等は家の回りを警護したことなどを明確に証言されているのである。(達全二―六―一二五)
 この日達上人の御証言により、貴殿らの主張は全くの虚偽の邪難であることが明白となるのである。
 更に貴殿らは日亨上人の御著述中に、第十五世日昌上人と第十六世日就上人の御相承に際し、日就上人の登山が日昌上人の御遷化に間に合わず、理境坊日義が御相承を預かって日就上人に渡されたことを、「法水雍塞の形ありと云はゞ云へる」(大日蓮大正一二年四月号一六)と述べられている文を取り上げ、宗史上、明らかに二度、部外者の「預り」という形によって、法主から法主への唯授一人、直授相承の系譜が「断絶」したことを、五十九世・堀上人自らが認められている≠ネどと邪難している。
 しかし、この邪難は、貴殿らがあれ程信順を表明している日亨上人への重大な裏切りと云わねばならない。それは貴殿らが切り文により、日亨上人の真意を正しく伝えていないからである。すなわち、この後の文において、日亨上人は、「が、相承の内容に立ち入りて見るとき、(中略)就師のやうな場合でも、血脈断絶法水雍塞の不都合は無い訳である。(中略)此は局外者の抽象的の議論である。直に宗門教権の大事を批判すべき標準にはせぬが宜い」(同)と述べられ、最終的に血脈相承は断絶していないと結論付けられているからである。
 その不都合の無い意味を御当代日顕上人猊下は、金口は日頃面会の機会に直接相承せられ、金紙については当時の交通事情の上から、御遷化に万一間に合わず、第三者が預かる形があっても、その意義の上からは何も問題ではないと御指南せられるところである。(大日蓮五六〇―三七)
 また更に日亨上人は、血脈相承をこのように形式の上から論ずることは、信仰の無い者が客観的議論として為すところのものであり、信仰の上においては血脈の大事を軽々に批判すべきではないことも戒められているのである。
 貴殿らは常々、日寛上人や日亨上人を特に尊重しながら、自分たちに都合の悪い御指南は無視する。結局は貴殿らには本宗の師弟相対に則り、日寛上人や日亨上人に信伏随従し奉る信心はなく、すべてを切り文して創価学会のために利用するだけではないかと呵しておく。

 (2) 血脈法水に対する筋違いな批判

 次に貴殿ら創価学会と離脱僧は、本宗の相伝書が房州関係の写本によっており、大石寺蔵の相伝書が散逸したとみられる。本山の化儀に変更がある≠ネどといい、大石寺東坊地事件、総本山第九世日有上人の時代の大石寺の売却事件などを挙げつらい、法灯連綿、法水瀉瓶されているなら、なぜこのような不祥事が起こるのかと疑難している。
 相伝書の原本のうちで過去に大石寺から散逸した分が存することは確かに残念なことである。ただし、相伝書には大事な御法門が認められてはいるけれども、血脈法水そのものではない。全ての相伝書が写本によって現存はしているのであり、相伝書原本の散逸と、大石寺における血脈相承の存否とを同一に論ずることは大なる誤りである。
 また化儀については時代に応じた少々の変更は当然のことである。さらに大石寺東坊地に関する日道上人と日郷師との争いは不幸な事件ではあり宗勢の上からは残念な時代であったが、それにより本宗の血脈法水が左右されたわけではない。
 また大石寺売却の件も、非常にセンセーショナルに聞こえるが、たまたま日有上人が全国へ遊化なされている間に突発的に起こった事件であり、日亨上人は当時の領地移動などと絡んだ利権上の問題に巻き込まれたのであろうとされ、何れにせよ、日有上人御帰山と同時に解決したことは、偶々思いがけず奇禍に遭ったようなものに過ぎないのである。
 すなわちここで貴殿らが論じた事柄は、皆大石寺門流の不幸な出来事ではあるが、唯授一人の血脈相承を否定するものでは決してない。それを貴殿らは、敢えて血脈法水否定の材料として利用せんとする。まったく見下げ果てた性根というほかはない。

 (3) 若年の御法主に対する不信心極まる誹謗

 さらに貴殿らは、総本山第十三世日院上人をはじめ、十代で血脈を受けた、いわゆる「稚児貫首」と呼ばれる歴代上人が四人いる≠ニして、様々な時代背景を考慮しても、「法主」の無謬性、絶対性は成立しない≠ニ述べ、血脈相承を否定せんとしている。
 この貴殿らの主張も、本来まったくおかしな話である。日蓮正宗で何時、誰が、「法主」の無謬性、絶対性などを主張したというのか。むしろ法主と雖も凡夫であり、そこに思い違いもあれば、ちょっとした間違いもあり得ることは、代々の御法主上人も御当代日顕上人猊下も常々御指南のことである。完全無欠などということは誰も述べていない。貴殿らの勝手な決めつけにすぎないと言っておく。
 これらの若年貫主の方々が、たとえ御歳は十代とは言え、その信仰においては老年僧の遠く及ばぬ確信をお持ちであられたであろうことは、想像に難くない。そしてまた若年貫主の方々が宗門を董される場合には、当然乍ら、これを補佐する立場の老僧がおられたのであり、貴殿らも少しは先に挙げた宗門の書籍に目を通し勉強するがよかろう。
 すなわち日蓮正宗の血脈相承には、法体の相承と法門の相承とがあり、法体相承は、『御本尊七箇相承』の、
  「代代の聖人悉く日蓮なりと申す意なり」(聖典三七九)
との御聖意からも明らかなごとく、年齢、学解等に関係なく、法体相承を受けられたその御内証には日蓮大聖人の御生命が直ちに宿られるのである。不信心な貴殿らにはその不思議が信じられないところから様々な疑念が生じてしまうのである。「我即法界・法界即日蓮」「事の一念三千」の甚深の義を深く信解すべきである。
 次に法門相承とは、『本因妙抄』に、
  「此の血脈並びに本尊の大事は日蓮嫡々座主伝法の書、塔中相承の禀承唯授一人の血脈なり」(御書一六八四)
と仰せのごとく、総じての法門相承の中においても、特に法体の血脈に関する御法門、御本尊に関する御法門については、唯授一人に相承せられるのであり、これが所謂、通常血脈相承と拝称せられる御相承である。この御相承において、所謂金口と金紙と称せられる両種の御相承が存するが、その在り方については、貴殿らが邪難するような若年の御法主の場合と、またあらゆる下種仏法の法義を極められたお方とでは、御相承の形や在り方に自ずから相違があり、そこに歴史上、様々な在り方が存した所以があることは先に述べたごとくである。貴殿らが若年貫主と邪難する御法主上人に、法体相承、法門相承いずれの上からも何の不都合もないことを信解すべしと呵しておく。

 (4) 要法寺出身の御法主上人についての誹謗

 次に貴殿らは、大石寺第十五世日昌上人から第二十三世日啓上人までの九代にわたる約百年間は、京都要法寺出身の法主が続いたことにより、様々な悪影響があった≠ニ難じている。それはたしかに一面を見ればそのように言われるべき事柄も存したが、次項でも述べるごとく、最終的には御仏智とこれらの方々の自浄の信心により、その欠点もすべて浄化されたのである。他方、これらの貫主の方々により大石寺が大いに興隆したことはまぎれもない事実である。すなわち、江戸における常在寺の建立、常泉寺の教化改宗等の教線の拡大、総本山における御影堂の建立、続いて二天門、梵鐘、総門等の境内整備、更には細草檀林の設立と興学など、これらの貫主の方々、わけても日精上人の代における宗勢の発展には目を見張るものがあったのである。
 貴殿らが宗門中興の祖として特に称讃する、総本山第九世日有上人御遷化の文明十四年(一四八二)より、第二十六世日寛上人御登座の享保三年(一七一八)までの二百三十六年間は一瞬に過ぎ去った訳ではない。大聖人が『四恩抄』に僧の恩を仰せのごとく、その間の十七代の御法主上人によって、厳然と大石寺に法が伝えられたのである。その中の九代が貴殿らが誹謗する要法寺出身の御法主上人であるが、この方々について御法主上人猊下は『創価学会の仏法破壊の邪難を粉砕す』において、
「九代のうち、実に七代の方々が、若い学衆のうちに大石寺に登り、本宗の僧侶として当家の法義を修学されているのであり、そこに血脈法水への絶対の信が確立していることは明らかであります。つまり、大石寺門家の正しく、かつ、有り難いところは、血脈相承を中心とし、背骨とする信条・化儀が、一時の表面上の在り方とは別に一貫していることです。そこに一時的現象とは異なる、清純・不濁の正道がいかなるものにも汚されず、一貫・不断に存在する。それこそ、創価学会が不信・否定する、唯授一人の血脈相承の不思議な法体なのです」(同書六三)
と御指南せられている。この御指南のとおり、九代の要法寺出身の御法主上人方は結局のところ、清浄なる富士の法義を確立せられたのであり、更に申せば、この九代の間に確固たる宗門発展の基も築かれたのである。その中で、常在寺における日精上人の御説法聴聞の縁により、日寛上人の御出家もあられたのである。貴殿らは、要法寺出身の九代の御法主上人、わけても日精上人がおられなければ、日寛上人の御出家の縁もなかったことを、因縁の上に深く信解すべきである。そしてまた、日有・日寛両上人の間の時代における、十七代の御法主上人方には、当然のことながら、別け隔てなく、その御内証に日蓮大聖人の御命が宿り給うことは言うまでもない。それが先に挙げた、日顕上人御指南の「唯授一人の血脈相承の不思議な法体」であり、『御本尊七箇之相承』の「代代の聖人悉く日蓮なりと申す意なり」の御文こそが、その証明である。貴殿ら創価学会や離脱僧が底下不信の一闡提の分際で、あの猊下はよい、この猊下は悪いなどと偉そうに評論すること自体、分を弁えぬ極大謗法であると呵すものである。

 (5) 日精上人に対する事実誤認の大謗法

 貴殿らは、日精上人が、要法寺広蔵院日辰の影響を受け、釈迦像造立、法華経一部読誦などの謗法を犯した法主である≠ニ誹謗している。
 この日精上人に関する問題は、従来、宗史上の不可思議な出来事と捉えられていたため、貴殿ら創価学会と離脱僧は信心の撹乱をねらってしつこく悪用してきた。今回の誹謗の内容もこれまでと同轍の悪質なものである。「日精上人は要法寺流の造仏・読誦の思想を持っておられた」とする見解は、古くは第三十一世日因上人にあられる。日亨上人はこの見解を踏襲され、『富士宗学要集』等で日精上人の記述に対し評論を加えられているのである。日精上人には敬台院等の大旦那が帰依しており、これらの方々の教導のため『随宜論』という造仏擁護の著述が存した。この書の真意は単なる造仏擁護ではなく、当時の状況に応じた止むを得ざる一往擁護、再往制止なのであるが、一見、造仏擁護に見えることは否めない。よって日精上人の記述は要法寺流の化儀に傾いているとの印象を懐かれた日因上人・日亨上人が、『日蓮聖人年譜』等の日精上人の著述には注意を要することを慮られて、後代のために論評を加えられたのである。
 しかしここには多分に誤解が含まれており、実際には日精上人の御化導は摂受的な部分は存するものの、基本的に当家の正義を逸脱することはなく、前項でも述べたごとく、むしろ困難な状況の中で、宗門のあらゆる面を復興に導かれた御方であられたのである。
 つまり「日精上人に誤りはなかった」のであり、御当代日顕上人猊下はこのことを明らかにされたのである。要は日因上人や日亨上人が、日精上人の『日蓮聖人年譜』等の記述に誤解を含まれたにすぎないのである。
 その誤解とは、要法寺の造読家の寿円日仁の『百六対見記』における、常在寺、常泉寺等の仏像を撤廃されたのは、日俊上人であるとの記述や、更に『随宜論』を御覧になり、日精上人には後々まで造仏思想が存したと思い込まれたことにある。
 ただし、帰伏寺院である常泉寺では暫くは仏像があったかもしれないが、それは日精上人の造立ではないこと、御登座以後の日精上人には、造仏思想は一切見られず、逆に、当家の別体三宝式を明確に表明した総本山客殿の宗祖大聖人、二祖日興上人の御影を造立されたのは日精上人であられ、これは宗祖日蓮大聖人を、久遠元初の御本仏と信解されていた証拠であること、また敬台院に対する厳しい、仏像廃棄の指導からも、御登座後の日精上人が厳しく富士の化儀に則られた御化導をなされたことが明確に拝されるのである。以上のことは、すでに時局協議会、総本山在勤非教師有志の創価学会破折文書においても明確に論じたところである。
 なお御法主日顕上人猊下は、『創価学会の仏法破壊の邪難を粉砕す』の中で、日寛上人の『文底秘沈抄』の、
「而して後、法を日目に付し、日目亦日道に付す、今に至るまで四百余年の間一器の水を一器に移すが如く清浄の法水断絶せしむる事無し」(六巻抄六五)
との仰せを引かれている。これは創価学会の日目上人以後の血脈相承への疑いを破折するために挙げられたものである。貴殿らが尊い御法主上人と信伏随従する日寛上人の御指南に、このように明白に御自身まで清浄に血脈法水が相承せられていることを仰せなのである。ならばこの日寛上人の仰せをそのまま信ずべきではないのか。それともこの文は、日寛上人の誤りだというのか。
 要するに貴殿らはこの仰せを拝し、素直に自らの誤りを認めるべきである。そして、日精上人を始め、日寛上人までの全ての御法主上人に対し奉り、血脈相承を誹謗したことを深くお詫び申し上げ、今後一切、そのような誹謗をしないと、堅く懺悔すべきであると思うがどうか。

 (6) 日正上人・日開上人に対する不知恩の誹謗

 次に貴殿らは総本山五十七世日正上人に対し、大正十一年十月十三日、「立正大師」号が天皇より宣下となった際東京・築地の水交社において、日蓮宗管長・磯野日筵の導師で他門の管長ら六人と共に読経・唱題に及んだ≠ニ誹謗し、また、総本山六十世日開上人に対しては、昭和六年、「立正」の勅額降賜にあたり、身延山久遠寺への下賜に反対しなかったことは大聖人の御廟が身延にあることを認めたこと≠ニ非難している。
 しかるに、この立正大師号の問題については、御先師日達上人が次のように述懐せられている。
「大正十一年の秋の頃と思うが、日蓮大聖人に大師号が宣下になるという問題が起きた。勿論、身延あたりの策動であったのだろう、文部省から日蓮門下各派へ、大師号を下賜するから門下連合して頂戴に来るようにとの通達があった。其の頃上人(※日開上人)は宗務院総務であったから急遽登院して宗会を招集せられ、その仕儀を協議せられたのである。私はそれを聞いて(中略)大師だとか、菩薩などの称号は要らない(中略)ということを書いて建白書として宗務院宛上人に送った。(中略)『お前の云う事はよくわかっておる、しかし今の宗門は非常に小さくて力が無いのである、今文部省に抵抗してもどうにもならない、もう暫時待って宗門を大きくしてからでなければどうにもならない、もう少し辛抱しなさい』と諭された」(日開上人第二十五回遠忌記念 序・達全一―五―七二〇)
 この日達上人のお言葉に明白なように、日蓮正宗僧俗であれば、当然のことながら、御本仏に対し奉る大師号の下賜を懇望したり、勅額降賜を喜ぶわけがないのである。まして謗法の身延と連合しての運動などに反対なのは当然のことである。日達上人は日正上人のお弟子であられたが、常泉寺の在勤所化として、同寺住職であり、且つ宗務院総務であられた日開上人宛に本宗僧侶としての率直な心情を綴った建白書を送られたのであろう。
 しかるに当時、御当職の日正上人におかれても、御本心はまったく同様のお気持ちであられたことは想像に難くない。それは日正上人の御代に、日蓮宗富士派から単身日蓮正宗へと宗名公称を果たされたことからも分かるように、日正上人は大変に豪胆な性格であられたからである。大師号下賜に賛同することが日正上人の御本意でないことは言うまでもないが、日達上人も証言されるように、宗会を招集し、当時既に存した日蓮宗統合問題など、様々な時局問題のしがらみの中で、宗内の意見も充分に徴されたうえで、宗門として、止むを得ず賛同をお決めになられたのである。けっして日正上人お一人の御責任などと言える状況ではない。
 また、日達上人は日開上人について、
「上人は資性篤実で謹厳至誠の方で、法主上人の命はただ之れ畏み従うという人であった」(達全一―五―七一九)
とお述べである。すなわち日開上人の代における勅額下賜賛否の件も、そのような重大な案件を御一人で勝手に決められるものではない。当然、御隠尊の日亨上人からも御指南を戴き、且つ宗内の意見も徴されたであろうことは、長年宗務院総務を務められた日開上人としては当然のことである。
 要は、日正上人、日開上人だけが、極悪法主であるかのように喧伝する創価学会の誹謗は、当時の宗門の実情をまったく無視した大謗法の言というほかはないのである。
 その証拠としては、かつて創価学会の『大白蓮華』には『五十七世阿部日正上人の御臨終』と題する創価学会草創の幹部、辻武寿の稿が掲載されている。そこには、
「(日正上人の)ご臨終の御相は、常日頃の説法に寸分違わず、色あくまで白く、半眼半口にして誠に安祥たる御姿であられた。(中略)一宗のはせ参じたすべての人々が異口同音に、『さすがは正師』と、その立派な臨終に感嘆しないものはなかった」(大白蓮華五六―一七)
と日正上人の御徳を真心から賛嘆していたことがあげられる。それが、いつから大謗法の法主に変わったのであろうか。
 また日達上人は、日開上人の御臨終につき、
「上人は七十一歳で蓮葉庵にて御遷化になられた。七日間坐棺して居間に安置せられてあったが、柔和な顔、端正な目鼻立ちは少しも形を変えず、実に仏身の相貌を私共に示された如くであった」(達全一―五―七二〇)
とお述べである。
 このように日正・日開両上人には、御高徳なる臨終の相をお示し遊ばされたのであって、貴殿らの大謗法の法主などの邪難こそ誠に不知恩の大謗法であり、舌爛口中の厳罰を被ることは必至であると言っておく。

 (7) 日恭上人に対する誹謗こそ不知恩の極み

 更には貴殿ら創価学会と離脱僧は、総本山第六十二世日恭上人に謗法行為があったとして、御書の御文の削除、御観念文の変更、伊勢神宮遥拝、神札問題、戦争協力%凾挙げている。
 これら貴殿らの言い分の中には、事実とは異なる誤解も多分にある。貴殿らは、総じて戦争中の様々な在り方は、令法久住のためであったとの宗門の説明を批判し、宗祖大聖人の鎌倉幕府の弾圧、竜の口の法難等におけるお振る舞いに照らして、宗門の言い分には仏法上の道理がなく大謗法であると非難している。そして総本山大坊の焼失と、その火災における日恭上人の御臨終は、今まで宗門を守るために露骨な表現は控えてきたが、実は仏罰であるなどと非道極まる誹謗をなしているのである。
 まず御書の件とは、昭和十六年八月、及び九月に、宗務院より御書全集(※準備中のもの)の刊行禁止と、それに代わり祖書要典を使用する件、また祖文纂要中の十四書につき、部分的に字句の使用を控えるよう通達を行った件である。
 これらのうち、御書全集の刊行禁止については、宗務院通達中の「上老会議ノ協議ヲ経テ参議会ニ諮問ノ上左記の条項決定候」の文に注目しなければならない。すなわち、昭和十六年の時点においては、宗門には、五十九世日亨上人、六十世日開上人、六十一世日隆上人の三御隠尊猊下がおられた。まして御書全集刊行禁止など御書の件に関しては、日亨上人が学匠として権威をお持ちであり、当然、当局の命令を受け、かかる決定を御裁可なされたものと拝される。また祖文纂要中の御書要文十四箇所についての文字削除についても、時局を鑑みた止むを得ざる決定であり、祖文纂要を再編纂する形をもって、当局の文字削除命令に応えるという、苦肉の策が拝せられるのである。これとても御隠尊並びに御当職日恭上人をはじめ、上老会議・参議会等、当時の宗門中枢の方々の決定であり、また、この具体的な文の削除に関する指導決定は日亨上人がなされたのである。従って、これらの決定の一切の責任を、御当職の日恭上人お一人に押しつけるのは、当時の事情を弁えない痴言である。
 次に御観念文の改変とは、時局に鑑み、初座より五座までの観念文を簡略化した件であり、更に伊勢神宮遥拝とは、昭和十七年十月、文部省より「神嘗祭當日神宮遙拝に関する件」との通牒が全宗教団体・全国の各種学校・各種団体宛てに発せられ、本宗に対しても管長宛てに通達され、これを承けた通達を宗務院より宗内教師等に発した件である。
 この御観念文の改変や昭和十七年十月の神宮遙拝に関する文部省の通牒については、その以前から、宗門と政府軍部との折衝があったことと無関係には論じられない。当時の日本は軍国化の真っ只中にあり、昭和十五年施行の宗教団体法に基づき、殊に軍国主義的色彩の強かった日蓮各門下において、強力に合同政策が押し進められていたのである。これに対し、日蓮正宗においては昭和十六年三月十日、僧俗護法会議を開催し、身延派など日蓮宗との合同は、これを断固拒否したのである。かかる状況に鑑み、徒らに他の瑣末な事項をもって当局を刺激し、身延派との合同の強制執行などという事態に至ることだけは何としても避けなければならない状況があった。そこにこれらの通牒などを敢えて拒否しなかった理由が存する。
 また次に貴殿らは、日蓮正宗に大謗法の神札問題があったというが、宗門にはそのような記録は全く存在していない。ただし、戦時中、大石寺の書院が国家に徴用され、「中部勤労訓練所」とされたとき、その責任者らが、床の間に神札を祀ったことがあった。しかし、それは徴用した国家側が行ったことで、大石寺として祀ったわけではない。
 また神札に関するもう一つの件は、貴殿ら創価学会側の機関紙誌、『聖教新聞』と『大白蓮華』に掲載された記事中の渡辺慈海師から神札に関する申し渡しがあったとする件である。すなわち昭和十八年六月初旬、牧口氏、戸田氏ら創価学会幹部が命により登山すると、御当職日恭上人、御隠尊日亨上人同席の場で、内事部長渡辺慈海師から「神札をくばってきたならば、一応受け取っておくように」との申し渡しがあったとするものである。
 この件についての御先師日達上人の追憶によれば、当時神札絡みで日蓮宗各派に呼出しがあり、その時に出席したのが堀米師(後の日淳上人)で、結局その折の宗門の結論としては、
「宗門としても神札を祀るなんてことはできないからね、一応うけるだけうけ取って、住職の部屋のすみにでも置いておこうという話になったわけです」(『宗門夜話』聖教新聞三七〇―八・達全一―五―六四六)
と仰せのようになったのである。
 このようにこの件は当然渡辺慈海師の一存ではない。御同席の御当職日恭上人、御隠尊堀日亨上人両猊下はもとより、堀米師(日淳上人)をはじめ当時の宗門中枢の考えとしては、軍国主義体制の厳重な信教統制の中での神札配布という異常な事態に際して、不本意ながらもこれに従うということは確かに謗法には当たる。しかし、これを断固拒否した場合、それが藪蛇となって、身延との合同という、大聖人の下種仏法の根本たる血脈法水の断絶という重大事態を招く恐れがあり、それだけは何としても避けなければならないとの結論に達し、貴殿らの機関誌に掲載されている創価学会幹部の総本山への登山という状況が生じたのである。
 しかるに貴殿らは、このような宗門の方針に対し、宗門は戦争に協力した∞宗門は軍部の権力を恐れ迎合した≠ニ誹謗し、剰え日恭上人の御臨終はその戦争協力の謗法によって受けた罰であると口汚く罵っている。
 それでは貴殿らに詰問する。当時は宗教団体法施行により、日蓮宗合同政策が強力に進んでいた。もし日蓮正宗が神札拒否、一切の通牒拒否という出方をした場合、軍部の反発と弾圧は必至であり、日蓮宗との併合の強制執行はほぼ確実であった。万一そのような事態になり、大石寺は日蓮宗身延派の末寺となり、赤や紫の袈裟・衣をつけた僧侶が大挙入り込んで、塔中を闊歩し、清浄な血脈法水が断絶した方が良かったというのか。この是非を回答せよ。神札を受け取る謗法と、日蓮正宗が日蓮宗身延派に吸収され血脈法水が途絶える極大謗法との是非得失に迷い、あくまでも神札を拒否すべきであったというのなら、貴殿ら創価学会と離脱僧は、正しい思慮分別を持たぬ大うつけ者であると断定する。
 また貴殿らの初代会長、牧口常三郎氏がこの件に関して、宗門の対応を「何を恐れて居るのか知らん」と言ったなどという記事があったように思う。まさか本当に牧口氏がそのように述べたとは思わぬが、万一、そうだとすれば、牧口氏の認識不足も甚だしいと言わねばならない。大聖人の仏法の令法久住は死んでしまってはけっして実現はできない。牧口氏の死身弘法の実践は尊い。しかし、日蓮正宗には末法万年令法久住のために、何が何でも、生き抜いて正しく強く清浄に守り通さなければならない根本の大事がある。それが血脈の法体なのだ。
 次にまた、このような「神札問題」を始めとして、戦時中における教義上の重大問題の決定に当たっては、日恭上人お一人で為し得るものではない。当時の宗門内で、学匠として、また御隠尊猊下として厳然と控えておられた日亨上人、更に宗門の中枢におられた堀米師(日淳上人)等が、そのような宗門の方針をお決めになられた大きな力と責任を有しておられたことは言うまでもない。だからこそ「神札問題」に関する貴殿らの登山の折に、渡辺慈海師一人ではなく、日恭上人と日亨上人も、態々立ち会っておられるのである。
 貴殿らの言い分からすれば、日亨上人と堀米師(日淳上人)も、このような重大問題に関する連帯責任の上からは、謗法ということになるがどうか。それともこのお二方だけは、創価学会を理解した功績があるので、特別に謗法がなかったことにしておくとでもいうのか、またお二方が謗法かどうかを決定するそんな権限が貴殿ら創価学会にあるのか、絶対にあり得ないと反駁しておく。
 従って、貴殿ら創価学会と離脱僧が、この猊下は謗法、この猊下は謗法でないなどと、裁判官気取りで勝手な判定を下すほど不逞不遜なことはなく、まして、これらの戦時中の宗門の対応を謗法とし、その原因がひとり日恭上人にのみあるとし、その御臨終までを悪しざまに罵ることは、仏法上の誹謗の罪は当然のことながら、実に冷酷にして無慙な所業であると呵しておく。
 日恭上人の御最期は確かに、明治維新における廃仏棄釈以来の神道中心の国家的謗法行為と、その結果としての戦争の世紀を総括される一切の責任を負われた崇高なお振る舞いであられたことは、その従容たる覚悟のお姿によって明白である。特に、日恭上人の御遷化後、僅か二カ月も経たぬ八月、広島、長崎に原爆が投下され、数十万の人々の猛火による犠牲をもって戦争が終結し、国家神道の謗法が終焉すると同時に、平和憲法による信教の自由の時代を迎えたのである。この仏法上の重大なる意義と日恭上人の御遷化とはけっして無関係ではあられないと固く信ずるものである。
 これまでの時局協議会や総本山在勤非教師有志からの破折で貴殿らも承知している筈だが、戦時中、創価教育学会や牧口・戸田両会長が、軍部からの弾圧を受けた反面、その活動、言動には戦争翼賛の性格がかなり見られることを、創価教育学会の顧問に、野間口海軍大将を招請した件なども含め、様々な資料を挙げて指摘してある。戸田城聖氏が会員に宛てた『通諜』中には、皇祖天照大神等への武運長久の戦勝祈願を行う指令や、皇大神宮の御札に不敬のないようになど、貴殿らが宗門を謗法と誹謗する行為を指導しているではないか。創価学会がすることなら、これらのことも謗法ではないとして容認するのか、これについても頬っ被りせずに返答すべきである。
 いかに言い訳をしようと、創価学会は日蓮正宗七百年の伝統の上に、日蓮大聖人の御法に帰依することができたのであり、更に宗教法人を取得するにあたっては、宗門の大きな理解と包容により、許可を戴いた筈である。その大恩を仇で返す忘恩鬼畜の所業とは、まさに貴殿ら創価学会と離脱僧であると断じておく。

 (8) 近世御歴代上人への許されぬ誹謗

 更に貴殿らは、総本山第五十三世日盛上人、同第五十五世日布上人、同第六十世日開上人などを口汚く罵り、「唯授一人の血脈相承」を誹謗している。
 その中で、第五十三世日盛上人については、相承もせず失踪≠ネどと誹謗している。しかし、日盛上人が大石寺を退出なされた後は、再度御登座遊ばされた日英上人、日霑上人の両上人が後を承けられ、血脈法水を厳然と護られたのであり、貴殿らの血脈断絶の邪難はまったく当たらない。
 また第五十五世日布上人については、御開扉に関して、謗法の者に御開扉を許可したことが怪しからぬとする邪難である。
 しかし、日寛上人は『文底秘沈抄』に、
「大石の寺は御堂と云い墓所と云い日目之れを管領せよ等云云。既に戒壇の本尊を伝うるが故に御堂と云い」(六巻抄六五)
と仰せになり、日有上人は『化儀抄』に、
「法華宗の御堂なんどへ他宗他門の人参詣して散供参らせ花を捧ぐる事有り之れを制すべからず」(聖典九九三)
と仰せである。これらの御先師の御指南の上からも、日布上人がその時の人士に対し、化導の結縁を慮られて、特別に御開扉をお許しになられたとしても、それは御法主上人の権限であり、何の問題もないのである。
 次に貴殿らは第六十世日開上人に対しては、総本山第五十八世日柱上人を孤立させ、数の力を頼んで猊座から引きずり下ろした。この「柱師下ろし」には第六十一世日隆上人、第六十四世日昇上人も進んで加担している≠ネどと誹謗している。
 この貴殿らの誹謗は全くの捏造であると呵すものである。日開上人が数を頼んで日柱上人を猊座から引きずり下ろしたなどと実しやかに誹謗しているが、一体その根拠は何処にあるのか。そんな証拠はどこにも全く存在しないではないか。先にも日達上人の追憶を掲げたが、もし万一そのような振る舞いを日開上人がされたとすれば、如何に常泉寺に在勤して日開上人にお世話になったとはいえ、あの剛毅な日達上人が「(日開)上人は資性篤実で謹厳至誠の方」などと事実と異なる追憶の言葉を述べられるであろうか。
 この件に関して、日顕上人猊下は、去る平成四年の教師講習会における御指南の中で、「例えば、皆さん方の総意で私に退座を求めたとします。(中略)仮に皆さんが、退座すべしとの決議をしたならば、私は沈思して考えます。つまり、それが宗門にとって、また、御法のために必要であるならば、私は自らの意志で退座することもありうるということであります。しかし、それが御法のためにならないと判断した場合には絶対に退座致しません」(大日蓮五六〇―四四)
と御指南遊ばされ、日興上人の『二十六箇条』の、
「衆議たりと雖も、仏法に相違有らば貫首之を摧くべき事」(御書一八八五)
との御文を引かれた上で、日柱上人の場合には、
「衆議が色々と出て、それを日柱上人が深くお考えあそばされた上で、ここは私が退いたほうが御法のためになるとの、自らの深い御思慮の上からの決断であったと拝するのであります」(大日蓮五六〇―四五)
と仰せである。貴殿らの誹謗の根拠は当時の報道記事などであろうが、御法主上人猊下の甚深の御胸中は貴殿ら凡下の者の想像を遙かに越えた崇高な御境界であられるのだ。
 たとえ御法主上人猊下であられたとしても、凡夫の御立場であられる以上、様々な因縁はおありになる、それについて、後の日隆上人や日昇上人が御一考を戴く意味で、決議に参加されていたとしても、何の問題もない。そんな道理の分からぬ者は大馬鹿者というほかはない。
 日蓮正宗の宗内は、貴殿ら創価学会や離脱僧のような三毒強盛の悪業の衆生が住む怨念の渦巻く名聞名利の世界ではない。大聖人様、日興上人様の常住の御仏智に照らされた誠に清浄な信心の世界なのだ。故に日柱上人も一度、御退座が決まれば、粛然と日亨上人に御相承を遊ばされたのである。貴殿らは日顕上人憎しの怨念から、高潔な日開上人までも誹謗する。その罪は誠に大きいと呵しておく。

 (9) 大謗法の創価学会流「血脈ワープ論」

 貴殿ら創価学会と離脱僧は、ここで再び、「七百年の正統血脈の断絶」は主張していない、ただし法主から法主への「法灯連綿」は否定する≠ニいう、大謗法の血脈ワープ論を展開している。即ち貴殿らは、日有・日寛上人が「中興の祖」と仰がれるのは、これらの先師方が、衰退・堕落した宗門を再生・復興させたからであるとして、戸田会長の次の言葉を引いている。「大聖人のご教義は、深淵にして、厳博であって、愚侶の伝えうべきことではないのに、賢聖時に応じてご出現あらせられ、なんら損するなく、なんら加うるなく、今日まで清純に、そのままに伝えられたということは、(中略)実に偉大なる功績ではないか」そして貴殿らはこの戸田氏の言を、七百年の宗門史は「愚侶」による伝持であったが、「賢聖」が「時に応じて」出現したがゆえに、大聖人の正法正義が今日まで清純に伝えられたとの意味である≠ニ故意に曲解し、宗門七百年の史実は「血脈断続」の歴史だとして、少年法主、破戒法主、いい加減法主、謗法法主、無責任法主、軍国主義法主、凡庸法主など様々な「愚侶」の法主が出たと、まさに言いたい放題の侮蔑の言葉をもって御歴代上人を誹毀讒謗している。また貴殿らは、興・目・有・寛師の御事跡の偉大さは誰人も否定できない≠ニし、日興上人、日目上人の行躰を鏡とし、日寛上人根本の教学を立て、日亨・日淳上人の御業績に学ぶことが血脈仏法の正道であり、創価学会こそ正道の信心なりと自慢の悪見を述べている。
 ここで貴殿らに申しておく、貴殿らは、まるで戸田会長が血脈ワープ論を唱えていたかのような言い方をしているが、それは全くの誣言である。何故ならば戸田氏は、七百年の宗門史は「愚侶」による伝持≠ネどとは一言も述べていないからである。
「七百年間、チリもつけず、敵にもわたさず、みなみな一同、代々不惜身命の心がけで」(戸田城聖全集一―四四)
と、丑寅勤行をはじめ、代々の御法主上人の七百年に及ぶ弛まざる化儀を賛嘆しているのである。けっして特別な御法主上人だけを賛嘆したものではない。
 ましてや「愚侶の伝えうべきことではない」ところの大聖人の教義が、七百年後の今日まで清純に伝えられて来たことは、勿論、日有上人や日寛上人などの賢聖時に応じてご出現あらせられ≠スお陰ではあるが、七百年という長い間、絶やすことなく、大聖人の御法と教義を清純に伝えることができたのは、貴殿らが賢聖と称する方々以外の、中間の御法主上人猊下が愚侶ではあられなかった証拠ではないか。もし仮に三人か、四人の僅かな賢聖の御法主上人だけが御出現せられても、他の御法主上人が全て愚侶ならば、どうして七百年もの間、御法と教義を清純に伝えることができよう。それが清浄に日蓮正宗に仏法が伝持されていることこそ、血脈法水が清らかに流れている証拠なのであり、代々の御法主上人が愚侶などであられない厳然たる証拠なのだ。だからこそ戸田氏は日蓮正宗の僧侶の大功績と題して賛嘆しているのである。貴殿らが言うような血脈ワープ論などは、大謗法の己義邪見であると呵すものである。
 ここで一つ教えておこう。貴殿らが賢聖の御法主上人と尊敬する日亨上人と日淳上人は次のように説かれている。まず日亨上人は『化儀抄註解』に、
「此仏と云ふも此菩薩と云ふも(中略)末法出現宗祖日蓮大聖の本体なり、猶一層端的に之を云へば・宗祖開山已来血脈相承の法主是れなり、是即血脈の直系なり」(富要一―一一七)
と述べられ、また日淳上人は初転法輪の御説法において、日蓮大聖人・日興上人・日目上人の御相伝をのべられたあと、
「我が日蓮正宗は、この相承の家にありまして、この大聖人の尊い教を七百年の間一糸乱れず今日に伝へて居る次第でございまする」(淳全上一九四)
と、七百年間の正統血脈を一糸乱れぬ相伝と明らかにお述べである。貴殿らの、法主から法主への「法灯連綿」によって正法正義が伝えられてきたというのはまったくの幻想である≠ニの説は、この日亨上人・日淳上人の御教示に真っ向から背くものである。貴殿らはたしかこのお二方を「賢聖」の御法主上人としていた筈ではないか。「賢聖」の御法主上人の御指南に背いてよいのか。はっきり貴殿らの主張との矛盾を答えるべきである。
 また貴殿らのかかる血脈相承に対する誹謗は、煩を厭わず再度挙げれば、左の日寛上人の、
「而して後、法を日目に付し、日目亦日道に付す、今に至るまで四百余年の間一器の水を一器に移すが如く清浄の法水断絶せしむる事無し」(六巻抄六五)
との仰せにも背くものであり、また当然ながら日有上人の『化儀抄』における、
「手継の師匠の所は三世の諸仏高祖已来代代上人のもぬけられたる故に」(聖典九七四)との血脈法水に基づく師弟相対の御指南にも背くものであることは当然である。
 要するに貴殿らは、日有上人・日寛上人・日亨上人・日淳上人を「賢聖」などと持ち上げておきながら、その御指南には、少しも信伏随従していないのである。まさに御先師日達上人に対して面従腹背していた時と全く同じ、悪逆極まりない体質であると指摘しておく。

 (10) ニセ本尊の創価学会は、広宣流布もニセ広布

 さて貴殿らはこの項の最後に、広宣流布が創価学会によって進展しているなどという勘違い、幻惑も甚だしい贅言を並べている。だがこのような貴殿らの詭弁を打ち破るのは、ただ一言、日達上人の、
「日蓮正宗の教義でないものが一閻浮提に広がっても、それは広宣流布とは言えない」(達全二―六―二九五)
のお言葉だけでよい。貴殿らの百・千の妄言も一瞬に吹き飛んでしまうのだ。
 日蓮大聖人宗旨建立以来、七百五十年の長きに亘り、富士の麓に正法を厳護し来った日蓮正宗を壊滅せんとする、極悪の仏敵こそ貴殿ら池田創価学会と離脱僧である。
 貴殿らはその邪論において、『生死一大事血脈抄』の、
「信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり」(御書五一五)
の文を引き、「信心の血脈」が根本であり、『化儀抄』の、
  「信と云い血脈と云い法水と云う事は同じ事なり」(聖典九七七)
の仰せと、日亨上人の『註解』の、
「信心と血脈と法水とは要するに同じ事になるなり」(富要一―一七六)
との仰せを挙げ、更に日顕上人猊下の、
「血脈相承とは、信心の血脈がその基をなす」(顕全一―一―三四〇)
「日蓮日興唯授一人の相伝血脈は、その信心において万人に通ずる」(顕全一―一―三四八)
との御指南を悪用し、だからこそ、我々は「血脈の真義」が大御本尊と御本仏大聖人への「信心」であると了解している≠ニ嘯いている。
 この言は一見、正論に見える。しかしながら、もし一般大衆による、大御本尊と御本仏大聖人への「信心」だけが血脈の真義だというならば、それは御相承書の、
「日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり」(御書一六七五)
「血脈次第日蓮日興」(同)
の御相伝の意義を無視するものであり、更には、
「代々の聖人悉く日蓮なりと申す意なり」(聖典三七九)
の御相伝や、日寛上人の『三宝抄』の、
「問う、三宝に勝劣有りや。答う、此れ須く分別すべし、若し内体に約さば実に是れ体一なり。(中略)一器の水を一器に瀉すが故に師弟亦体一なり、故に三宝一体也」(歴全四―三九二)
との御指南にも背くものとなる。
 要は「法体の血脈」を根本とした上での僧俗異体同心の信心の血脈こそが、成仏の叶う生死一大事の血脈であると貴殿らに教えておく。要するに貴殿らは日蓮正宗の代々の御法主上人猊下に伝わる御本尊の甚深の法体相承が信解できず、怨嫉しているのである。この仏法の根本への不信と怨嫉の故に、恐れ気もなく、ニセ本尊などの製作販売ができるのだ。
 貴殿らは「創価学会の邪義、毒気を宗門から一掃でき、僧俗一致の真の広宣流布への体制が構築できた本年、宗旨建立七百五十年こそ、まさに法礎建立の年だ」との歓びの声が、宗内に充ち満ちていることを知らないのか。
 貴殿らは日興門流の正統血脈は、いまや世界中のSGIメンバーによって伝持流布されている≠ネどと大見得を切っているが、ただ数を競うだけなら、キリスト教徒やイスラム教徒の方がずっと多い。人数の多寡で正義が決まるのではないことは宗教上の正義判定のイロハである。
 宗旨建立七百五十年の本年、我が日蓮正宗は、SGIと創価学会の恐怖のしがらみから逃れた真の仏子と、日蓮大聖人の尊い仏法に縁を結んだ全世界の地涌の友により、大歓喜の中に、末法広宣流布の礎たる法礎建立の年を迎え、いよいよ真の広宣流布へ大前進する態勢であることを告げておく。
 貴殿らSGIメンバーや創価学会員の悪質な悪口と迫害など物ともせず、率先垂範される御法主日顕上人猊下に信伏随従し奉り、日蓮大聖人への御報恩のため、全世界の一切衆生救済に向けて戦っている法華講員こそは、大聖人の御金言のままの真実の「賢王」である。御本仏大聖人、二祖日興上人をはじめ、御歴代上人におかれては、血脈仏法の正義の陣列に集い、広宣流布へ向け希望の出発を果たさんとする日蓮正宗僧俗の晴れ姿を、霊山より御照覧遊ばされ、心の底からお慶びのことと確信する。