十一、「夢根本」は創価学会の言いがかり
最後に、貴殿ら創価学会と離脱僧は、我ら邪義破折班の「大聖人は決して夢に具わる仏法上の意義を否定などされてはいない」「我々の生命は意識・無意識を問わず一念三千の当体であり、夢もまた法界の一分である」との回答に対し、日蓮大聖人が、歴代先師が、いつ、どこで「夢に具わる仏法上の意義」を根本にされたというのか≠ネどと、トンチンカンな反論を構えてきた。
我ら「邪義破折班」が、いつ、どこで、日蓮大聖人が「夢に具わる仏法上の意義」を根本にされた≠ネどと述べたか。まともに日本語も解せない、低レベルな貴殿ら創価学会と離脱僧に再度説明しておく。我らが夢の件を持ち出したのは、御法主日顕上人猊下が正月の元旦に、三十年以上前にお止めになったタバコを吸われる夢を二十六年目にご覧になり、絶えて久しい奇夢といい、大事な宗旨建立七百五十年の年の元旦という時期といい、命の奥深くに存する煩悩の頑固さを思い知らされたことと共に、深く心身を慎むべき心境をお話しされたことがあったので、その話をされたことに関して、何も問題はないという意味から、御書における種々の夢の御指南を枚挙したまでである。
日蓮大聖人が夢を根本にされたなどとは、一言も申していない。また貴殿らに申しておくことがある。それは貴殿らの第一回目の邪難中に、唱題中の寝ぼけた「夢」をもとにして「立宗二回説」なる妄説を唱え出した≠ニの言がある。これについては前回の『邪難を粉砕す』においても、「夢の話と三月の法要の理由を一緒にしているのは、誣言も甚だしい」「三月宗旨建立の件は夢の話とは全く関係がない」とはっきり申したように、貴殿らの言は、事実を曲げる虚言なのである。御法主上人猊下には、一月の二十八日の唱題行の中で、何故三月と四月の宗旨建立が共に二十八日と伝えられているかについてお考えになられていたところ、唱題中に二十八日という日こそ、『清澄寺大衆中』の御文よりして、虚空蔵菩薩への祈念と深い関係があることを、御本尊より不思議な心感として賜ったと仰せられたのである。夢をご覧になったなどとは一言も仰せでない。夢とは、正月元旦に、タバコを吸われた夢をご覧になった件であり、二十八日の唱題行中の「三月宗旨建立の件」とは全く関係がないことを、改めて告げておく。
したがって、当方が言いたかったことは、御法主上人猊下がタバコを吸う夢をご覧になって、御自身で煩悩というものは無くなったようで深いところに存しているものだと感じられたと仰せになられたことは、夢もそのような煩悩の存在を示すという意味で、法界の働きの一分であると指摘したまでである。「宗旨建立三月二十八日」の心感とはまったく別個の話であることを告げておく。
貴殿らはおよそ貴殿らが長々と列示した御書中の夢の故事は、経論を根本に一念三千の深義を体得された大聖人が、世間一般の夢にも一分の意義が認められることを示されたまでである。諸法実相に約せば、仏法は実相、夢は諸法の一分であり、仏法を根本に夢を判ずることは許されても、夢を根本に仏法を判ずることは本末顛倒なるがゆえに断じて許されない≠ニ論じている。当たり前のことを偉そうに述べる必要はない。当方は夢を根本に仏法を判ずるべきである≠ネどとは一言も述べていない。貴殿らが勝手に、元旦のタバコの夢の話と、二十八日の唱題行中の心感の話とを、故意か錯覚か知らぬが、混同させているだけのことである。
しかるに貴殿ら創価学会と離脱僧は、大聖人の御真筆という確たる「経」によらず、また歴代先師の「論」が圧倒的に立宗四月説をとることも無視した。そのうえで自身の寝ぼけた唱題中の夢の「感得」を根本に経論を解釈し、立宗三月説を強弁したのである。これまさしく、夢を根本に仏法の正邪を判じた慈覚と同轍の謗法行為ではないか≠ニ誹謗している。
何回言ってもわからない者たちだ。貴殿らはここでも御真筆偏重の誤りを述べている。また次に歴代先師の「論」と言うが、その歴代先師の根本は久遠元初の僧宝にまします日興上人であられることを忘れたのか。御法主日顕上人猊下には、宗旨建立七百五十年の大佳節に当たり、仏宝にまします御本仏日蓮大聖人の『清澄寺大衆中』の御金言と、僧宝にまします日興上人の「宗旨建立三月二十八日」の説を尊重されたまでである。その三宝尊重の大報恩行を悪口罵詈するとは、貴殿らは何とも怪しからぬ仏宝僧宝軽視の謗法者達である。さらに、寝ぼけた唱題中の夢の「感得」とは何たる言い草か。何度も日顕上人の三月宗旨建立と夢の話とは事実において全く関係がないと言っているではないか。
更に貴殿らは『総勘文抄』を引いて夢についての贅言を述べている。貴殿らが得々と話す程度のことは、我らには全て分かっている。それよりも貴殿らの不幸は、貴殿ら自身が、九界の生死海の中で、三悪道の虚夢中へ深く沈んでいることであると告げておく。