05〔相承〕
「日常の間に相承が一回ないし数回にわたって行われる」とはいかなる相承!?≠フ痴言(ちげん)を呵責す

「日達上人が突然、御遷化あそばされました。しかし御生前中、大講堂でのお話のなかで私は今、学会との問題で実に苦心しているが、それをきちんとして次の人に渡すんだ≠ニいう意味のことをおっしゃいましたが、それを憶えている人がここにいる人のなかにもあるはずです。また、そういうお言葉が有る、無しにかかわらず、唯授一人の血脈を受けた方は大聖人の仏法を万代に伝えるための、先程も申した『血脈の次第 日蓮日興』の唯授一人の相伝のうえからの仏法の伝承というものを絶対に行っていかなければならないということ、これは自分自身の問題ではなく、大聖人に対し、御戒壇様に対し、乃至末法の一切衆生に対して絶対に行わなければならない、法主としての大事なことなのであります。したがって、これは当然、行われております。(中略)
 そこで私が申し上げたいことは、一番の根本をまず信じて、そこのところに仏法の在り方が確立するならば、それは絶対に御仏智においてなくなるはずがない、ということであります。もしもなくなったならば、大聖人は仏様ではないということであり、末法の一切衆生を成仏させることはできないということになるのであります」(昭和57年3月31日・第3回非教師指導会)
日達上人が「次の人に渡すんだ」と大講堂でおっしゃったというのだが、それが何故日顕師になるのだろうか。 近年の〈六十四世日昇上人から六十五世日淳上人へ〉〈日淳上人から六十六世日達上人へ〉という相承の儀式はその当時『大日蓮』にも詳報されているように「いつ、どこで、どなたへ」相承が行われるかを公表している。その後は行われた事実を明確に宗内の万人に周知徹底したのである。
なかでも、日淳上人から日達上人への相承は日淳上人の遷化直前のこととて、略式とはいえ古式に則って警護の役僧を配し屏風を立てた中で授受が行われるという厳格さであった。それほど厳格な相承を受けた日達上人が、しかも緊急やむを得ない事情もないのに、たった二人の場でこっそりと相承などするわけがないのだ。
「法主としての大事なことなのであります。したがって、これは当然、行われております」といくら強弁しても、証明する人は誰もいない。さらに、
「私は間違いなく日達上人よりお受けいたしております」といって、はいそうですか、それではと闇雲に従うというのは、かえって宗開三祖(宗祖・日蓮大聖人、開祖・日興上人、三祖・日目上人)のお心に背くことになる。「たった二人で」などと言うにいたってはなおさら。そんなデタラメが、この日蓮門下中、唯一正当を標榜する宗門で通るようなことでは困るのである。
そこで正信会は敢えて疑義を申し立てたのである。しかし、予想どおり何の返答もなく疑惑は解明されずウヤムヤにされたまま、こんにちに至っている。
相承は基本的には、周知徹底して儀式の形態で行われること。それができなかった時は宗制宗規によって次期管長法主を選定すること。それで充分である。そのことによって、阿部師の言うように仏法がなくなったり、宗祖が仏様でなくなってしまうことなど全くあり得ない。
報恩抄の大慈悲をなんと拝するか!
「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外未来までもながるべし。日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり」と仰せの宗祖の御金言ある故に、この仏法は末法万年尽未来際まで衆生を利益すること間違いがないのは当然で、そこに信をとっていくのが末弟すべての者の態度であろう。
 また、
「日常の間に相承が一回ないし数回にわたって行われる場合もあります。この者に相承すると決めておれば、その者が法要等で本山に登山した折に触れて、あるいは特別に呼ばれて、『この点についてはこのように心掛けておきなさい、この法門についてはこのように考えなければならない』というようにお話になる場合もあります」(平成4年8月28日・全国教師講習会)
などという発言に至っては、何かの諸注意ではあるまいし、相承が一回から数回にわたって行われたり、法要のついでに行われたりするような、そんな日常の中で行われるようなものではない。言い訳をすればするほど泥の深みにはまっていくのは実際に阿部師が相承など受けていないからである。

 貴殿らの痴言を長々と掲げたが、これを読んだ人は、貴殿らの余りに邪悪で手前勝手な言い分に心の汚される嫌な思いを禁じ得まい。それは日達上人より日顕上人への御相承の儀式が、衆人の目に触れる在り方ではなかったことを奇貨として、日顕上人への御相承はなかったと唱えた邪説が、実は仏祖三宝の所有である寺院を、自分らの生活の場として占拠したいための言い訳に過ぎないからである。
すなわち、日顕上人御登座の当初、貴殿ら自称正信会の者どもに、血脈相承について異議を差し挟む者は誰一人いなかったではないか。ところが宗内での自らの立場・都合が悪くなるに従って、この妄説を唱えだしたのである。貴殿らが唱える御相承否定の邪言は次のような内容である。すなわち、相承は基本的には、周知徹底して儀式の形態で行われること。それができなかった時は宗制宗規によって次期管長法主を選定すること。たった二人の場でこっそりと相承などするわけがない。日常の間に相承が一回ないし数回にわたって行われるようなものではない=i取意)というものである。
日達上人の御密葬御通夜(昭和五十四年七月二十二日)の席上、当時の椎名法英重役(現平安寺住職椎名日澄能化)は挨拶の中で、
「昨年(昭和五十三年)四月十五日、総本山大奥において猊下と、自分と、二人きりの場において、猊下より自分に対し内々に、御相承の儀に関するお言葉があり、これについての甚深の御法門の御指南を賜ったことを御披露する」(大日蓮四〇三‐六〇)
という、緊急重役会議における日顕上人の御相承に関する御発言を紹介し、重大発表をされた。この発表は、日達上人より日顕上人への御相承は内付であることを示されたものである。
しかし貴殿らは、御相承が基本的には、周知徹底して儀式の形態で行われる≠ネどという邪見を述べているが、日昇上人から日淳上人、日淳上人から日達上人への御相承のように、たとえ儀式の形で執り行われたとしても、その本義は唯授一人の秘伝なのであり、何人たりとも御相承の授受に関与することはできないのである。故に、ある時代のある形式による儀式を必ずしも伴わない内付(内々での付嘱)という在り方も当然拝せられる。
まず大聖人から日興上人への御付嘱を拝してみると、二箇相承に限っても、二度にわたって行われており、法体相承および法門相承が数回にわたって行われたことは各相伝書によって明らかである。
また日興上人から日目上人への御付嘱は、正式なお譲りは正慶元年十一月十日の『日興跡条々事』であるが、実にその四十二年前の正応三年十月十三日、大石寺建立の翌日に、日興上人は日目上人へ法を内付されている。 さらに、日目上人から日道上人への御付嘱は、日目上人が天奏に旅立たれる前の正慶二年十月になされたが、日目上人は貫首としてのお立場で天奏に赴かれたので、これも内付であられた。このように、直ちに御相承を明かされるか内付にされるかは、その時の状況次第であり、それをお決めになるのは御相承をお授けになる御法主上人の権能であられ、余人の容喙すべきことではない。
貴殿らは、厳格な相承を受けた日達上人が、しかも緊急やむを得ない事情もないのに、たった二人の場でこっそりと相承などするわけがないのだ≠ニ言い張るが、部外者である自称正信会の者に口を挟む権限など微塵もない、大きなお世話である。
貴殿らの卑劣さと莫迦さ加減を表す言葉が次の、はいそうですか、それではと闇雲に従うというのは、かえって宗開三祖のお心に背くことになる≠ニの痴言である。貴殿ら自称正信会の者も、昭和五十四年八月の御座替式、翌五十五年四月の御代替法要に出席し、日顕上人猊下を御法主上人と仰いでいる。
すなわち、貴殿ら自称正信会の中心者の一人である佐々木秀明は、昭和五十四年八月二十五日に開催された第三回全国檀徒大会における「現況報告」の中で、
「幸いにも、第六十七世日顕上人に、早々と御相承されておりまして、この日顕上人の御指南のもとに、一致団結していくことが、御先師日達上人に御報恩奉ることであるということを、もう一度確認して、ともども精進して行きたいと思うわけでございます」(第三回日蓮正宗全国檀徒総会紀要二二)
と述べて、日顕上人への御相承を「幸い」と言っている。また渡辺広済は講演の中で、
「大聖人のお心がこうであり、猊下の御指南がこうだから、自分はこう信心する、これが大事でございます」(同四三)
「現六十七世日顕上人は、日達上人より血脈相承遊ばされ、今、私どもに大聖人のお心をお伝え下されておるのでございます」(同四四)
と述べ、日顕上人の御指南に従って信心していくべきであると述べている。さらに極めつけは荻原昭謙の同大会における次の「諸注意」である。
「最近某週刊誌に某檀徒の発言といたしまして、血脈相承の問題、又、おそれ多くも御法主上人猊下に及び奉ることがらを得意になって云々している記事が目につきました。私ども指導教師といたしまして顔から火が出るほど恥ずかしく、又、大変なさけない思いをいたしました。これはもはや檀徒でもなければ信徒でもありません。(中略)御戒壇様、大聖人様の人法一箇の御法体を血脈相承遊ばす御法主、代々の上人を悉く大聖人と拝し奉り、その御内証・御法体を御書写遊ばされたる御本尊に南無し奉るのでございます。これに異をはさんで何で信徒と申せましょう。又、何で成仏がありましょう。師敵対大謗法の者でございます」(同五一)
とまで述べているのだ。このように、貴殿ら自称正信会の者も日顕上人の御登座に当たっては、日達上人からの御相承を認め、日顕上人の御指南に従うべきことを当然としていたのである。
貴殿ら自称正信会の者が日達上人から日顕上人への御相承に対し、突如疑義を唱え出したのは、日顕上人の御登座から一年半も経過した昭和五十五年十二月のことである。貴殿らの言い分を用いるなら、貴殿ら自称正信会の者も一年半もの間、闇雲に従≠チていたのか。そうではあるまい。貴殿ら自称正信会の者どもが日達上人から日顕上人への御相承に疑義を申し立てたのは、第五回全国檀徒大会を強行開催し、宗務院から処分されたがためである。すなわち、日顕上人が日達上人から御相承を受けていなければ法主ではなく、管長でもない。よって管長でない者の下した処分は無効であるとの論法を、山崎正友氏より教唆され、この暴挙に出たものである。このように、学会憎しのあまり、御法主上人の御指南に背いて暴走したあげく、自分たちの生活を守るために日蓮正宗の血脈相承に疑義を唱えるなど、「顔から火が出るほど恥ずかしく、又、大変なさけない」ことではなかったのか。自己の都合によって宗旨の根幹に対する発言内容をいとも簡単に変化させた貴殿らの厚顔無恥を深く思い知るべきである。
また貴殿らは、相承は基本的には、周知徹底して儀式の形態で行われること。それができなかった時は宗制宗規によって次期管長法主を選定すること。それで充分である。そのことによって、阿部師の言うように仏法がなくなったり、宗祖が仏様でなくなってしまうことなど全くあり得ない≠ニ言っているが、ここで、管長法主の選定に関する宗規の規定について述べておく。
 宗規の中で、管長法主に関する規定のうち、血脈相承に関係する規定は、以前は次のようになっていた。
 
第十三条 本宗に管長一人を置き、「宗制」「宗規」の定めるところによって、一宗を総理する。
2 管長は、法主の職にある者をもって充てる。
3 法主は、宗祖以来の唯授一人の血脈を相承し、本尊を書写し、日号、上人号、院号、阿闍梨号を授与する。
4 法主が退職したときは、同時に管長の職をも退職する。
5 退職した法主は、前法主と称し、血脈の不断に備える。
6 前法主は、法主の委嘱により、本尊を書写し、日号を授与する。
第十六条 管長は、必要と認めたときは、予め次期の管長の候補者を選挙せしめる。
2 次期の管長の候補者を「学頭」と称する。
 
 しかし管長候補者選挙が規定されているなど、明治の宗教事情の影響が残ったままの不適当なものであったため、これに関する条項は、昭和四十九年八月八日に次のように改正された。
 
第十三条 本宗に管長一人を置き、本宗の法規の定めるところによって、一宗を総理する。
2 管長は、法主の職にある者をもって充てる。
第十四条 法主は、宗祖以来の唯授一人の血脈を相承し、本尊を書写し、日号、上人号、院号、阿闍梨号を授与する。
2 法主は、必要を認めたときには、能化のうちから次期の法主を選定することができる。但し、緊急やむを得ない場合は、大僧都のうちから選定することもできる。
3 法主がやむを得ない事由により次期法主を選定できないときは、総監、重役及び能化が協議して、第二項に準じて次期法主を選定する。
4 次期法主の候補者を学頭と称する。
5 退職した法主は、前法主と称し、血脈の不断に備える。
6 前法主は、法主の委嘱により、本尊を書写し、日号を授与する。 
 
 このように、以前の第十六条に規定されていた管長候補者選挙は廃止されたのである。
 貴殿らは日達上人が相承をされなかったとして宗制宗規によって次期管長法主を選定する≠ニして第十四条第三項が該当するように考えているが、それは間違っている。日達上人は日顕上人に相承されたのであるから、この場合、第十四条の第二項によって日顕上人は法主に就任されたのである。
 そもそも貴殿らは血脈相承が行われない場合を想定しているが、それは世間謗法の考え方である。血脈相承とは日蓮大聖人の色心常住のための秘法であり、当職の御法主上人からの場合と御隠尊上人からの場合の二とおりがあるが、必ず次期御法主上人になされるのであり、血脈相承が行われないことは絶対にないのである。
 つまり「宗規」第十四条第三項の、
3 法主がやむを得ない事由により次期法主を選定できないときは、総監、重役及び能化が協議して、第二項に準じて次期法主を選定する。
とは、同第十四条第五項の、
5 退職した法主は、前法主と称し、血脈の不断に備える。
と一対の条項であり、二項揃って意味をなすものである。すなわち御隠尊によって血脈相承が行われる場合の規定なのである。(なお、異説訴訟事件の裁判で早瀬庶務部長がこの旨を陳述している)
 なお、貴殿らは、『報恩抄』の、
「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外未来までもながるべし。日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり」(新編一〇三六)
との御文を引いて、この仏法は末法万年尽未来際まで衆生を利益すること間違いがないのは当然で、そこに信をとっていくのが末弟すべての者の態度であろう≠ネどと言っているが、大聖人の顕された一切衆生救済の大法とは一体何なのだ。三大秘法ではないのか。その三大秘法の随一、本門戒壇の大御本尊は、末法万年尽未来際まで血脈相承によって代々の御法主上人に承け継がれてゆくものである。ならば三大秘法の流通は、御法主上人のところにその根本が存するのではないのか。すなわち、末法万年の一切衆生を救済する「南無妙法蓮華経」は御法主上人を離れてはありえないのだ。そこを離れて何に信を取る≠ニいうのだ。血脈を離れて闇雲に信を取る≠ネどと言うのは、五老僧と同轍であると断じておく。

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