06〔正直〕
相承を偽る阿部師が弟子に「正直であれ」とは呵々≠フ雑言(ぞうげん)を粉砕す

「私は自分の弟子達に『絶対に正直にしなさい』『嘘は言うな。正直な気持ちであれ』と、いつも言っておりますが、これがなかなか難しいのです。今の社会は、なんでも嘘を言ったり、ちょっとごまかしたり、要領よく自分がうまく立ち回ろうというような風潮が強いように感じます。私は正直ということが、あらゆる道徳のなかで最も大事だと思うのです」(平成1年12月23日・恵妙寺)
「この嘘ということは、やはり一番いけませんね。今の世の中は嘘が多くて、どんな人でも嘘を言っているように見えます。日々のテレビの報道でも、嘘をついている不正直な人の出ない日はありません。
 あれは結局、嘘を言って悪いことをしても、うまくやれば他人には判らないと思うのでしょうが、この根性がいけないのです」(昭和58年9月16日・本覚寺)
 その通り嘘はいけないし、正直が大切である。だが、そう言う阿部師自身が相承という重大事に関して不正直な大嘘をついているのでは、全く説得力に欠けてしまう。
 日達上人からの相承が無いのに、阿部師は有ったと強弁したのである。
「私が日達上人より、過去、数度にわたって相伝の甚深の法門を承り、それらの総括として昭和五十三年四月十五日、大奥において、付嘱の義をもって深意を拝承したことは、仏祖三宝の御照覧において、事実であります」(昭和57年6月28日・富士学林研究科開講式)
 遷化の一年三ケ月前に相承を受けたのなら、何故すぐ登座しなかったのであろうか。一年三ケ月前の設定はとても不自然である。どうせなら遷化の一ケ月以内に相承があったと設定した方が、まだ少しは説得力があったのではないかと思う。
 しかも、この4月15日は日達上人の誕生日という日である。この日の日程は、
    午前0時    丑寅勤行
      6時30分  起床
      7時    日目上人御講(御影堂)
      8時    塔中住職より誕生祝を受ける
      9時30分  妙蓮寺塔中住職と面談(対面所)
      10時    遠信寺住職と面談(対面所)
      11時    大石寺東京出張所へ向け出発
 よりによって、このような多忙であわただしい日に、日達上人が相承をされるとはとても考えられない。
 この日のどこに、相承をするような時間が取れるのか、阿部師には正確に説明してもらいたいものである。
 そもそも阿部師の言う付嘱の儀(相承)とは、このようなあわただしい日にでも、二人だけでチョコチョコっと済ませてしまうほど軽々しい儀式なのだろうか。
 まさか当時創価学会べったりの阿部師に対して〈学会の肩ばかりもってどうするんだ! 宗門の成り立つように、しっかりやらなきや駄目だぞ! もっと宗門のことをしっかり頼むぞ!〉とでも、日達上人から叱咤されたことを、〈後を頼むぞと付嘱を受けた〉と、強引に曲解してこじつけているのでは?………。
 ともあれ、相承がないことを一番承知しているのは阿部師自身なのだから、強引に猊座に居座ってはいるものの、さぞかし座り心地が悪いことであろう。
 阿部師は
「ある団体の長が『嘘も百遍言えば本当になる』と言ったということを聞いたことがありますが」(平成3年3月26日・法華講連合会春季総登山)
と、池田氏を批判しているが、まさに阿部師が「日達上人から相承を受けた」と何百回言ったとしても、嘘は本当にはならないのである。

 貴殿らはここで、日達上人からの相承が無いのに、阿部師は有ったと強弁した≠ニし、さらに遷化の一年三ケ月前に相承を受けたのなら、何故すぐ登座しなかったのであろうか≠ニ雑言を弄している。前項でも何度も述べたが、日達上人より日顕上人への御相承は内付であられたのである。
 御先師日達上人は、昭和五十年七月五日、御目通りした法華講員に対して、
「相手がだれであろうと、法主としていうべきこと、なすべきことは一つとしてゆるがせにしておらず、宗門の権威は少しも傷つけることなく次へ譲るつもりでおります」(日達上人全集二‐六‐四二四)
と御指南された。このお言葉からもわかるように、当時は妙信講・創価学会問題のまっただなかであり、全く予断を許さない状況であったが、一方では、御身体の御不調により、不時のことを慮られて、本宗の重大事たる血脈の不断のための御用意をなされていたのである。であるから、どのような形で御相承されるかは、日達上人のお決めになることであり、全く余人の口を挟むことではない。
 また日達上人は、昭和五十三年五月三十日の寺族同心会における御書講義の際、
「今日は、少し健康を害しておりまして、あまり長くできませんので、これで失礼させていただきます」(日達上人全集二‐五‐一二八)
と仰せのように、御遷化前年の昭和五十三年の春頃は、日達上人はかなり健康を害しておられた時期である。貴殿らは、(昭和五十三年)4月15日は日達上人の誕生日という日である。このような多忙であわただしい日に、日達上人が相承をされるとはとても考えられない≠ニ言うが、そもそも、この日のどこに、相承をするような時間が取れるのか≠ニは、貴殿らの無知からくる妄言にすぎない。日顕上人は、こうした妄言に対し、
「儀式は基本的には行なわれる形があります。しかし、何上人から何上人の場合にはきちんとした儀式の形で行なわれた、したがって、過去においても儀式がなければならなかったし、今後もなければならないのだというように、宗門史全体のなかの一部の儀式が行なわれたところだけを基準にして相承の在り方を云々することは、相承の本質をわきまえない妄見です」(大日蓮五六〇‐二七)
と、明快に示されている。
 すなわち御法門の相承においても、場合によっては日常の師弟相対の中で、あるいはまた登山した折など、ある程度の期間にわたり何回かに分けて伝授なさる場合もあるが、たいていの場合は相承を受ける方が既に御法門の深義を把握されており、大事な問題について要点だけを、特にお示しになれば済むのであると承ったことがある。したがって、貴殿らの言うような多忙であわただしい日に、日達上人が相承をされるとはとても考えられない≠ニいうのは、全くの誤りである。
 昭和五十三年四月十五日の御相承は、すでに長年にわたって教学部長の重職を務められ、御法門を掌中のものとされていた日顕上人に対し、相伝の甚深の御法門を数度にわたって伝授された上で、それらの総括として、付嘱の義をもって肝要の御法門の御指南をせられたもの、と拝せられるのであり、この日の御相承は軽々しいものでは断じてない。
 さらに、貴殿らは知らないだろうが、日顕上人への御相承に関しては、日達上人が日顕上人を後継と考えておられたことを証明する多くの証人が宗内におられる。それらの方のお話を紹介しよう。
 はじめに昭和四十九年一月十八日、日顕上人の御母堂妙修尼が逝去されたが、これに先立つ一月十三日、日達上人は京都平安寺へ御下向、妙修尼を見舞われた。この時妙修尼の部屋へ日達上人のお供をして入られたのは日顕上人夫人と当時御仲居を務められていた光久諦顕師(現妙縁寺住職光久日康能化)であった。その折に日達上人は病床の妙修尼に、「あなたの息子さんに後をやってもらうのですからね、早く良くなって下さいよ」と述べられ、妙修尼を元気づけられたのである。この日達上人の深い御慈悲に妙修尼は感涙に咽ばれたことであろう。このことは、この時お供で入室された光久師も証言しておられる。
 また、この件に関してもう御一方、日達上人から直接話を聞かれた方がおられる。それは昭和四十九年当時、大石寺理事を務めておられた野村慈尊師(現清涼寺住職)である。師は日達上人が京都からお帰りになられたときに総本山でお出迎え申し上げたのであるが、この折に日達上人は野村慈尊師に対して、「妙修さんにな、あなたの息子さんに後を譲るから安心しなさいといって励ましてきたよ」とお話しになられたとのことである。
 また、昭和五十年当時、法華講連合会佐藤悦三郎委員長のもとで連合会登山部長として尽力されていた小島富五郎氏(現板橋区妙國寺総代)は、ある時連合会幹事三名で、総本山大石寺内事部において日達上人に御目通り申し上げた。その折に、「私もだんだん身体が弱ってきたので、後は阿部教学部長に任せようと思う」とはっきりと仰せになられたので、この時に、後は阿部教学部長がなられるのだと思ったと述懐されている。
 これ以外にも、日達上人の御遺族や御弟子、御信徒など、相当数の方々が、日達上人の御生前に日顕上人への御相承に関して聞かれているのである。
 これらの状況は何を物語るのであろうか。すなわち、日達上人が御生前において、血脈相承を日顕上人に御譲りになることを、それとなく宗内に周知するように心掛けられておられたことは事実であり、これは日達上人が宗内に対して、後継は日顕上人であることを暗黙裡に了解せしめ、御遷化後の宗内の異体同心の団結を計られたものと拝察できるのである。
 また日顕上人は、日達上人より後継のことについて、お話をお受けしたことは数回以上に及んでおり、ただそれらの中で特に法義の上からの正式な御相承をお受けしたのが昭和五十三年四月十五日であったと仰せられている。
 しかし、それではどうして、日達上人は日顕上人への御相承を内付とせられたのであろうか。恐れ多いことであるが、当時としてのそれだけの深い理由がおありだったのである。
 それは昭和五十三年四月十五日、日達上人が日顕上人へ御相承遊ばされた当時、宗門は創価学会の五十二年謗法路線に対する貴殿ら活動家僧侶の学会攻撃檀徒活動により大揺れに揺れた時期であった。したがって宗内僧俗のバランスというものも非常に微妙なものがあったのである。正法正義を令法久住せしめるための一筋の正しい道を歩むためには、わずかのずれも許されない緊張の局面であり、日達上人におかれては、恐れ多いことながら薄氷を踏まれる思いで宗門を董しておられたことと拝察申し上げる。このような状況の中での御相承であるが故に、日達上人には諸種の状況を判断され、公表されない形での御相承を遊ばされたものと拝されるのである。
 次に貴殿らは、昭和五十三年四月十五日は日達上人の誕生日であって多忙であわただしい日であり、この日のどこに、相承をするような時間が取れるのか≠ネどと難癖をつけている。しかし当方は当日の日達上人のスケジュールは当然ながら詳細に承知申し上げている。この日、日達上人と日顕上人がお会いになられた時間は優に一時間は存在しているのである。したがって、この件に関する貴殿らの言い分も全くいい加減というほかない。
 特にこの日は御講の日であり、関係者の記憶も喚起し易い日であった。実はこの日、当時、宗務院の書記であった楠美慈調師(現富士学林大学科事務局長)が大講堂三階の宗務院の東側端にあった印刷コピー室でコピー中に、偶然内事部玄関の方を眺めたところ(コピー機が置いてある位置から真正面が内事部玄関であった)、事務衣に小袈裟を着けられた日顕上人が、内事部玄関へお入りになるところを目撃したのである。通常宗務院へ登院なさる場合には、大講堂の方にある宗務院の入口を使われるが、内事部へお入りになったということは、後から宗務院の方へお見えになるのだろうと思っていたところ、その日は宗務院へはお見えにならなかったと証言されている。日顕上人(当時教学部長)が宗務院ではなく、内事部玄関へ、それも小袈裟を着けてお入りになられたということは、その目的はただ一つしかない。日達上人への御目通りである。
 以上、述べてきたことからも、昭和五十三年四月十五日に日達上人から日顕上人へ御相承がなされ、日達上人が日顕上人を後継者となされたことは誠に明らかである。
 なお、貴殿らは、日顕上人誹謗に夢中になるあまり、大事なことを忘れていよう。次期御法主上人を選ばれ御相承されるのは、御当職の大切な職務であられる。御身体の不調を感じておられた日達上人が、万一の場合に対し、何の備えもなく御遷化される、などという道理はありえない。もし、日顕上人が御相承を稟けていない、と言うのならば、それは、「日達上人は最も大切な職務である次期御法主を選定もされずに御遷化された」と言っているに等しく、これは御先師日達上人に対するどれほど重大な誹謗となるかが分かっているのか。
 なお、この日の日達上人の日程を持ち出して、御相承がなされたことを疑うのは、創価学会・離脱僧と全く一緒である。邪悪な者は必ず邪悪な者同士で類を呼ぶものだと慨嘆に堪えない。

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