07〔題目〕
「題目の唱える速度が遅い!」と中啓で小僧の頭をバシッ!バシッ!≠フ誣言(ふげん)を匡(ただ)

「ですから、おまえ達が総本山に在勤中、私が勤行の態度については本当に厳しく指摘して、ときには叱責もしたり、中啓で頭をたたいたこともある」(平成11年3月31日・平成11年度非教師指導会)
 これは平成6年1月22日の一日二時間五千遍の唱題が終った直後のことを言っている。マイク係の二人の所化のうち一人に向かって
「(題目は)一分間に60回だろう!」と怒鳴って「バシッ!バシッ!バシッ!………」と中啓(扇)で10発連打。
 もう一人の所化にも、いやというほど連打したときのことである。イライラしながら題目を唱え、次第に心は修羅界になっていき、憤怒の形相で小僧の頭を叩いている図を想像すると何ともそら恐ろしい。「中啓で頭をたたいたこともある」とは……。そんなことは徳を積んだ人なら絶対にしない。すること自体お笑いぐさを通りこして恐るべきことである。阿部師の思惑とは逆に、法主の座簒奪詐称の証明にはなるであろう。
「ただしこれは、阿部日顕個人ではなく、唯授一人の血脈を紹継するうえから申しますけれども、法主の心に背いて唱える題目は、功徳がありません。これだけは、はっきりと申し上げておきます。ですから『法主にも誤りはあるんだ』などということを信者に言いふらす僧侶も、また、それを信じて平気で法主を誹謗するような信徒も同じく、そういう人の唱えるお題目には功徳はない、と私は申し上げるものであります」(昭和55年7月4日・全国教師指導会)
宗祖は、
「聖人の唱へさせ給ふ題目の功徳と、我等が唱へ申す題目の功徳と、何程の多少候べきやと云云。更に勝劣あるべからず候。――但し此の経の心に背きて唱へば、其の差別有るべきなり」(松野殿御返事)
 「此の経の心」に背かぬ題目の功徳は、誰人にあっても勝劣はないということで、阿部師が言うような「法主の心に背いて唱える題目は功徳がない」などとは仰せでない。いずれにつくべきかは論を待たない。
 日興上人遺誡置文にも
「時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構へば之れを用う可からざる事」と仰せられているのは、貫首絶対化によって正法が曲げられることを厳戒されているのである。
 宗開両祖の仰せによれば、簒奪詐称の「法主」に背かない方が誤りであるということになるから、ここはしっかり背かねばならないだろう。
 まして、次のようなことを言う人の題目観では到底随えない。
「開始から一時間まではそれほど痛痒がありませんけれども、それを越えて二時間目になると、身体にかなりの負担が生じてくるということをあちらこちらで聞きました。率直に言って、私も多少は感じたのであります」
 なんだか変なことを言うなと思って先を読んでいくと、
「考えるべきことは、唱題の際には合掌の姿勢をとりますが、同じ姿勢が長ければ長くなるほど筋肉が緊張し、それによって疲労してきまして、それが蓄積されると様々な病気を起こすということもないとは言えません」(平成6年1月6日・末寺住職・寺族初登山) などというとんでもない唱題観を持ち出されては、あきれてあいた口がふさがらない。そういう人には従ってはならないと改めて思うものである。どんな様々な病気を起こすのか聞いてみたいものの、あまりにばかばかしいことである。
 なお、今年の2月7日、興師会のあと数人の所化の頭を中啓で叩いたそうだ。長年のクセは治りそうもない。嗚呼。

 表題に「題目の唱える速度が遅い」と中啓で小僧の頭をバシッバシッ≠ニあるが、それがどうしたと言うのだ。余計なお世話である。師匠が弟子を教育なさるのは、当たり前のことである。反対に聞くが、貴殿ら自称正信会の者たちは、小僧を厳しく叱ることもできないほど、僧道に対する熱意がないのか。大聖人の「つきの木の弓」の御指南を良く拝せと告げておく。何れにしても、御法主上人猊下の弟子への育成について、貴殿らがとやかく口を挟むこと自体がおこがましい。性根の腐った師敵対謗法の貴殿らには、御法主上人猊下の慈悲の御教導など拝せようはずもあるまい。哀れな者たちである。
 平成六年の正月元旦からの百日間二時間唱題行の折の御叱責について言えば、その日の唱題行の開始から終了まで、唱題のマイクと御法主上人猊下をはじめとする全員の唱和とが全く一致しておらず、参加者全員が非常に唱えづらかったのである。終始そのようなマイクであったことに対して、「何故もう少し丁寧に題目を唱えないのか、マイクは全員の唱和をリードする役目である。もっと真剣に唱えなさい」と御叱責されたものであり、その時にお持ちの中啓で頭を叩かれたことを、出席していた僧侶も信徒全員も拝見している。そのようなことは、当日参加した僧俗の誰もが当然のことと拝したのである。中啓による連打などという表現はまるで御法主上人猊下が拷問でもなされているかの如き印象を与える悪意丸出しの画策と言っておく。その場を見ていない貴殿らが創価学会の尻馬に乗ってデタラメを言うものではない。事実、中啓は音の大きさの割にはそれほど痛みもなく、敢えて言えば痛いのは、中啓より伝わってくる御法主上人猊下の「しっかりやれ」との大慈悲のお心を感じた我が心なのである。
 そのような当たり前の事が解らないということは、貴殿ら自称正信会の者たちには、慈悲をもって弟子を育成してくれる師匠が居ないという証である。誠に可哀想な者たちである。事実、その時に叱責された所化はすでに教師になっているが、その僧侶からは「御法主上人猊下の御慈悲に感謝している。あの日以来、丁寧にお題目を唱えることを心がけており、唱和で乱れることがなくなった」と聞いている。
 また、貴殿らは、このような御法主上人猊下の弟子に対する御慈悲溢れる育成を、徳を積んだ人なら絶対にしない。すること自体お笑いぐさを通りこして恐るべきこと≠ネどと、何とかして御法主上人猊下に難癖を付けたいようであるが、貴殿らの言い分には何の正当な根拠もなく、為にする誹謗中傷である。更には、この教導をもって、法主の座簒奪詐称の証明≠ネどと言うに至っては、一体、貴殿らは如何なる頭脳の構造をしているのか。まさに噴飯もののこじつけと呵しておく。
 次に貴殿らは、御法主上人猊下の「法主の心に背いて唱える題目は、功徳がありません」との御言葉を挙げて、大聖人はあくまで、
「此の経の心に背きて唱へば、其の差別有るべきなり」(新編一〇四六)
と仰せであり、日顕上人の仰る「法主の心に背いて唱える題目は功徳がない」などと仰せではないと主張する。要するに貴殿らは、「此の経の心」は「法主の心」を離れて存在すると言うのである。
 では反対に聞くが、「此の経の心」とは一体何か。それは、言うまでもなく、一切衆生を成仏せしめんとの仏の御心であり、更に言えば当然のことながら、末法の御本仏日蓮大聖人の御心である。
 しかるに大聖人は、『日蓮一期弘法付嘱書』に、
「血脈の次第日蓮日興」(新編一六七五)
と仰せであり、また『百六箇抄』に、
「上首已下並びに末弟等異論無く尽未来際に至るまで、予が存日の如く、日興が嫡々付法の上人を以て総貫首と仰ぐべき者なり」(新編一七〇二)
と、また『御本尊七箇之相承』には、
「日蓮在御判と嫡々代々と書くべしとの給う事如何。師の曰わく、深秘なり。代々の聖人悉く日蓮なりと申す意なり」(聖典三七九)
とお示しであり、更に、総本山第二十六世日寛上人は、
「南無仏・南無法・南無僧とは(中略)南無本門弘通の大導師、末法万年の総貫首、開山・付法・南無日興上人師。南無一閻浮提の座主、伝法・日目上人師、嫡々付法歴代の諸師」(六巻抄二二五)
と述べられ、更に『抜書雑々集』に、
「仏法を相属して当代の法主の処に本尊の体有る可きなり」(研究教学書九‐七四〇)
との左京日教師の文を挙げられている。また総本山第三十五世日穏上人は『弁種脱体用味抄』に、
「元師云く、『日蓮が胸中の肉団に秘し隠し持ち玉ふ所の唯以一大事の秘法を唯今、御本尊並びに元祖大聖人、開山上人御前にして、三十五世日穏上人に、一字一口も残らず悉く付属せしむ。謹んで諦聴あるべし』とて、則ち一大事の秘法御付属あり。並びに開山日興上人、日目上人、日有上人等御箇条の条々残らず御渡しあって、さて元師の言ふ様、『此の秘法を胸中に納め玉ふ上は、日蓮、日興、日目乃至日因上人、日元、其の許全体一体にて候。就中、日穏には、当今末法の現住、主師親三徳兼備にして、大石寺一門流の題目は皆貴公の内証秘法の南無妙法蓮華経と御意得候へ』との御言なり」(大石寺文書)
と仰せである。
 以上の御指南を拝するに、大聖人の御心は、「血脈の次第日蓮日興」に始まる唯授一人の血脈相伝を承継される御法主上人猊下の御内証に存するのである。すなわち「此の経の心」とは、「大聖人の御心」即「法主の心」ではないか。故に、御法主上人猊下に背いて唱える題目には功徳がないばかりか、堕地獄の厳罰を受けることは必定なのである。要するに貴殿ら自称正信会は、そもそも大聖人の御心に背いており、極大謗法の輩なのである。
 また、貴殿らは、『日興遺誡置文』の、
「時の貫首たりと雖も仏法に相違して己義を構へば之を用ふべからざる事」(新編一八八五)
を引いて、貫首絶対化によって正法が曲げられることを厳戒されている≠ニ主張している。では反対に聞くが、その『日興遺誡置文』の次の、
「衆議たりと雖も仏法に相違有らば貫首之を摧くべき事」(新編一八八五)
との御文を、どのように拝するのか。摧く主体を貫首とお示しではないか。
 また、御先師日達上人が、
「時の貫主とは、その宗の頭、即ち現在の管長であり法主である。管長であるから宗門を運営するに当たって、誰を採用し、任用してもよいのであるが、大聖人の仏法に違背して自分勝手な説を立て、しかも注意されても改めない人を用いてはならない。つまり、時の貫主の権限を示されているのである」(日達上人述「略解」日興遺誡置文一三)
と御指南遊ばされるとおり、どこまでも貫首が中心であり、貫首にこそ一宗統率の責任主体が存するのである。要するに、外用僧宝・内証三宝一体の意義より拝しても、貫首たる御法主上人猊下こそが仏法の主体者なのである。その仏法の主体者である御法主上人に、そもそも己義など存在するはずがないのであるから、貴殿らの主張する貫首絶対化によって正法が曲げられる≠ネどと言うことは、金輪際ありえないことなのである。なお、百歩譲って、貫首が己義を構えたとすると、それが己義であるか否かを誰が判定するというのか。それが仏法に相違した己義であるかどうかを判定できるのは貫首以外にはないことに思いを致せば、道理の赴くところ自ずから明らかであろう。
 また貴殿らは、暗に日顕上人を指して、宗開両祖の仰せによれば、簒奪詐称の「法主」に背かない方が誤りであるということになる≠ネどと嘯くが、日顕上人が法主の座簒奪詐称≠したという証拠はあるのか。あるなら出してみよ。根拠もないのに、重大な御相承につき、いい加減な作り話をまことしやかに言う無慙無愧の根性、まことに堕獄必定の大罪である。
 また貴殿らは、日顕上人の平成六年一月六日の御指南の一部を切り文的に引用して、その御指南を指してとんでもない唱題観≠セと主張するが、切り文して御指南の趣旨を変えようと画策する貴殿らこそ、とんでもない者どもである。全く莫迦莫迦しくて相手にする気も失せるが、貴殿らの狡猾さは徹底的に暴かねばなるまい。当日の日顕上人の御指南は次の如くである。
「行のなかには自行と化他行の二つがありますが、この題目を唱えるという行が、どれほど深く、また尊いものであるかということを、大聖人様は御一生の御化導において、特に五百篇になんなんとする御書のなかで常に御指南であります。ですから、その時々によって題目の数などによる唱え方は違うけれども、やはり題目を修行することが我々の成仏の道であり、基本であることは当然であります。
 特に本年、平成六年において、広布を熱望する我々の護法の志により、一人の僧侶のみならず全部の僧侶が、また、全部の信徒が本当に一結して南無妙法蓮華経の唱題を行うということ、しかも一人が五十万遍の唱題を完遂すべく始めたということは、実にすばらしいことではないでしょうか。
 ここにこそ、未来に対する広布の礎が着々と築かれておるということを、私は信ずるものであります。この深い意義と未来にわたる広布への一番の源が、この唱題行に存するということを我々は深く銘記しつつ、百日間の唱題行を完遂したいと思うのであります。
 ところで、私は色々な用務の関係も考えまして、二時間の唱題を一度にやってしまおうと思いました。つまり、毎朝、七時から九時までの二時間を唱題の時間と定めて始めたのでありますが、開始から一時間まではそれほど痛痒がありませんけれども、それを越えて二時間目になると、身体にかなりの負担が生じてくるということをあちらこちらで聞きました。率直に言って、私も多少は感じたのであります。
 そこで考えたのですが、この唱題行を二時間連続で行わなければならないという必然性は全くないわけであります。要するに一日に二時間、五千遍の唱題ということでありますから、その人の生活状態に応じて、四回に分けようと三回に分けようと、あるいは二回に分けてもいいわけです。考えるべきことは、唱題の際には合掌の姿勢をとりますが、同じ姿勢が長ければ長くなるほど筋肉が緊張し、それによって疲労してきまして、それが畜積されると様々な病気を起こすということもないとは言えません。
 その点から、総本山においては昨日より、午前と午後に分けて、それぞれ一時間ずつ行っておりますが、この辺が色々な意味において妥当ではないかと考えておるものであります。もちろん、『私はどうしても二時間連続で行いたい』という人がいれば、それをけっしてとめませんが、健康のことも留意しつつ、この唱題行を楽しく完遂していただければ有り難いと存ずる次第であります」(大日蓮五七六‐六六)
 以上の御指南の何処に、とんでもない唱題観≠ェ拝せられるというのか。現在の宗門において、御自ら率先垂範し、唱題行を第一に奨励遊ばされたのは御法主日顕上人猊下であり、これは宗内周知の事実である。それを覆い隠して、何を論じても、門外漢の自称正信会員は騙せても、宗内の僧俗は誰一人騙される者は居ないと言っておく。
 さて、当日のお言葉は、まず唱題の甚深なる意義を大聖人の御指南と御化導を拝されつつ説明され、更に平成六年元旦より開始された一日二時間の唱題行が時期に適った修行である事の意義を示され、その上で、貴殿らが引用した部分である一日二時間の唱題行の方法について仰せられたのである。
 すなわち、唱題行の方法についての御指南を拝すると、日顕上人は、法務の関係から当初二時間の唱題を一度になされたが、しかし、開始から一時間はそれほど痛痒がないが、二時間目になると身体にかなりの負担が生じてくるということを、参加者のあちらこちらから聞かれた。そして、御自身も多少そのことを感じられたのである。要は一日に二時間、五千遍の唱題を唱え切ることが大切なのであって、二時間連続で行わなければならないという必然性はなく、その人その人の生活状態に応じて、何回に分けてもいいということを仰せられたのである。また唱題の際には合掌の姿勢をとるが、同じ姿勢を持続すると筋肉が緊張し、それによって疲労を生じ、それが畜積すると高齢の参加者などが様々な病気を起こすということも否定できず、その意味から総本山においては午前と午後に分けて、それぞれ一時間ずつ唱題行を行っていることを述べられ、健康に留意しつつ、唱題行を楽しく完遂するようにと結ばれたのである。
 この御指南を拝して分かる事は、日顕上人は、何も御自身が唱題行を二時間やると疲れるとか、病気になるとか、そのような事を仰せられているのではない。具体的に、多方面の参加者より意見を聞かれて、特に高齢者・病弱者に配慮せられたことを御指南されたのである。
 貴殿ら不信心者には、そのような御法主日顕上人猊下の甚深の御慈悲など分かるはずもないのであろう。

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