08〔法主〕
粥をすする? ならばもっと僧俗の身になってはいかがか?≠フ譫言(せんげん)を截断(せつだん)

「たとえ将来、本山の参詣者がなくなって、粥をすするようなことがあっても、私は正義は正義として立てていこうと思って、今回、この問題に踏み切ったわけである」(平成3年1月10日・教師指導会)
 「よく言うよ」とはこのことであろう。管長法主詐称の後、正信会以外の宗門に残った僧侶の大半は、創価学会の経済力をあてにしていたのは明らかである。それから、わずか十年後に池田創価学会を除名破門にしてしまったのだから「何をしてくれるんだ!」と怒り心頭に発したに違いない。しかし、もうそれに反抗する信仰も気力も無いのが現実で、貴族化した阿部師並びに、ほんの一部の取り巻きと、その他の多くの一般僧侶との信頼関係は少しもない。

 御法主日顕上人猊下の真摯な御決意を愚弄する恥知らずとは貴殿らのことである。自称正信会の悩乱者でも、本行寺時代の日顕上人の御苦労を知っている者はたくさんいるはずである。本行寺は戦後、日顕上人によって再建せられた。現在でこそ、宗門屈指の講員数を有する本行寺であるが、再建当初はごくわずかな信徒数だったのである。戦後の食糧難の中、文字どおりの粥、しかも米にあらず、芋だけの粥をすすった時期もかなり長かったと承っている。日顕上人には青年期にこのような御体験があられるのである。初心に帰るというが、日顕上人の「粥をすする」との御発言はこのような御自身の体験から発せられたお言葉である。それは、誰も参詣に来なければ、それでもよい。「粥をすする」生活をしても一向に構わない。御法を清浄にお護りすることが第一とされておられるのである。 自称正信会の悩乱者よ、見損なうな。我々弟子達は、この高潔な御法主日顕上人猊下の驥尾に付して、仏法守護の御苦労のお手伝いをさせていただくことを、むしろ最大の悦びとするものである。貴殿らの言う如く、池田創価学会を除名破門にしたことで何をしてくれるんだ≠ニ怒り心頭に発した宗門の僧侶などいるわけがない。貴殿らの言は、自らの卑劣な根性による譫言に過ぎない。自称正信会の悩乱者のように、日顕上人が管長法主詐称≠しているなどとデッチあげて正法正師の正義を捨てた者には、未来永劫を経ようと判らないことである。

阿部師が粥をすするところをみたいものだが、そんなことはただのポーズでしかない。そんな人が都内でも有名な超高級住宅地である渋谷区松濤に超豪邸を所有しているというのだから驚きだ。そんな庶民感覚皆無の人が、とても粥などすするわけがない。もっとも最近はやりの贅沢な中華粥や粥懐石のことをいってるのならば別であるが。

 大石寺の新しい出張所を指して貴殿らは超豪邸≠ニ言っているが、松濤の施設はあくまで大石寺の出張所であり、御法主上人の私邸ではない。この大石寺出張所について日顕上人は次のように述べられている。
「かねて購入し、開所しておりました大石寺東京出張所が全面改築をいたしまして、このたび完成いたしましたので、本日、その落慶入仏法要を奉修いたしました。(中略)ここの土地柄も、東京都内において非常に良い所であります。そこに、きちんとしたものを建てて、これからの宗門の色々な面においてなんらかの役目を果たしていければと思い、会議室等も少し大きくとっておる次第であります。今後、多忙な宗門のなかで、宗務院その他の面において、なにかにつけて利用していただければと思います」(大日蓮六四五‐五四)
 このように東京での法務を執られたり様々な会議が開かれたりするなど、総本山のために使用されるのである。大石寺は唯一の正法を厳護する日蓮正宗の総本山であり、その名に恥じぬ条件を整えたまでのことである。当然、大石寺の住職である御法主上人がお出ましになれば宿泊されたりもするが、当然ながら御法主上人はほとんど毎日の御法務は総本山で執られるのである。そのようなことなど自称正信会の悩乱者は元僧侶として知り尽くしているにもかかわらず、僧形の者が言えば本当のように聞こえるというその立場を悪用して、大石寺出張所を御法主上人の私邸のように述べ、反感を煽っているのである。何とも卑しい心根である。しかもそれは創価学会の二番煎じである。いやしくもこれが元僧侶のすることかと呆れ返る。貴殿らにわずかでも良心があるのならば、潔く袈裟・衣を御法主上人にお返しせよ。
 また、粥についてくどく述べているが、日顕上人の「粥をすするようなことがあっても」とのお言葉は、平成三年一月の時である。護法の御決意は不動であるが、宗内の事情は自ずから変化している。言葉尻を捉えて、舷に刻する如き、愚かな言を吐く莫れと言っておく。

 ところで、奉安堂建立に伴う三〇万総登山に際して、参加信徒数がノルマに達しなかったり、折伏成果の上がらない寺院の僧侶は人事異動や住職交代の粛清におびえているとか。独裁者が宗門をかすめ取ると、こうなるという典型である。今さら怖れおののいても遅い。自業自得であろうから。

 ふざけるのもいい加減にせよ。宗門の僧侶の信心は筋金入りである。哀れにも貴殿らのような日和見信心の謗法者にはそれが理解できないのだ。宗内僧俗は皆、御法主日顕上人猊下の御指南の下、一致団結して現今の目標に向かって邁進しているのだ。
 宗門は、昨平成十四年、宗旨建立七百五十年の大佳節に、御命題の「法華講三十万総登山」を達成し、さらに奉安堂の落慶により法礎の建立を成し遂げたのである。さらに本年よりは、次なる目標である「平成二十一年『立正安国論』正義顕揚七百五十年における、地涌の友の倍増乃至それ以上の輩出と大結集」を目指して、僧俗一致し切磋琢磨、精進している最中である。
 下種三宝尊を捨てた貴殿らは、世間のことに汲々とするのみで、衆生救済の何の目標もないではないか。少しは恥を知るべきである。

「仏智というものは、一般民衆がわかるはずがないんですから。したがって数から言うならば、ボンクラどもが千人、万人おるよりも、仏様一人のお考えのほうが正しいんです」(平成3年5月30日・寺族同心会)
 などと一般民衆をボンクラと呼び、自分を仏様と言わんばかりの発言だが、まさに民衆の気持ちとかけ離れ、慈悲の心を失った姿を見ることができる。

 貴殿らは、「仏智というものは、一般民衆がわかるはずがないんですから。したがって数から言うならば、ボンクラどもが千人、万人おるよりも、仏様一人のお考えのほうが正しいんです」≠ニの言が、日顕上人の平成三年五月三十日の寺族同心会における御発言としているが、このような趣旨の御指南は平成三年の寺族同心会のお言葉にはない。一体どこからこのお言葉を引用しているのか、明らかにせよ。まさか創価学会が出している怪文書からではあるまいな。
 さて、平成四年五月二十八日の寺族同心会における僧侶・寺族指導会でのお言葉には、『大日蓮』に次のように述べられている。
「大聖人様の仏法の上からの『民主主義』ということについて申し上げたいと思います。今、創価学会のほうでは、数に恃んで民主主義という世間の考え方を仏法に導入しておりますが、御書のなかには民主主義の民主主義たるべき意義が基本的な意味で示されておりまして、それがどのような形で表れておるかといえば、むしろその表れ方は逆なのです。本当の仏の智慧、仏智というものは一般民衆には判るはずがないからであります。
 つまり、三毒強盛の凡眼凡智の凡夫が千人、万人集まっても、仏様一人のお考えのほうが正しいのです。このようなことは仏法の筋目・けじめを立てる上において当然のことでありますが、それを全く忘れて、今、創価学会では会員を『民衆』と呼んで、民衆の総意によって仏法の正邪が決せられ、運営されるような言い方をしております。そういうところに彼等の狂いの根本があるということは、皆さんも既に御承知であると思います」(大日蓮五五七‐五六)
 この御法主上人の御指南は、本当の仏様の智慧は円満無欠の仏智であって、一般民衆の智慧では判るはずがない。この仏智とは血脈法水のことであり、ただ御法主上人のみに相承される智慧である。それに対し一般民衆とは、つまり三毒強盛の凡眼凡智の凡夫であって、凡夫はどんなに賢いと言っても所詮凡夫であって不完全な智慧に過ぎないから、不完全な者が千人、万人と集まっても結局悟りに到達できる訳ではなく、仏様御一人のお考えのほうが正しい。したがって、池田大作や創価学会員が何百万人いようとも、血脈法水を所持される御法主上人お一人に及ぶことはない、という御意である。
 貴殿らはこのお言葉に対し、一般民衆をボンクラと呼び、自分を仏様と言わんばかりの発言だが、まさに民衆の気持ちとかけ離れ、慈悲の心を失った姿を見ることができる≠ニ言っているが、『大日蓮』に発表された実際の御指南の前後を見よ。主旨が全く違うではないか。
 つまり、ここで日顕上人の言われる民衆とは、「創価学会員」就中池田大作を指しているのである。しかして日顕上人は数を恃んだ池田大作の謗法の邪義を、血脈相伝の正義の上から破折されると述べられているのではないか。しかるに貴殿らの言は、前後を故意に省略する、所謂「切り文」して意味を改変し、まるで御法主上人が一般民衆をボンクラと見下し、自らを仏の如くに驕り、民衆の気持ちからかけ離れて、無慈悲となっているかのように、印象づけようとしている。このような貴殿らの悪意に満ちた意図は、文の前後を読めば一目瞭然である。
 しかも民衆の気持ちとかけ離れ≠ニいうが、この民衆とは、ほかでもない池田大作等を指すのであるから、結局貴殿らが日顕上人の破折から大謗法者の池田大作をかばうという、構図になってしまうのである。まことに正気の沙汰ではない。このように謀略というものは、予想外の結末を迎えるものである。

「もう一つ考えれば、私はまことに不敏ではあるけれども、六十七世の法主としての立場を汚しておる者であります。しかし、それだからといって、あのような、実に無理非道でめちゃくちゃな讒言・誹謗・中傷というものがあってよいはずはないと思うのであります。
 血脈の法主をあくまで罵詈讒謗して、日蓮正宗の清浄なる法水を汚濁の水にまみれさせようとしたところの創価学会の行為は、これはまさに阿部日顕個人に対するものではなく、宗祖日蓮大聖人、日興上人、日目上人、総本山御歴代御正師、血脈の大法に対するところの反逆であります。彼らのこの罪業は、必ず今世乃至、来世においてはっきりと顕れることでありましょう」(平成11年8月26日・第48回全国教師講習会開講式)
 これは創価学会に対する論難であるが、正信会に対しても同じ論調で非難するので一言しておくが、阿部師が日達上人からの相承もなかったのに、「あった」などと言うから、「チョット待ってください」となっただけで、何も宗開三祖の御事を引き合いに出すことではないし、「日蓮正宗の清浄なる法水を汚濁の水にまみれさせようとした」とは何たる言いぐさ。正信会にぬれぎぬを着せ、詐称の自分がさも正統であるというのはおこがましいにもほどがある。

 阿部師が日達上人からの相承もなかったのに、「あった」などと言うから、「チョット待ってください」となった≠ニはなんたる言いぐさ。この言は御当代日顕上人を誹謗すると同時に、御先師日達上人に対する重大な誹謗であることは判っていて言っているのだろう。不知恩者、恥を知れ。
 何度でも言うが、御法主上人の御立場は、血脈相承を受けられ、そして授けることが第一の最大事であり、これをなさらないことは絶対にないのである。なぜならば、もしも、血脈相承が行われなければ、それは仏法の断絶を意味するからである。もし貴殿らがそのようなことがあると言うならば、それは大聖人をして仏に非ずと言うに同じであり、大謗法と断ずる。またそれは日達上人に対する最大の誹謗であり侮辱であって、師敵対これに過ぎるものはない。
 しかも貴殿らがその厳正なる血脈相承に疑義を呈したのは、ただ自分たちの保身のためという卑怯卑劣な動機からではないか。なぜならば貴殿らは、日顕上人に対し奉り、第三回・第四回と二度までも檀徒大会に御法主上人として御臨席を願っていたからである。御相承がなかったのならば、なぜ二回も御臨席を願ったのだ。それをぬれぎぬ≠ニは呆れ果ててものも言えない。本当におこがましいにもほどがある≠ニはまさに貴殿らのことである。

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