09〔少欲知足〕
贅沢三昧の生活なのに少欲知足を説くとは≠フ訛言(かげん)を一蹴す

「それから、この際、僧侶の心構えの一つとして改めて申し上げておきたいことは、皆さんも既に御承知のとおり、『少欲知足』ということであります。何がなくても御本尊様と礼拝用の道具と袈裟・衣と数珠と中啓があれば、あとは寺として何も要らないのです。
 御信者の信心を利用し、乱用して、自らの欲に絡むようなことはないと思いますが、人間ですから、ついついそのようなことにかまける人があったならば、これはやはり本当の広宣流布のための、小さなことだけれども、広宣流布を妨げる魔の用きをするようになると思うのであります」(平成4年1月28日・法華講支部指導教師指導会)
「うっかりそういうことを言うと疎んじられることを恐れて本当のことを言わない。要するに、そうなれば入るところのお布施も入らなくなるということでしょうが、そのためにきちんとした破折をしないということでありまして、これは仏法において最も恥ずべきことであり、いけないことなのです。
 私も、もし貪欲が盛んであったならば、もっともっと創価学会にたいしてもおべんちゃらを使って、仲良くやっていたことでしょう。けれども、創価学会があまりに狂っておりましたので、法を正しく護る上から、はっきりその誤りの反省を求めたのです。そのために彼等は瞋り狂い、あらゆる嘘と流言蜚語をもって私を謗っております」(平成5年6月20日・北陸布教区)
 「御本尊様と礼拝用の道具と袈裟・衣と数珠と中啓があれば、あとは寺として何も要らないのです」と言うわりには、都内の超高級住宅地に贅を凝らした豪邸をもち、阿部師の身内や側近連中を引き連れては、しばしば温泉地で豪遊しているのはどう説明するのだろう。
 しかも、「お布施も入らなくなるということでしょうが、そのためにきちんとした破折をしないということでありまして、これは仏法において最も恥ずべきことであり、いけないことなのです。私も、もし貪欲が盛んであったならば、もっともっと創価学会にたいしてもおべんちゃらを使って、仲良くやっていたことでしょう」と臆面もなく言っているが……。
 かつては創価学会におべんちゃらを使って、
「『宗門は金のことばかり言う』と言うけれども、毎日何千人と来る登山会の、その内の九十パーセント以上が学会員です。本山をお守りし、そして総本山の灯燭をお守りしていてくれるのは、実質的に学会員なのです。これは決まりきったことです」(昭和54年10月10日・全国宗務支院長会議)
 と、お布施が入らなくなることを恐れて、きちんと破折をしなかったのである。
 「少欲知足」ということを言うなら、まず阿部師が全国の僧侶に率先して少欲知足の生活の範を示すのが当然だと思うが、相変わらずの身にしみた放蕩生活は一向になおらない。
 現在、生活が充分に潤って贅沢な生活ができるのは阿部師とその取り巻きの一部の僧侶のみで、地方の寺院の僧侶達はまるで参勤交代のような大石寺への登山命令で生活も汲々としているのが実態だ。
 これでは心から阿部師を信頼して宗門のために頑張ろうという僧侶は育たないだろう。かけ声だけではやはりだめなのである。
 ところで、三衣の中に中啓は入っていないのであるが、やはり所化の頭を叩くためにはどうしても阿部師にとっては必要なものなのだろうか……。

 貴殿らは都内の超高級住宅地に贅を凝らした豪邸をもち、阿部師の身内や側近連中を引き連れては、しばしば温泉地で豪遊しているのはどう説明するのだろう≠ニ言うが、前にも述べたが、貴殿らが豪邸≠ニやっかむ松濤の施設はあくまで大石寺の出張所であり、御法主上人の私邸ではないのだ。日蓮正宗総本山大石寺が、その名に恥じぬ出張所を整備したまでのことである。貴殿らに文句を言われる筋合いは微塵もないと言っておく。
 また、温泉に休養に行かれることはあるが、それも稀なことである。だいいち毎日を総本山の法務に費やされる御法主上人には時間的余裕がほとんどないことは周知の事実ではないか。それをこのように言うことは、全く創価学会の受け売りというほかない。しかも御法主上人が招待されて赴かれた宴席での記念写真を遊興のように見せかける手法も創価新報と全同である。かりにもせよ自称正信会はかつては創価学会を糺そうとしたのではなかったのか。このやり方はあまりにも恥ずかしくはないか。
 次にこれも前述したが、御法主日顕上人猊下は池田大作・創価学会を慈悲の上から善導しようとされたのである。それに対して悩乱した貴殿ら自称正信会の振る舞いはどうであったか。創価学会に対する執拗な攻撃を中止するよう命じられた日達上人に対して、影では侮蔑の言動を恣にしていたことは多くの僧俗の知悉するところではないか。そのような、貴殿らの信仰者にあるまじき、師敵対謗法の実体を目の当たりにして、距離を置いた僧俗が多くいたことを忘れたのか。それとも、いまだに気づいていないのか。かつては創価学会におべんちゃらを使って、「『宗門は金のことばかり言う』と言うけれども、毎日何千人と来る登山会の、その内の九十パーセント以上が学会員です。本山をお守りし、そして総本山の灯燭をお守りしていてくれるのは、実質的に学会員なのです。これは決まりきったことです」と、お布施が入らなくなることを恐れて、きちんと破折をしなかったのである≠ニ言うが、これこそ典型的な切り文である。この御指南の少し前から引用しよう。
「ですから私は言うのですが『もしも信仰的に創価学会が独立するというのならば、独立してもらえば良い』ということです。そのときには我々は、法主が陣頭に立って、徹底的に創価学会の全体を折伏して、改めて大折伏戦を日蓮正宗から展開すれば良い。そのときは、多くの人が、直ちに改めて日蓮正宗に入ってくるでしょう。『宗門は金のことばかりを言う』と言うけれども、毎日何千人と来る登山会の、その内の九十パーセント以上が学会員です。本山をお守りし、そして総本山の灯燭をお守りしていてくれるのは、実質的に学会員なのです。これは決まりきったことです」(大日蓮四〇五‐一四)
実はこのように御指南されているのである。前の部分の、
「ですから私は言うのですが『もしも信仰的に創価学会が独立するというのならば、独立してもらえば良い』ということです。そのときには我々は、法主が陣頭に立って、徹底的に創価学会の全体を折伏して、改めて大折伏戦を日蓮正宗から展開すれば良い。そのときは、多くの人が、直ちに改めて日蓮正宗に入ってくるでしょう」
の箇所を隠して、お布施が入らなくなることを恐れて、きちんと破折をしなかったのである≠ニ言うのである。貴殿らの根性はどこまで下劣なのだ。これは為にする誹謗であり、貴殿らの醜い本性が現れている。と同時に日顕上人に非のないこともまた明白なのである。
 さらに貴殿らは、毎年一回の支部総登山を参勤交代のような大石寺への登山命令≠ニ言うが、全国の僧俗は、本門戒壇の大御本尊を渇仰して総本山に参詣するのである。そしてそれは各支部の信心の足腰を強くすることにつながるからである。その精進が昨年の法華講三十万総登山として結実した。皆、心から御法主上人の御指南に信伏随従する信心の歓喜に燃えているのである。貴殿らのように、本門戒壇の大御本尊と血脈法水に対する信心がないことほど哀れなことはない。余計なお世話を焼く暇があったら、自分の後生の心配をせよ。
 中啓のことが述べられていたからと、またぞろ蒸し返しての揶揄は、貴殿らの性根の卑しさを露呈しているだけのことである。

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