14〔組織〕
宗・創の地獄論争は水掛け論≠フ戯言(ぎげん)を窘(たしな)

「今日の創価学会の狂った姿、昭和五十二年路線の時もそうであったけれども、それからあと今日に至るなかでの、我慢・高慢から大聖人の教えを我見をもって解釈するというような、本性を表した池田大作なる者の指導による創価学会の姿を大聖人様の正しい法義に照らしたときに、これが本当に誤りである故に、このなかにとどまっておる人は必ず地獄に堕ちるのである」(平成4年3月31日・平成四年度非教師指導会)
 あやまれる創価学会にとどまっておる人は「必ず地獄に堕ちる」という言であるが、これは創価学会破門の後のことである。
 同じ創価学会のことについて以前は次のように言っていた。
「例えば『ある団体に入って信心をしておると、いかに正しい御本尊にお題目を唱えても成仏はできない』などと、ばかなことを言う僧侶があるのであります。これは大きな間違いです。その他いろいろと問題はありますけれども、根本の法の在り方というものが、一切を決定するところなのです」(昭和55年5月30日・寺族同心会)
 これは創価学会が、まだ表面上信伏随従の姿を装っていた時のもので、組織に左右されるのではなく「根本の法の在り方が、一切を決定する所」と言っていた。同じ組織について前と後で全く反対のことを言ってるのは噴飯ものである。
 すべて、自分の思い通りになる者は善、そうでない者は悪となる。それが阿部師の論理である。そして、その論理はそのまま池田創価学会のものであることに気づいていない。そこがおかしくも悲劇的なところである。
 確かに以前はかなり長く深く池田氏の教学や指導力に心酔していたから、その師弟関係の絆がどこか根強く残っているのかも知れない。そのところは間違いなく相承されているのだろう。

 表題に、宗・創の地獄論争は水掛け論≠ニあるが、地獄論争≠ニは何のことか。また、何をもって水掛け論≠ニ言うのか。要するに貴殿らは、御法主日顕上人猊下が、五十二年路線における反省を反故にして、再び謗法路線に堕落した創価学会の中に、「いつまでもとどまっている人は必ず地獄へ堕ちる」と仰せられたことについて、以前は創価学会でも成仏できると御指南されたのに、同じ組織について前と後で成仏ができると言ったり、できないと言ったり、全く反対のことを言っているのは噴飯もの≠ニ言うのである。
 何という痴言であろうか。同じ組織ではあっても、根本の法に対する在り方、すなわち信仰の根本たる本門戒壇の大御本尊と、血脈法水に対する信心によって成仏が叶い、その根本の法の在り方に背けば地獄へ堕ちることは仏法の大原則ではないか。
 御法主日顕上人猊下はそのことを仰せになられたまでである。すなわち創価学会について言えば、御先師日達上人にお詫びして許され、本門戒壇の大御本尊への信仰を根本に総本山へ登山すれば、その根本の法に対する信仰の在り方は、まさに成仏に叶うものであることは当然ではないか。それに対し、平成二年以降、再び謗法を犯した創価学会は、「後の懺悔には此の罪きえがたし」であり、三宝破壊の謗法団体と化した創価学会に身を置くならば、池田大作と共に無間地獄へ直行することは当然である。それは貴殿ら正信会の者たちも同様なのである。
 またその日顕上人の御指南を、自分の思い通りになる者は善、そうでない者は悪となる≠ニ罵っているが、これまた救いようのない莫迦さ加減である。よくよく日顕上人の御指南を拝し直して見よ、まさしく仏法の根本の法に対する信心の在り方こそが、成不成を決する要諦であるとの御指南ではないか。日顕上人がどこに私情を挿まれているか。
 たしかに、自分の思い通りになる者は善、そうでない者は悪≠ニする論理は池田創価学会のものである。しかし、それは同時にそのまま、わがまま勝手で幼児的でさえある貴殿ら自称正信会の論理そのものであることに貴殿らは気づいていない。そこがおかしくも悲劇的なところなのである。しかし血脈法水を怨嫉するところは確かに池田大作と同轍であるから、謗法者の師敵対の絆は根強く繋がっているに違いない。

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