15〔思いつき〕
「そうか、そうか」が口癖だった阿部師 それは「創価」の影響?≠フ贅言(ぜいげん)を呵す

「池田大作は、現在から未来にわたって、あらゆる策略を徹底して弄しつつ、この総本山大石寺を再び、いつの日にか創価学会の手で支配することを考えておるということであります――特に今年の初頭から唱題をしておるなかにおいて、はっきりこれを感じたものであります」(平成7年1月6日・末寺住職・寺族初登山)
と創価学会との和解など決してなく、あるとしても
「創価学会員を救うためには、その一人ひとりが本当に御戒壇様にお詫び申し上げ、また、宗門の僧侶に頭を下げて、過去の誤りの全部を反省させるとともに、そのような誤りを再び行えないような状態にしなければなりません。つまり、はっきり言えば宗教法人も解散すべきです。そういう形で、一人が一人づつ信心に基づいて謝ってくるときは、あらん限りの誹謗をなした学会大幹部などについても、厳しい指導監督のもとに信徒たる在り方を許すことも、それは考えられましょう」(同)
 池田氏が「大石寺を再びいつの日にか創価学会の手で支配することを考えている」ということを「唱題をしておるなかにおいてはっきりこれを感じた」とまるでシャーマン(呪術者)のようなことを言っている。
 阿部師は創価学会との和解など決してない。あるとしても「創価学会員全員が大御本尊にお詫び申し上げ、宗門の僧侶に頭を下げて、過去の誤りの全部を反省させるとともに、そのような誤りを再び行えないような状態にする」などとあり得ない条件を語り、宗内の和解しようという動きを牽制しつつも怯えているのがよく分かる。
 大石寺が再度乗っ取られるというのも思いつきなら、大客殿を破却し建てかえるというのも思いつき。その大客殿落成式の時に突然正本堂の破却を思いつき、すぐに御遷座という手回しの良さ。その後の正本堂破却、奉安堂建立。
 その間、莫大な金員を浪費し世間の常識からかけ離れた所行に内外の人々はあきれかえってしまったのである。
 「阿部さんは何でも思いつきでやるから」と渋い顔をする宗門僧侶もかなりいるという。当然のことだ。阿部師は思いつきの時、決まって「そうか、そうか」と言って自分で自分を納得させていたものだ。

 貴殿らは唱題中に心感を得ることがシャーマン≠セと揶揄するが、そのような邪難を生ずること自体、根本的に狂っているのだ。今は邪教化した自称正信会であるが、その個々人は、かつて日蓮正宗に属していた時代もあったではないか。その時、唱題中に御本尊との境智冥合の上に何かを感得したことは全くなかったのか。もしなかったのなら、唱題しても何も感得できないようなお粗末な信心だったから日蓮正宗から離れていくような羽目になったのである。
 また貴殿らは御法主上人のお言葉を切り文し、宗内の和解しようという動きを牽制しつつも怯えている≠ネどと怪奇な言いがかりをつけているが、宗門に学会と和解しようとする動きなど全く存在しないし、貴殿らが御法主上人のお言葉の中に何かに怯えるような表現があったとするならば、日本語を勉強し直す必要があろう。そのような箇所は全くあられない。
 貴殿らは引用に際し、肝心な部分を抜いているのだ。日顕上人は、
「ある週刊誌に、池田博正とかいう人間が、『将来、創価学会が宗教団体として存続していくためには、宗門と和解しなければならない』という意味のことを言ったというようなことが、ちょっと書いてありました。」(大日蓮五八八‐八六)
と、池田大作の長男・池田博正が宗門に水を向けてきたとも取れる発言を行ったことに対して、宗門全僧俗にそのようなことは金輪際ありえないから、安心して学会員を折伏するようにと、池田博正の発言を破折する御指南をなされたのである。
 しかし貴殿らは、日顕上人が学会との和解に言及されたことが、さも宗門に疑心暗鬼を生じたとでも言いたいがために、お言葉を切り文しているのである。これは欺瞞以外の何ものでもない。
 また、大石寺が再度乗っ取られるというのも思いつきなら、大客殿を破却し建てかえるというのも思いつき。その大客殿落成式の時に突然正本堂の破却を思いつき、すぐに御遷座という手回しの良さ。その後の正本堂破却、奉安堂建立≠ネどと言いたい放題のことを述べているが、何度でも言う。これらの言は子供の悪口ではないか。大客殿の建て替えは偏に耐震性によるものであり、客殿落慶大法要の時に大御本尊の御遷座を思いついたものなら、あのように整然と何の支障もなくスムーズに行われるはずがあるまい。自称正信会内でこのような稚拙極まる主張がまかり通る以上、会そのものがいかに俗悪であるか、その程度が知れるというものである。
 また、大石寺が再度乗っ取られるというのも思いつき≠ネどと述べているが、池田大作が宗門から破門されてもなお、宗門を乗っ取りたいとする野望を持っていたことは事実である。池田大作は、
「須弥壇下には800万の『御供養者名簿』が厳然と常に大御本尊と共にある(中略)『民衆の正本堂』を、ハイジャックか何かのように乗っ取り、横取りし、我がもの顔に居すわる悪人が出現したとみることができよう」(聖教新聞平成三年一二月一〇日付)
「大御本尊を直接納め奉る『宝筐』の裏側である。大御本尊に最も近い場所に、私の名前を刻まれたのである(中略)私は、この話をこれまで、あえて語らなかった。しかし、後世のために、きょう初めて、真実を、ありのままに残させていただく(中略)この厳粛な『事実』はだれびとが壊そうと思っても壊せない」(聖教新聞平成五年一〇月一七日付)
と、正本堂がハイジャックされている∞大御本尊と自分は常に一緒だ≠ネどと述べ、あわよくば正本堂、ひいては宗門を乗っ取りたいとの願望を捨てきれずにいたのである。このことは事実なのであり、思いつきなどではない。日顕上人は唱題によってさらにこの感を深められ、ついにはこれらの禍根を断つためにも、正本堂解体を決意されたのである。
 日顕上人の御教導に思いつきなどというものはない。血脈御所持の上から御仏智を拝しつつ、常に正しく宗門を導いておられるのである。

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