19〔池田批判〕
池田批判の前に阿部師は自己批判を!≠フ怨言(えんげん)を哀れむ

 「池田大作氏は法門が判らず、仏法に対する根本的な邪見があります。戒壇論についても、御本尊の拝し方についても、そのような根本的なところからの邪見があるのです」(平成4年1月28日・法華講支部指導教師指導会)
「池田大作に大きな我見・我意、仏法に対する大きな過ちがあり、未熟なる教学観しか持たないにもかかわらず、自分が一切の中心であり、歴代法主よりも自分の仏法上の領解のほうが勝れておるというような我慢・増上慢が根本に胚胎いたしまして、今日のような状態を来たしておるということであります」(平成4年3月29日・法華講連合会第二回壮年部大会)
「それも実に浅はかな教学であったようだけれども、やはり根本的に信というものがない故に、我見に執われて邪義を唱えるようになってしまったのです」(平成4年8月28日・全国教師講習会)
「池田大作という凡夫が、専門家から見れば吹き出したくなるような程度の低い者でありながら、『大聖人の三大秘法は、このようなものである』といって得々と述べたのが今までの彼の指導であります。それが基本となって創価学会が、大聖人様の三大秘法から全く離れた、大きな誤りを犯してきておるのであります」(平成5年1月20日・福岡布教区)
「しかも、池田大作なる人間は、名聞名利に凝り固まった、一つの迷える衆生に過ぎません。そういった迷った人間を尊く考えるところに、大きな信仰上の誤りと狂いが存するのであります。そういう考えをもって行っておるところに、知らず知らずに大きな罪障を積んでおる」(平成5年2月24日・東中国布教区)
「今、世間の人は、池田大作の本当に悪いところを知らないわけです。つまり、創価学会であらゆる機関と財力を使って池田を大宣伝しており、それに乗せられた人々は、その仏法的、社会的、様々な上からの諸悪の根源が、池田大作一人にあるのだということを知らないのです。したがって、池田大作は人格的にも優れた人だというように思っている政治家などもいるようです」(平成5年5月23日・中部布教区)
 このような池田氏への批判は平成3年以降枚挙に暇がない。
 しかし、「法門が判らない」「未熟な教学観しか持たない」「浅はかな教学しかなく」「根本的に信がない」「程度の低い者」という池田氏を必要以上に持ち上げ賞賛していたのはどこのどなたであったか。
 その池田氏を誉め讃えた発言も挙げればきりがない。
 この項ではどうやらコメントはあまり必要なさそうだ。平成3年以後の阿部師の発言と、次にあげるそれ以前の発言を見比べていただければ、その無節操さと無責任さは一目瞭然。
「次に三代池田会長の時代には更に七百五十万世帯を達成され、未曽有の正法広布がなされたのであります。これ、まことに歴代会長の優れた指導力によるものであり、昭和年間における正法広宣流布の相は、その短い期間において多大の実績を残された点、世界宗教史にも類例を見ない特筆すべきものであって、その宗教的意義はまことに大きいというべきであります」(昭和55年11月26日・創価学会創立50周年記念幹部登山)
「創価学会の牧口初代会長、二代・戸田会長、そして三代・池田会長等、強信の方々が出られて、この正法を日本ないし世界に広宣流布をいたされました。この大きな功徳は実に仏祖三宝の照覧あそばすところと存じます」(昭和62年5月7日・養源寺)
「また第三代会長・池田大作先生はさらにその跡を受けて、六十六世日達上人の深意と加護のもとに本尊流布の浄業を進められ、さながら燎原の火の如く偉大な広布の成果を招来したことは我々の記憶に新しいところであります。――さらに海外における弘法の足跡は百十五カ国に及んでおります。これらは現総講頭・池田先生の外護と、ならびに広布の指揮の賜物であると存じます」(平成2年5月1日・大行会)
 とにかく、このように池田氏に対する評価を一八〇度平気で変えてしまいながら、自分自身に対する反省は全くないのが阿部師である。

 御法主日顕上人猊下の御発言について、貴殿らは鸚鵡のように、変わり映えのない批判を繰り返しているが、同一の対象であっても、評価が百八十度変わることがあるのは当然である。まして、池田大作・創価学会の場合は、血脈に対する姿勢が、信順から反逆へと一転したのである。御法主上人の御指南の変化はこの正が邪へと反転した池田大作の変化に対する評価であり、これも小学生でも理解できる道理ではないか。それを貴殿ら自称正信会は池田氏に対する評価を一八〇度平気で変えてしまいながら、自分自身に対する反省は全くないのが阿部師である≠ニ言うのである。正しい信仰に励んでいた創価学会を褒められ、邪義に転落した池田創価学会を破折される日顕上人猊下に反省すべき理由がどこにあるのか。貴殿らが自らの低劣な見解を棚に上げ、御法主上人の反省がないと批判する言こそ、誠に無慙無愧と言うほかはない。
 所詮一切は、本門戒壇の大御本尊と血脈法水が中心なのであり、これに背けば、それが他のいかなる価値基準における大善であったとしても、仏法の上では極悪となるのである。したがって御法主日顕上人猊下の池田大作批判は至極正当なことであり自己批判の必要など全くないのである。

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