23〔独善性〕
二人のお山のガキ大将 一人は本山私物化 一方は名聞利養に奔る≠フ弄言(ろうげん)を大喝す

「そして、できれば縁のあるところ、色々な狂ったことを言っておる者が、特に創価学会員に多いですから、彼等の言っておることは法門の所対、段階を無視したところの、大聖人様に背反する大謗法であり、それが池田大作の率いる創価学会の今日の姿であるということを確信して、たとえひとことでも『あなた達は御戒壇様にお参りができない。この姿がまさしく大謗法である』と、このひとことでもよいのでありますから」(平成9年11月1日・徳妙寺)
 阿部師の無慈悲極まるひと言。善導すると大見栄を切って十年。できないとなると破門にしておっぽり出し、お参りできなくしておいてその「姿がまさしく大謗法」と言うのでは「この玩具お前らには見せないし、貸してやらないもん」とガキ大将が得意になってる構図と同じではないか!

 貴殿ら自称正信会が、総本山への登山について云々することは、全くの筋違いである。総本山を求めて創価学会を脱会した檀徒達の信心を自分たちの都合だけで踏みにじり、未だに総本山に参詣することを妨害阻止している自称正信会の貴殿らには、たとえ一言半句たりとも登山について語る資格などない。その醜い邪念に満ちた己の心を恥じることなく、よくもこのような誹謗が言えたものである。自称正信会から法華講に移った信徒たちは、それこそ怒髪天を衝く、忿怒の形相で、許すべからざる貴殿らの所業を睨んでいるのだ。
 信徒に対する御開扉願いは、平成三年七月二日に登山方式を改正し、全ての信徒が各所属寺院の添書によって、総本山に参詣し御開扉を願い出ることになった。これは平成九年十一月末日に創価学会員が信徒の資格を喪失するまで創価学会員であっても本宗信徒である立場から、同様に認められていた措置である。その七年あまりの間、破門された謗法団体の創価学会に所属していても、本来は本宗寺院の所属信徒であるという従来の因縁や経緯から、破門後直ちに参詣停止にはせず、門戸を開いたままで長い目で見守っていたのである。これはひとえに御法主日顕上人猊下の御慈悲以外の何ものでもない。
 御法主上人・宗門はどこまでも日蓮大聖人、日興上人の御心を心として、判断し対処しているのである。それがたとえ凡眼凡智には、損であっても、不利であってもである。正法弘通は衆生救済のためであるが、一切衆生に対し真の成仏の道を開くことこそ、真の衆生救済なのである。真の成仏の道とは、どこまでも本門戒壇の大御本尊と血脈法水という、下種仏法の正体に通ずる道である。下種の法体を正しく示さなければ、正しい衆生救済はないのであり、ここを中心としない在り方は、すべて邪道なのである。貴殿らのような信念薄弱の者は、臆病心が先に立つから、創価学会への対処も誤るのである。
 また日顕上人が、創価学会員に対して「『あなた達は御戒壇様にお参りができない。この姿がまさしく大謗法である』と、このひとことでもよいのでありますから」と話してあげなさいとの御指南は、無慈悲どころではなく、大慈悲の破折である。ならば貴殿ら自称正信会に問う。日興上人は退転の弟子に対して「背き了んぬ」と記されたが、貴殿らは日興上人の御指南も無慈悲というのか。
 貴殿らは昭和五十四年以降、信徒善導を志す御先師日達上人のお心や宗務院の指導に背いて、信徒イジメに奔走したではないか。その姿こそ、無慈悲そのものであった。また貴殿らは傲慢や狡猾や姑息ばかりが目に付き、仏弟子としての威厳や慈愛や余裕など、かけらほどもなかったではないか。あのような態度では大聖人の弟子といえるわけがないであろう。己の姿を忘れて御法主日顕上人猊下を貶めるとは、何事ぞ。閻魔法王の厳しい裁断をうけて、後悔の涙を思う存分に流すがよい。

 対創価学会の発言であるが、正信会も同列にして自分の言うことをきかないものは全部悪であり謗法であるという論法であるから一言加えておく。「こんな詐称管長はもういらない!」

 何度も言うが、「詐称管長」の言は御先師日達上人に対する最大の誹謗であり侮辱であって、師敵対これに過ぎるものはない。血脈相承は御法主上人の最大事であり、日の西より出るとも、大海の満ち干ぬことはあろうとも、これをなさらないことはない。なぜならばそれは仏法の断絶を意味するからである。
 謹んで信拝するに、血脈相承とは日蓮大聖人の仏法、すなわち大聖人の色心常住の秘術である。それを断絶ありと言うのは、大聖人をして仏に非ずと言うことと同じである。貴殿らは、不信の根源、謗法の極致なのである。


ところで、他人のことはよく分かるものと見え、阿部師御用達新聞『慧妙』(平成14年10月16日発行)下欄の「降魔の剣」に、
「勲章を『小児のおもちゃに似ている』と書いた芥川龍之介。学会の機関誌は、まるで欲張りの子供が、全身に勲章をたくさんぶら下げ『ボクはこんなに偉いんだぞ!エヘン、プイプイ』と言っているような池田の写真を、洪水のごとく掲載しているが、勲章をぶら下げる池田も池田、それを宣伝する組織も組織だ」と自分たちのことは棚にあげて言っている。
 どっちもどっち、成仏のために善導できなかった阿部師の罪と罰はどうしようもなく大きい。そのことを懺悔する気持ちもなく、ただただ思いの通りにならない池田氏を罵倒するだけでは、宗教界のみならず世間の人々の物笑いになるだけである。

 日達上人は昭和五十四年五月二十九日の御指南に、
 「学会が正しく日蓮正宗の教義を守り、正しい信心をして、また世間の人を折伏していくのならば、我々はそれに準じてどこまでも学会を守り、学会を信徒団体として受け入れていかなければならないのであります(中略)いまになっても『学会が、ああではない、こうではない』と、こちらから言うことはいけません。(中略)ですからみなさまが相変わらず今年の五月三日以前のような態度であっては、宗門としてはまことに困るのであります。やはり宗門の僧侶は、僧侶としての足並みをそろえて宗門を守り、宗門を発展させていかなければならないと思うのであります」(日達上人全集二‐七‐三三九)
と仰せのように、五十二年路線に対する反省を誓った池田大作・創価学会を見守る方針を確認された。
 日達上人より御相承を禀けられた日顕上人は、日達上人の方針を守られて創価学会を善導されたのである。それに対し貴殿ら自称正信会は、日達上人、日顕上人の御指南に従わず、創価学会批判に終始するばかりで一向に善導しようとしなかったではないか。善導とは、この日達上人の御指南を実践してこそ善導なのである。池田大作を善導できなかったのは貴殿らであり、その罪と罰はどうしようもなく大きい。
 また貴殿らは、懺悔する気持ちもなく、ただただ思いの通りにならない池田氏を罵倒するだけでは、宗教界のみならず世間の人々の物笑いになるだけである≠ニ言っているが、『開目抄』には、
  「愚人にほめられたるは第一のはぢなり」(新編五七七)
と説かれているのであり、謗法の宗教界や謗法の人々に笑われることは、むしろ誉れではないのか。所詮、どっちもどっち≠ネのは、貴殿ら自称正信会と創価学会である。

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