24〔政治〕
創価学会を破門! 私党の公明党与党になってさあ大変!≠フ漫言(まんげん)を戒む

「やはり政治という立場は仏法そのものの立場と同一ではありません。けれども今、我々が公明党について考えるときに、日蓮正宗の信徒として大聖人様の仏法を日夜に受持信行する多くの人々の手によって立候補者が出、そして当選をして国政に参加しておるのであります。その根本には大聖人様の仏法の信心をもって、信徒として大聖人様の大慈悲の、また正しい仏法の精神を一番根底に置いて一切の民衆の真の幸せを図っていこうということであると私は思いますが、そうであるならば公明党の働きというものは、我々僧侶の立場からも大いにそれを理解していかなければならないと思うのであります」(昭和61年6月26日・富士学林研究科開講式)
 公明党が池田創価学会の私党であり、一般国民よりも創価学会員を、それよりは池田氏個人を最優先に守るための政党であることは、とっくの昔に正信会では把握していたことである。
 皮肉なことに阿部師は「政治的」に池田創価学会と手を取り合って正信会を弾圧し不当処分をした。その時に、もし「信仰的」な判断を優先させたならば、ここまで法を下げ恥を天下にさらすことはなかったのである。経済力をあてに安易な政治的妥協をしたばかりに、宗開両祖のお叱りを自分のみならず、宗門全体に蒙ってしまった。
 はじめから創価学会の善導を優先し、真摯に対処していれば、これほどの見苦しいことにはならなかった。そして創価学会にも怨まれずに済んだことであろう。はじめ創価学会に媚びて絶賛した言葉と破門後の言動があまりにかけ離れているから、恨みは増幅するのである。今や宗門僧侶の大半も阿部師不信に陥っている。恨みすら感じていることに気づかねばならない。
 ちなみに阿部師は自分の変わり様を「君子は豹変する」と悦に入っているそうだが、その豹変の意味は広辞苑によると、本来君子が過ちを改めて善にうつることのきわだっていちじるしいことをいうのだが、俗にどんどん悪い方ヘ変わることも意味する。むべなるかな。

 終始支離滅裂な貴殿らの論法ではあるが、特に当項は、表題の私党の公明党与党になってさあ大変≠ニ中身の文章が全くかみ合っていないではないか。つまり当項の内容は、学会が血脈に信順していたとき、日顕上人が「公明党を理解するように」と仰せられたお言葉を挙げ、次に日顕上人が「政治的」に池田創価学会と手を取り合って自称正信会を弾圧し不当処分をした≠ニ邪難しているのである。表題の公明党与党になってさあ大変≠ニいう話はどこにも見あたらない。貴殿ら自称正信会の犬・野干どもは、師子王に吠える体すらなしていない。
 そもそも公明党の起こりは、
「大聖人のおおせにも仏法は体、世法は陰の如し、とあるが陰の面での発展も広宣流布には欠く事が出来ない、折伏活動と相まって文化部員の手で日本全国に立正安国論の大哲理たる邪教一掃の必要を知らしめ同論に説き尽くされておる安国の大原理を実現出来る様大いに努力を尽くすべきである」(聖教新聞昭和三十年四月三日付)
とあるように、『立正安国論』の御金言の如く、政治の場に仏法の精神を反映させていきたいという戸田城聖氏の純粋な信仰心の発露からなるものであった。それについての是非は論ずるべくもなかろう。六十四世日昇上人、六十五世日淳上人、六十六世日達上人、いずれの御歴代上人におかれても、それを一応お認めになられているのである。つまり、大聖人の仏法の精神を以って、政治に対処する。このこと自体は何ら悪いことではないのである。
 今となっては公明党は、日蓮正宗から破門された創価学会が支持母体の政党であるが、当時はその学会も日蓮正宗の信徒団体であったのである。そして何より御先師日達上人が、創価学会・池田大作の懺悔により昭和五十二年路線の謗法をお許しになられ、創価学会の存続を認められたのである。その上においては弘教の規模に応じて政治家が出たり、またそれに協力する人間が現れることは趨勢であり、その活動を理解していかなければならないことは自明である。
 御当代日顕上人は、御先師日達上人が昭和五十二年謗法路線を許され、学会に対する善導和合路線を打ち出された跡を承けられ、その上で会員が政治活動を行うことを「理解せよ」という至極当然のことを御指南されたまでである。その当然のことを非難する、自称正信会の者どもこそ、日達上人に対する師敵対である。
 また、貴殿らは、もし「信仰的」な判断を優先させたならば、ここまで法を下げ恥を天下にさらすことはなかったのである。経済力をあてに安易な政治的妥協をしたばかりに、宗開両祖のお叱りを自分のみならず、宗門全体に蒙ってしまった。はじめから創価学会の善導を優先し、真摯に対処していれば、これほどの見苦しいことにはならなかった≠ネどと言うが、御法主日顕上人のとられたあらゆる措置は、血脈付法のお立場より、御本仏大聖人、御歴代上人の御意を体して行われたものであり、全てが「信仰的」判断によっているのである。けっして経済力をあてに安易な政治的妥協をした≠ネどということはない。まさにこのような根も葉もないことは、為にする言いがかりでしかない。見苦しいことにはならなかった≠ネどと言うに至っては、言語道断の迷見である。日顕上人のお振る舞いに見苦しい≠ネどということは微塵も当てはまらない。
 貴殿らこそ「檀徒大会」で二度までもご臨席を仰いだ御法主日顕上人から、御先師日達上人の御心を踏みにじる自分たちの行動を誡められると、一変して日顕上人には血脈がないなどと言い出す始末だ。さらに日蓮正宗からはとうの昔に破門されているのに、未だに「日蓮正宗」を詐称し、偽りの袈裟・衣をまとう。そのような自称正信会の者どもを指して見苦しい≠フ権化と言うのである。
 また日顕上人が自分の変わり様を「君子は豹変する」と悦に入っている≠ネどとありもしないことを述べるものではない。豹変の意味は広辞苑によると、(中略)俗にどんどん悪い方ヘ変わることも意味する。むべなるかな≠ネどと語句の解説までして得意になっているが、そういうのを「愚の骨頂」と言うのだ。

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