25〔反省・懺悔〕
池田氏復権のシナリオを書いたのは阿部師だ≠フ違言(いげん)を糾(ただ)

「最近における創価学会の宗門に対する攻撃は、まさに『山崎・八尋文書』『北条文書』等の『宗門支配か、しからずば独立か』との野望を、そのまま密かに懐き続け、機会を窺っていたことを示すものであり、昭和五十二年路線の反省が、まさしく欺瞞であったことを証する、無慙無愧の著しい背信行為といわなければなりません」(平成3年11月28日・創価学会破門通告書)
「しかしながら、創価学会の飽くなき誤りの野望は、その根底においてはいささかも反省されておりませんでした」(平成5年9月26日・茨城布教区)
 臆面もなくこんなことがよく言えたものだ。池田氏の五十二年路線の反省など、初めからポーズに決まっているではないか。しかもそのシナリオを書いたのは阿部師自身である。
 昭和55年4月6日、代替式に於て阿部師は、
「池田名誉会長は、特に今月二日の聖教新聞に『恩師の二十三回忌に思う』と題する所感を投じ、過去の種々の面を総合的に含み、且つ要点を括って根本的な反省を致されております。私はこれをまことに誠意と勇気に充ちた、また深い信心を根本とする仏祖三宝への懺悔と受けとめるものであります」
と発言している。
 この池田氏の所感が前提となって
「『現在、創価学会がその基本・原点において今までの弊害を相当程度に自覚・反省している』との心証を持っております」(昭和55年1月26日・第4回檀徒総会)
「学会は反省している。改めている」という強引な阿部師の判断の押し付けが始まったのだ。
 ところが、昭和58年10月31日、池田氏は山崎正友三億円恐喝事件の証人として出廷した際、この「所感」について
 「内容は若干知っているが宗門からまだ正信会、檀徒達が静まらないから、名誉会長にもう一度謝って欲しいとの要請があった。宗門と何回も折衝して、首脳との打ち合わせの上で、幹部が書いた」と証言しているではないか。
 しかもその所感たるや「私自身信仰の根本を一度たりともはずした事は断じてない」等と、開き直っていることでもわかるように、いやいやながらの謝罪であった。
 すなわち、この所感の反省は代替式を前にした阿部師が、学会首脳や池田氏と綿密に打ち合わせた、シナリオ通りの茶番劇だったのである。
 全く同じ延長線上に「山崎・八尋文書」「北条文書」に対する阿部師の処し方があった。
「水面下に潜った悪い考えによる洗脳がずっと行われてきたようでありますが、うかつにも私は、そのような謗法の流れがあるということをほとんど知らなかったのであります」(平成4年11月29日・大阪布教区)
 今さら「うかつにも知らなかった」とはなんとも白々しい。知っていながら、あえて問題視しなかっただけである。まさにあいた口がふさがらない。

 何度でも言う、学会の反省を許すという判断をなされたのは御先師日達上人なのである。例を示せば、昭和四十九年七月二十七日の「宗門の現況に関する説明、並びに指導会」においても池田大作の日蓮正宗を乗っ取らんとする「日蓮正宗国際センター」構想について破折された後、
「学会が来なくて、こっちが生活が立たないというならば、御本尊はまた御宝蔵へおしまいして、特別な人が来たならば、御開帳を願う人があったらば御開帳しても良いという私は覚悟を決めたわけです」(四十九年七月二十七日お言葉)
と仰せになり、宗門の善導に従わないのであれば、出来たばかりの正本堂から御宝蔵に本門戒壇の大御本尊を御遷座することも辞さないという断固たる御決意を述べられた。しかし、
「(池田大作が)自分らの教義の間違ったことがあるならどんどん指摘してくれと、自分らも一生懸命に今までの考えをやめて、正しい教義をし、やりますからと、お互いに手を握りあってやりましょうと握手しました。そして共にやっていこうと思っております」(同)
と、考えを改め反省するならば血脈付法の御法主として御慈悲の上からそれを許し、善導していくのであるという、その精神は常に一貫してお持ちであられたのである。
 だからこそ、日達上人は本尊模刻等一切の謗法を反省の上に許され、昭和五十四年にも再度、御遺言とも拝すべき善導和合路線を打ち出されたのである。貴殿らは池田氏の所感が前提となって(中略)「学会は反省している。改めている」という強引な阿部師の判断の押し付けが始まったのだ≠ネどと述べているが、日顕上人は、池田大作の「所感」をもとに学会擁護の立場を取られたのではない。創価学会の行った謗法と、それに対する反省、その全てを含めて最終的に許すという判断を下された日達上人の御指南をそのまま承継されたまでである。つまり日達上人と日顕上人のお考えは全く同じなのである。
 日達上人のお振る舞いは、誤りは誤りとして指摘し、反省は反省として素直に許す、まさに仏法者の鏡とも言うべき御慈悲のお振る舞いなのである。それを池田氏の五十二年路線の反省など、初めからポーズに決まっているではないか≠ネどとは日達上人に対し奉り、ポーズにだまされていたと皮肉を言っているのか。
 そしてその後に「山崎・八尋文書」・「北条文書」等の創価学会内部文書が発覚し、それが五十二年路線の謗法の実体を一層鮮明にさせ、態々それについての釈明が『聖教新聞』紙上に載るなどして、学会を苦しい立場に追いやったのである。しかしこれは池田大作のお詫び後の発覚であり、詫びているものを過去に遡って追及する必要はないのである。
 つまり、学会のお詫び後のこの文書の発覚は、許すという当時の立場に立てば、反省をより促す材料ではあっても、追い打ちをかける材料ではなかったのである。
 また貴殿らは、池田大作が自身の「恩師の二十三回忌に思う」という「所感」について「内容は若干知っているが宗門からまだ正信会、檀徒達が静まらないから、名誉会長にもう一度謝って欲しいとの要請があった。宗門と何回も折衝して、首脳との打ち合わせの上で、幹部が書いた」≠ニ裁判で証言したことを挙げて、池田の「所感」についての日顕上人の御指南を非難するが、刑事事件という法的場面での証言と、信仰的反省の姿とを秤にかければ、信仰的な反省悔悟の姿を真実の姿であると信じるのは、宗教者として当然であろう。さらにその時点で、ゆくゆくは宗門に反旗を翻そうとしている人間が、事を遂げる前に本心を明かして形勢を不利にしてしまうこともおかしなことである。故に裁判での証言がそのまま本心の吐露であるとは断定できないのである。つまり、裁判での証言とは別に、宗門、学会の間で路線の確認ができていた当時として、そのようなことは取り立てて問題にはならなかったのである。
 また、総理大臣などの首脳の談話やスピーチが、たとえ他筆であったにせよ、一度その名前で発表された以上、全責任が発表した本人にあるのと同じく、万一この「所感」を池田が直接作成したものではないとしても、その意義が揺らぐものではない。裁判の証言でも池田は、「自分の名前で発表した『所感』である以上、内容に責任は持つ」(取意)と証言しているのである。よって学会に再度の教義的逸脱が生じたら、「所感」の意義を徹底するようにと指導することもできたのである。
 さらに言えば日達上人の学会を許すという判断は、昭和五十三年の二度の公式のお詫びと、とにかく許していただきたいという池田の一念をお汲みになられてなされたことであり、日達上人御遷化の後に発表された池田の「所感」は、学会善導路線を肯定する材料にはなっても、否定する要素にはなりえないのである。
 御法主日顕上人は御先師日達上人の跡を承けられた御立場におかれて、反省は反省として認め、再度の誤りが生じたならば、その時それを糺して善導すれば良いと、そのお考えを全国宗務支院長会議に於ても披瀝されたはずである。
 それをシナリオを書いた≠ネどと陰謀めかしい言辞をもって日顕上人を誹毀するとは見下げ果てた者どもである。ほとんどの僧俗が当時、日顕上人の御指南に信伏し、今現在も、異体同心の団結のもとに学会の邪義を糺している。そのような中、貴殿らが池田氏の五十二年路線の反省など、初めからポーズに決まっているではないか≠ネどと言っても、一旦許すという方針が日達上人によって打ち出された以上、そのように言うことは、宵に鳴く、時機を弁えない物怪と言うべき類である。
 物事には時機が肝要なのである。御法主日顕上人猊下の御指南に従わず我見を押し通した貴殿ら自称正信会の者どもは、御法主日顕上人、御先師日達上人、ひいては宗開両祖を始め奉り、全御歴代上人に敵対した、「師敵対」と「破和合僧」の罪の重さを地獄で思い知るが良い。

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