30〔受持〕
整合性のない阿部師の指南 所詮カンジョウ(勘定・感情)の人≠フ讒言(ざんげん)を断罪す

「たしかに形だけは御本尊を受持しておるようであり、お題目を唱えてはいても、それは池田大作の濁った考えに基づいた題目ですから、地獄行きの因縁を自分で作っておるということになるのです」(平成4年11月29日・大阪布教区)
 「創価学会員はいくらお題目を唱えても、形だけだから堕地獄の因を積むだけだ」というのである。
 ところが、正信会が創価学会の謗法を追及し、見せかけの懺悔を指摘した時、阿部師は、
「いやしくも御本尊様を受持する者は、必ず即身成仏することは決定しているはずです」(昭和54年10月10日・全国宗務支院長会議)
「『創価学会は大謗法の団体だ』と言っておる人が、かなり多いのであります。それについて今日指導しておきますが、絶対に誤りであると断ずるものであります。――御本尊を受持している以上、大謗法はないのであります。もしも、御本尊を受持している人に対して大謗法呼ばわりするのであれば、これは大聖人・大御本尊に背くもの……」(昭和55年7月4日・全国教師指導会)
と、大聖人まで引き合いに出して創価学会を擁護していた。
当初の阿部師の考えでは、創価学会員は(それが形だけであっても)御本尊を仏壇に安置してお題目を唱えているので、大謗法は絶対に無いし、即身成仏は決定しているというのである。
 ところが、冒頭の平成4年の発言では「形だけ御本尊を受持して題目を唱えても地獄行き」だと言い、昭和54・55年頃の発言では「御本尊を受持しているものは即身成仏は決定している」と言う。
 ウ〜ン……、一体、創価学会員は成仏できるの?できないの?どっちなの?
そもそも「受持」という事を「御本尊を仏壇に安置すること」であると即物的にとらえて、「創価学会に大謗法もなければ成仏も決定している」という阿部師の信仰観に問題がある。
「池田大作にだまされている人達は、これも一緒になって地獄に堕ちるからかわいそうなのです。是非、救ってあげていただきたいと思います」(平成6年10月20日・神奈川教区)
今さら、何を言っているのだろうかと耳を疑いたくなる。
「第三代会長・池田大作氏の卓越したところの信心と指導によりまして今日、広宣流布の相が実に目覚ましく、日本ないし世界に弘まっておるのでございます。これはまことに、大聖人御出現以来七百年にして、真の仏法が日本ないし世界に広宣流布し、未来万年の衆生の成仏の大功徳をここに植えられるところ……」(昭和58年10月15日・法厳寺)
と言っていたのだ。
仲が良いときは「成仏決定」、ケンカになれば「大謗法・堕地獄」と、すべて自分の損得勘定ずく、その時々の感情まかせ!「地獄に堕ちる・堕ちない」も、どうやら「阿部師の胸先三寸」によるようだ。
 今頃になって、池田学会の謗法を責める前に、即座に猊座をけがし続ける事をやめ、その上で、自分の判断・行政のあやまちを深く発露懺悔し、滅罪の方途を取るべきであろう。それが今日の濁乱を修正する唯一の道である。

御法主日顕上人猊下の御指南に整合性のない≠ネどと言う貴殿らのような輩は、日蓮正宗のイロハのイの字も知らぬと言うほかはない。そのような狂った考えだから擯斥されたのであると、今更ながらに得心した次第である。御指南の意味をよく整理して考えよ。 「いやしくも御本尊様を受持する者は、必ず即身成仏することは決定しているはずです」(大日蓮四〇五‐二)
との御指南の時期は、自称正信会も、学会も、同じく日蓮正宗の血脈に信順する日蓮正宗という立場ではなかったのか。
 つまりこの御指南は、血脈に信順した上で日蓮正宗の御本尊を受持信行するならば「成仏は決定している」という意味なのだ。
そして学会が破門された平成三年十一月以降、貴殿らと同じく、血脈に背信する池田大作とそれに与同する者は、日蓮正宗の御本尊を受持しようが、その信心が狂っているが故にその受持も形だけとなり、したがって行いも大謗法となる。成仏など叶うはずはないのである。
 御開山日興上人は『佐渡国法華講衆御返事』に、
「しやう人の御のちも、すゑのでしどもが、これはしやう人のぢきの御でしと申やからおほく候。これが大はうほうにて候也」(歴全一‐一八四)
と仰せになられている。
 いくら大聖人の法門を研鑽し、御本尊を拝んでも、血脈に背けば、それは
「大謗法」なのである。
このようなことは当たり前のことであり、貴殿らの主張は、これがかつて日蓮正宗の僧侶だった者の言辞かと驚くほかない。このようなことは大謗法の悩乱者にしてはじめて言いうるものである。仲が良いときは「成仏決定」、ケンカになれば「大謗法・堕地獄」∞すべて自分の損得勘定ずく、その時々の感情まかせ!「地獄に堕ちる・堕ちない」も、どうやら「阿部師の胸先三寸」によるようだ≠ネどとの言は、悩乱の集団、自称正信会の中でしか通用しない讒言であると言っておく。
日顕上人の池田大作に対する処し方は、池田大作がかりそめにも血脈に随順し、日蓮正宗の布教に功績があるのなら、その功績は功績として素直に賞賛し、また誤りがあれば、誤りは誤りとして指摘し更生させんとの御慈悲の上に、全て一貫されているのである。
 池田大作はいつしかその御教導に従わず、ついには第六天の魔王に信心を破られ、仏法の道理に背いて日顕上人に背反していったのである。そのような者に対しては徹底した破折をしていくことは当然であり、それこそ慈悲そのものではないか。
貴殿らは日蓮正宗から破門されてより、積年の大謗法の罪過によってあらゆるものが歪んで見えるらしい。貴殿らの言動の全てに一分の理もないことを、仏法の理に照らして断言するものである。


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