一、日精上人への疑難と日亨上人の注記について


一、日精上人について

 日精上人は、総本山第十七世として、宗開両祖以来の血脈を継承され、御法主として、門下の教化育成、布教興学のための著述、諸堂宇の整備建立など、宗門の復興に多大な業績を残されたお方である。

1 曼荼羅御本尊正意

・末寺及び信徒への曼荼羅御本尊授与
 日精上人は、御生涯を通じて宗祖日蓮大聖人を御本仏と仰ぎ、曼荼羅御本尊を本宗信仰の根幹とされていた。それは、総本山御影堂の板御本尊、六壺の板御本尊、常在寺・細草檀林の板御本尊を造立遊ばされ、さらに多くの御信徒に曼荼羅御本尊を書写し、授与遊ばされていることからも明らかである。また総本山の客殿及び了性坊、さらには、常在寺などの宗祖御影も日精上人の造立・開眼によるものである。

  ・『日蓮聖人年譜』における造像家日辰への破折
 今回、創価学会でも認めたように日精上人は『日蓮聖人年譜』において日辰の『或ル抄』を引用し、その邪義を、
三大秘法の義を取ること偏に取るが故に相違甚多なり此ノ故に今之レを挙ケて以て支証とするなり。(富要五―一二〇頁)
と破折されている。

・日精上人の造像を否定する文証
精師御教語に曰く 今世の愚昧の人を教化して受法せしめん此の功徳は八万四千体の白仏を造て供養し給仕する功徳よりも勝れたる也云々。一人受法するときは八万四千の煩悩即菩提となる。何んそ木仏八万四千体造立するとも此の功徳に及ぶ事を得んや。(秘釈独見)
 
2 御功績に関する文証

・日量上人『続家中抄』
諸堂塔を修理造営し絶を継ぎ廃を興す勲功莫大なり、頗る中興の祖と謂ふべき者か。(富要五―二六八頁)

・日亨上人
日精上人の時に新しき江戸の都に布教を為されて、末寺も殖えた本山の伽藍も拡大せられて面目を一新したばかりでない、自門の檀林も出来て学僧も多くなり、布教も盛んになつた。(日蓮正宗綱要五)

3 日精上人に対する日寛上人の尊崇

・総本山久成坊、寂日坊の常住御本尊はともに日精上人お認めの御本尊を日寛上人が板御本尊に造立し、開眼遊ばされている。
 久成坊の御本尊造立は亨保六年四月、寂日坊の御本尊造立は亨保七年五月のことであり、その時期は日寛上人が一度御退座されて日養上人が総本山の御当職であられた。にもかかわらず、御隠尊の日寛上人が自ら造立・開眼なされたことは、発心の師であり、功績莫大な日精上人に対して深く尊崇遊ばされていたことを示すものである。
 また『文底秘沈抄』には、
而して後、法を日目に付し、日目亦日道に付す、今に至るまで四百余年の間一器の水を一器に移すが如く清浄の法水断絶せしむる事無し
(六巻抄六五頁)
と仰せられ、第二十六世日寛上人に至るまで血脈法水は清浄に相伝されていることを教示されている。この清浄の法水を継承された御歴代上人の中に日精上人が在しますことは当然である。

二、『随宜論』について

 日精上人が造像されたことを記述した文献は、随宜論のみである。
 『随宜論』の奥書には、
右の一巻は予法詔寺建立の翌年仏像を造立す、茲に因つて門徒の真俗疑難を到す故に朦霧を散ぜんが為に廃忘を助けんが為に筆を染むる者なり。
(富要九―六九頁)
と著述された理由が書かれている。

1 敬台院について

 敬台院は、織田信長・徳川家康の曾孫に当たり、阿波藩主蜂須賀至鎮(はちすかよししげ)の正室という高位の檀越であった。その性格は強い気性の持ち主であり、要法寺の影響を受けて造像に執着した時期があった。
 寛永九年には大石寺御影堂を寄進し、寛永十九年には細草檀林を創設し、正保二年には江戸法詔寺を阿波徳島に移して敬台寺(きょうだいじ)を創建するなど、宗門興隆のために多大な貢献をし、寛文六年、七十五歳をもって寂した。
 なお、『続家中抄』によれば、御影堂建立の後、一時期、日精上人との間に確執を生じ、そのため日精上人は大石寺を退出されたが、後に和睦したといわれている。

2 法詔寺(ほうしょうじ)の建立と造像の背景


 法詔寺は敬台院が亡き母の供養菩提のために発願して江戸鳥越に建立された寺院であり、敬台院の持仏堂というべき性格の寺であった。
 日精上人は敬台院の本宗への信仰を将護しつつ、正信に善導するための一旦の善巧方便として造像を容認されたとみるべきである。
 法詔寺の規模から見ても、長期にわたった造営中に仏像作製が可能であったにもかかわらず、仏像が造立されたのは法詔寺建立の翌年であったという事実は、日精上人の造像制止の意思が働いたものであり、建立時には曼荼羅御本尊が安置されていたことが明らかである。
 しかし、敬台院の強い希望があったため、その後やむなく造像することになったものと推測する。

3 『随宜論』述作の理由

 当『随宜論』の奥書にもあるように、「門徒の真俗」の疑難から高位の檀越の信仰継続の意志を守るために、日精上人が敢えて一旦の方便として造像擁護の旨を書き記されたのである。
 もし、日精上人が率先して法詔寺に仏像を造立されたとするならば、御登座以来、末寺や信徒に曼荼羅御本尊を書写され、授与されている事実と食い違う。
 また日精上人が造像論者であったならば、総本山をはじめ大石寺の末寺に造像をしていたはずである。しかし、そのような事実を証明する宗内の記録も形跡もまったくない。

4 日精上人の造像に関する疑難

 日精上人の造像に関する記述は、次のようなものがある。

@寿円日仁(要法寺三十一代日舒)の疑難
   『百六箇対見記』
一、付たり寛永年中江戸法詔寺の造仏千部あり、時の大石の住持は日盈上人後会津実成寺に移りて遷化す法詔寺の住寺は日精上人、鎌倉鏡台寺の両尊四菩薩御高祖の影、後に細草檀林本堂の像なり、牛島常泉寺久米原等の五箇寺並に造仏す、又下谷常在寺の造仏は日精上人造立主、実成寺両尊の後響、精師御施主(富要九―七〇頁)

A北山日要の疑難
寺社奉行所への訴状(元禄二年十一月十六日)
一、下谷常在寺は大石寺先代日精開基にて釈迦多宝の両尊上行等四菩薩鬼子母神等造立仕り数十年の間安置せしめ候処に、日俊造仏堕獄の邪義を盛んに申し立て、彼の仏像を悉く去却せしめ候、しかのみならず牛島常泉寺にも古へより両尊四菩薩を安置せしめ候処に、是れをも頃年日俊悉く去却せしめ候、拙僧檀那伊右衛門の仏像は去年中去却せしめ候事(本宗史綱六七一頁)

B日因上人の批判
精師御所存ハ当家実義と大相違也(日因上人注)

C日亨上人の批判
殊に日精の如きは私権の利用せらるる限りの末寺に仏像を造立して富士の旧儀を破壊せる(富要九―五九頁)

日精に至りては江戸に地盤を居へて末寺を増設し教勢を拡張するに乗じて遂に造仏読誦を始め全く当時の要山流たらしめたり(富要九―六九頁)

・『随宜論』についての注記
本文※は造仏読誦の文証議論なり(※随宜論・富要九―六九頁)

・『日蓮聖人年譜』の頭注
総別ハ法ノ本尊ノ立テ方ニ付テ本師未タ富士ノ正義ニ達セザルナリ本師ノ所論間々此底ノ故山ノ習情隠顕ス注意スベシ(富要五―一一八頁頭注)

本師又謬義ヲ露ハス惑フベカラズ(富要五―一一九頁頭注)


・『家中抄』の頭注
蓋経ノ末巻ニ此意ナキニアラズ蓋シ本師造読家ノ故ニ誇大セルガ如シ惑フナカレ(富要五―一七六頁頭注)

本師造像家ナル故ニ此ノ疑文ヲ依拠トスルカ(富要五―二一三頁頭注)

本師造仏ノ底意ヲ顕ス(富要五―二三八頁頭注)

三、宗開両祖の造像に関する御教示

1 日蓮大聖人の御教示

  ・『真間釈迦仏御供養逐状』
釈迦仏御造立の御事。無始曠劫よりいまだ顕はれましまさぬ己心の一念三千の仏、造り顕はしましますか。はせまいりてをがみまいらせ候はばや。
(新編四二六頁)

  ・『四条金吾釈迦仏供養事』
御日記の中に釈迦仏の木像一体等云云。(中略)此の画木に魂魄と申す神を入るゝ事は法華経の力なり。(新編九九二頁)

  ・『日眼女釈迦仏供養事』
三界の主教主釈尊一体三寸の木像造立の檀那日眼女。(中略)釈尊一体を造立する人は十方世界の諸仏を作り奉る人なり。(新編一三五一頁)

  ・『四菩薩造立抄』
一、御状に云はく、本門久成の教主釈尊を造り奉り、脇士には久成地涌の四菩薩を造立し奉るべしと兼ねて聴聞仕り候ひき。(中略)今末法に入りぬれば尤も仏の金言の如きんば、造るべき時なれば本仏本脇士造り奉るべき時なり。当時は其の時に相当たれば、地涌の菩薩やがて出でさせ給はんずらん。先づ其の程に四菩薩を建立し奉るべし。尤も今は然るべき時なりと云云。(新編一三六八頁)

2 日興上人の御教示

  ・『原殿御返事』
日蓮聖人御出世の本懐南無妙法蓮華経の教主釈尊久遠実成の如来の画像は一二人書き奉り候えども、未だ木像は誰も造り奉らず候に、入道御微力を以つて形の如く造立し奉らんと思し召し立ち候に、御用途も候わざるに、(中略)御力契い給わずば、御子孫の御中に作らせ給う仁出来し給うまでは、聖人の文字にあそばして候を安置候べし。(聖典五五九頁)

  ・『五人所破抄』
次に随身所持の俗難は只是継子一旦の寵愛、月を待つ片時の蛍光か。執する者は尚強ひて帰依を致さんと欲せば、須く四菩薩を加ふべし、敢へて一仏を用ゆること勿れ云云。(新編一八七九頁)

3 日寛上人の会通

  ・『末法相応抄』
今謹んで案じて曰く、本意に非ずと雖も之れを称歎したもうに略して三意有り。一には猶是れ一宗弘通の初めなり、是の故に用捨時宜に随うか。二には日本国中一同に阿弥陀仏を以て本尊と為す、然るに彼の人々適釈尊を造立す、豈称歎せざらんや。三には吾が祖の観見の前には一体仏の当体全く是れ一念三千即自受用の本仏の故なり。学者宜しく善く之れを思うべし。(六巻抄一四〇頁)

4 善巧方便の造像容認は謗法にあらず

 日蓮大聖人が一体仏を御所持遊ばされていたことについて、日興上人は、
継子一旦の寵愛、月を待つ片時の蛍光(新編一八七九頁)
と解され、日寛上人は、「弘通の初め、権実相対の立場、宗祖の観見」の三義を挙げて会通されている。また、信徒に対する造像についても宗開両祖が信徒の機根に応じて一旦の仏像造立を容認遊ばされたことは、上に挙げた御文に明らかである。『末法相応抄』において、要法寺日辰の造像義を厳しく破折された日寛上人も、宗開両祖が信徒に対して容認された一旦の善巧方便(ぜんぎょうほうべん)を謗法と断定はされていない。
 宗開両祖や日寛上人が、末法弘通の始めにあたり、大曼荼羅御本尊に導くまでの調機調養のための方便として、その時と機の特殊性において信徒の造像を容認されたことは、本宗教義の上からも謗法と断定すべきでないことは当然である。
 このことからも、大檀越敬台院への善巧方便を用いられた日精上人に対して、謗法を犯したと評価するのは、まったくの的はずれである。

5 創価教育学会の『通諜
』も会員擁護の方便
(※本来は「通牒」と書くが、原本の「通諜」のままとした。)

 特殊な状況において、一旦の方便を用いることが謗法であるか否かという点について一言するならば、戦時中、創価教育学会理事長戸田城外(戸田城聖氏の旧名)の名をもって学会幹部に対し、
皇大神宮の御札は粗末に取り扱はざる様敬神崇祖の念とこれとを混同して、不敬の取り扱いなき様充分注意すること(昭和十八年六月二十五日付)
との『通諜』が出された。
 この頃の状況について創価学会の教学部長であった小平芳平氏は、
神宮に対する不敬の態度があるとして、弾圧の準備が進められたから会長の応急策も已に遅し(富要九―四三一頁)
と記しており、創価学会が弾圧を避けるための応急策を講じたことを明かしている。牧口、戸田両氏の拘引が、ともに昭和十八年七月初旬のことであるから、この応急策と『通諜』が深い関わりをもっていたことは否めない。
 当時、創価教育学会が官憲の弾圧から会員を擁護するために指導した『通諜』に対して、宗門が謗法と断定したことはない。それは、緊急非常時における正法護持のための方便の措置と理解されるからである。
 時代の状況や背景を度外視して表面上の姿のみをもって「謗法者」と決めつけることは、愚かな短絡的発想というべきである。したがって日精上人が信徒の信仰を護るためにやむなく一旦の善巧方便を用いられたことは、決して謗法ではないのである。

四、日亨上人について

1 業 績

 日亨上人は、血脈付法の御法主であるとともに、近世の宗門における大学匠であられた。日亨上人は若くして学問の道を歩まれ、四十歳を過ぎて宗門史の研究編纂を志され、広汎にして膨大な宗門七百年の史料の調査と検討に精力を傾注された。
 大正十五年には総本山第五十九世御法主となられ、御在職期間は二年余りであったが、その間、山積する難題に対処しつつ、一宗を統率し教導に力を尽くされた。当時、苦境にあった仙台仏眼寺檀信徒への激励や、学衆のための補助制度の実施・講習会の開催など、多くの業績を残し、宗門興隆と令法久住に努められた。
 御退座後は再び学究生活に入られ、『富士宗学全集』全百三十四巻の編纂に努める傍ら、『日寛上人全伝』『南条時光全伝』『日興上人身延離山史』など、宗門史を主として多くの布教書を著された。特に近年の学究者に多大の裨益(ひえき)をもたらした『富士宗学要集』『富士日興上人詳伝』は、日亨上人の畢生(ひっせい)の労作として不変の光彩を放っている。

 2 日精上人に対する批判の理由

 宗門史全般にわたる大業を成し遂げられた日亨上人が、なぜ日精上人に対して厳しい批判の目を向けられたのか、その理由について三点を挙げて説明する。

  @先入観による誤解

 七百年間の長期にわたる広汎な史料、宗門内外の膨大な文献、これらを詳細に解読し、且つ的確に判断することは、凡人の成し得る業ではない。大学匠と讃仰(さんごう)された日亨上人であっても、その研究の中で史料の読み違いや誤解が生じたとしても仕方がないことであった。
 仮に要法寺の寿円日仁や北山日要などの日精上人造像説と『随宜論』の内容を重ね合わせて判断すれば、誰もが日精上人が造像家であったという印象を持っても不思議ではない。しかも日精上人は、造読論を強硬に主張した広蔵日辰の影響が強く残っている要法寺の御出身であるということ。このような先入観をもって、『日蓮聖人年譜』を読めば、文中において見極めがたい日辰の説を引用した部分を、そのまま日精上人のお考えと判断されたこともやむをえないといえる。また『家中抄』には、日辰の『祖師伝』をそのまま引用して要法寺三師の伝記としていることにも、造像の意図が反映されていると見えたことであろうし、文中に日辰の言葉で「久成釈尊を立ツる」とある部分にも頭注を加えて指弾すべしとの思いを起こされたことであろう。
 もし日亨上人が、『日蓮聖人年譜』において日精上人が明確に日辰の邪義を否定し破折されていることを認識しておられたならば、その他の文書に対する判断も日精上人に対する評価も、まったく違ったものになっていたことは容易に推察できる。また日因上人が日精上人を批判されたことについても、同様のことがいえるのである。
 つまり、日亨上人が日精上人を造像家と判定されたことは、実像と異なった先入観に基づく文書の読み違い・勘違いであり、不幸な誤解によるものとしかいえないのである。

 A他門からの非難に対する予防措置

 他門日蓮宗と信仰的に一線を画してきた本宗にあって、日亨上人は広く史料を収集するために、他宗他門の学者と交流された。また御登座以前には、立正大学の要請を受けて、同大学の「特別講座日蓮正宗部」を担当し講義された時期もあられた。そのような折、しばしば他門の学者から本宗の宗義や宗史に関する質問が投げかけられたという。
 こうした中で護法精神の厚い日亨上人は、本宗に伝えられる文献や史実の中に、将来他門から攻撃を受けると予想される部分には、できうる限りの手当と予防策を講ずる必要があると考えられた。
 『富士宗学要集』に収録された相伝書の中に、後加文について傍線をもって区分されているが、これも立正大学に赴かれた頃にお考えになられたものであるという。
 日亨上人にとって本宗の文献の中でも、日精上人が要法寺流の造読を主張しているように見える部分は、特に気がかりであったと推察される。
 『日蓮聖人年譜』や『家中抄』を含む『富士宗学要集』を出版することは、世間に初公開になることも考慮され、他門からの非難攻撃を未然に防ぐためには、一宗の学匠として、その責任の上から御自分で日精上人の文言の非を指摘する必要に迫られたものと拝察する。
 すなわち、日亨上人は日精上人について誤解されていたところもあるが、先に挙げた解説文や頭注に見られる厳しい指摘は、このような部外者からの論難を意識した結果であり、その根底には、唯一正しく宗祖の血脈を継承する日蓮正宗を永劫に衛護せんとする強い護法の真心がおありだったのである。

B血脈継承の御境界からの同体意識

 日精上人は、宗祖以来の法脈を伝承されたお方であり、受け継がれてきた法水は日精上人なくしては伝わってこなかったことを、日亨上人は充分に承知されていた。
 しかも日蓮大聖人の仏法を血脈相承遊ばされる御法主上人の御内証の当処は大御本尊と一体であり、御歴代の異なりや時代の壁を越えて一味平等の御境界にあらせられる。日亨上人は、御身に伝えられた法脈の尊さを深く認識された上で、その血脈継承の方に法義上の誤りは絶対にないとの確信に立っておられた。
 なればこそ、日亨上人はたとえ御歴代上人の御著述であっても、後代に対する配慮や宗門厳護のために、必要と思われる事柄に対しては闊達(かったつ)自在に批評を加えられたのであり、それによって法脈に微塵も傷をつけるものではないとお考え遊ばされていたのである。
 代々の御法主上人が御内証において一体の御境界にあられることから、その尊い同体意識をもって、御先師の文書の非と思われる点を指摘補足されたからといって、それを取り立てて部外者が誹謗の具とすることは許されざる悪業である。

3 日精上人に対する日亨上人の尊崇

 日亨上人は、日精上人の法主としてのお立場に対しては、微塵も疑義を差し挟んではおられない。むしろ日精上人を尊崇されていた御姿を拝することができる。その証例の一端を挙げる。

・日精上人造立開眼の宗祖御影「腹ごもり御本尊」を御書写
 日亨上人は昭和二十五年に、常在寺に安置されている宗祖大聖人御影像の御腹ごもり御本尊を御書写遊ばされている。
 その脇書には次のように記されている。
五十九世日亨八十四歳 昭和二十五年八月八日
東京都雑司谷区霊鷲山常在寺 日精上人造立御影像腹籠也

・『日蓮門下十一派綱要』での日精上人顕揚
 この書は、昭和初期の日蓮門下各派の教義および歴史の綱要について、他門の宗学者、北尾日大が編纂した学術書である。その中の「第二篇 日蓮正宗綱要」は日亨上人の執筆によるものであり、日亨上人は仏教関係の学者は勿論のこと、日蓮門下全般に広く読まれるであろうこの書において、特に日精上人の名を挙げ、その業績を顕揚されている。
日精上人始て江戸に教勢を張り又本山の規模を拡張す、此間専属の学林を起し教運漸く開く。(同書二九一頁)

  ・『続家中抄』日精伝には頭注なし
 日精上人の御著述に対して頭注を加えられた日亨上人は、第四十八世日量上人の『続家中抄』についても種々頭注を加えられているが、「日精伝」中の、
諸堂塔を修理造営し絶を継き廃を興す勲功莫大なり、頗る中興の祖と謂ふべき者か。(富要五―二六八頁)
との日精上人の業績を賞賛された記述には一言の批判も訂正も加えられていない。

4 日精上人に対する誤解の解消は日亨上人の御本意

 日亨上人は、永年宗史学者として研鑚を積まれた中で、一篇の史料によって従来の学説が覆されることは、当然のこととして承知されていた。
 真実を追究することがすべての学問における大目的であり、日亨上人におかれても、時代の経過の中で史料文書がより正確に解読され、正法を伝える宗門の歴史がより深く正しく解明されることを、最も望んでおられたことは言うまでもない。
 したがって、近年の研究によって、日精上人の御著述にいささかの誤りもなかったことが明確になった事実に対して、日亨上人には霊山において必ずや欣然(きんぜん)として首肯遊ばされるものと拝察する。

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